第8話
「お腹、大きくなったね」
自宅のマンションにて。春の気持ちのいい空気の中、対面に座る紗枝がほうじ茶を飲みながら感慨深げに言うのに、優衣はこくりと頷いてみせる。
ここのところ、紗枝の休みに合わせて会うことが増えた。再会した時よりも大分、柔らかく接してくれるようになったのは、少しばかり心の荷が下りた気がした。
「優衣、本当に結婚してたんだよね」
「さすがにその言い方は失礼じゃないかな?」
先週遊びに来た萌の、ますます丸くなっちゃって、という物言いよりも引っかからなくもない。とはいえ、優衣の心はただただ幸福に包まれていたが。
「別に疑ってたとかじゃない……ただなんか、こうしてお腹が膨らんでるのを見ると、実感が湧いてきたっていうか」
「それは私も、かな」
薄く笑う。兆候が出てから産婦人科に行き、おめでたです、と言われたあと、夫に満面の笑みを向けられた。たしかに喜ばしいことだと、優衣は薄っすらとした後ろめたさとともに感じた。それから、今日までの間、すべてがはじめてだらけで、夫とともに右往左往する毎日の中にいる。
「ウチも、ますます結婚したくなったけど……」
「けど?」
「コレがね」
親指と人差し指を広げて苦笑いを浮かべる紗枝に、それはたしかに、と同意を示す。だとすれば、太一はもっとも効率のいい方法を実践したんだな、とどこか他人事のように思った。
「太一と頑張ってコツコツ溜めてはいるんだけどね。なかなか、目標金額までは溜まんなくて。それとは別にバンドで行けるとこまで行きたいって気持ちもあって」
「紗枝、生き生きとしてるね」
少しばかり羨ましかった。そんな態度が出たのか、紗枝はむっとしたように、それ厭味? と尋ねてくる。
「お金がないだけだよ。あったら、色々できるんだからあるに越したことはないって。まあ、無いなら無いなりにやるしかないんだけど」
「そっか」
頑張ってほしい、と付け加えようかとも思ったが、あまりにも白々しい気がして取りやめる。対面で渋い顔をしだした紗枝の様子に、話題を変えようと小型の音楽再生機器を取り出した。
「ねえ、紗枝が良ければなんだけど」
「新曲? だったら聴く」
機器をテーブル越しに受けとりイヤフォンを耳に刺すと、途端に気持ち良さげな顔をし出す。良かった、と優衣はほっとした。
またちょくちょく会うようになったばかりの頃の紗枝は、優衣が音楽を続けることに対してあまりいい印象を抱いていなかったようだが、何曲か聴いてもらううちに、段々と態度が軟化していった。
程なくして、イヤフォンを耳から取りはずした紗枝は、
「これ『あたらくしあ』で使わせてくれない? 報酬は払うから」
曲の買い取り交渉を持ちかけてくる。ここのところは優衣の新曲を聴くたびにこんな調子だった。
「でも、お金ないんでしょ? だったら、ただでも……」
「ダメだって。こういうのはきっちりしとかないと、後々のトラブルに繋がるんだから。それに、ものすごくいい曲なんだから自信持ちなよ」
「ありがと」
いい曲だというのは、既に太一のおかげで知っていたが、こうして言ってくれるのは素直に嬉しかった。
その後、交渉を詰めたあと、残っていたほうじ茶を一気に飲み干した紗枝は、
「これでまた、『あたらくしあ』は磐石になった」
と自信ありげに笑う。優衣は頬杖をついてから、お役に立てたようでなによりだよ、と応じた。
「そんな余裕があるかどうかわからないけど……子供にも聴かせてあげられたらなって思ってるよ」
「胎教?」
「そんな大袈裟じゃないけど、子守唄とかそんな感じで」
きっと、血筋的にも音楽を楽しむ才能は充分に持ち合わせているだろう、と思う。なにせ、『あたらくしあ』の作曲担当二人の子供なのだから。父親の方もまた、ゆくゆくは楽器をやらせたい、とビール片手に話していた。
「また、ライブもしたいかも。何年後になるかわからないけど。紗枝は許してくれる?」
「なんで、ウチに聞くわけ?」
「あんまり、私がライブとかしたりするのを快く思ってないんじゃないかなって……」
優衣の不安気な伺いに、紗枝は大きく息を吐きだしたあと、おかわり、と湯呑みを向けてくる。優衣が注ごうとする前に、この女の友人の方で急須を手にとり、お代わりを注いだ。
「そりゃ、わだかまりがないかといえば噓になるけど……あの頃はあの頃なりにウチらで話し合って済んだわけで、今更、あんたのやりたいことにウチが口出す話じゃないでしょ。それに」
一端、言葉を止めた紗枝は真正面から見据えた。
「ここ最近、あんたの曲を聴いてて……ウチが一番、あんたがもう一度、人の前で演奏するのを見たいって思ってるって確信できたから。なにが言いたいかっていうと、すごく期待してるってこと」
恥ずかしげに告げた紗枝の言葉。優衣のために自らの気持ちを押し殺して口にしてくれたのかもしれない。それでも。
「ありがと」
これで太一の望みを果たせる。そのことに対しての歓びが隠せない。
夫が一緒にいる時間が増えたのもあって、会える日は減ったものの、そのたまの機会には、ちょくちょく喧嘩しながらも欲しい言葉をくれる。だから優衣自身もなんでもしたくなってしまうし、しようと思っていた。
もちろん、太一との子供ができた時はとても喜んでくれた。夫と一緒に代わりに育てる、という話をしたら、すまなそうな顔をしたけど、それが逆に可愛らしくもあった。日を合わせて、紗枝と一緒に遊びに来てくれるとも言っていたから今から楽しみでもある。
「子供が生まれたら、またバンドメンバーとか萌とか、昔の仲間とか連れてきてパーティーしようよ。なんなら、ウチらの公開独占ライブとかもしちゃうし」
「ありがとう。すっごく楽しみ」
ほうじ茶を口にする。
頼れる友人たち、安定した生活と安らぎを提供してくれる夫、なんでもしたくなるししてしまいたくなるかけがえのない恋人。
とてもとても、幸せだなぁ。紗枝と笑いあいながら、心の底からそう思った。
アウトソーシング ムラサキハルカ @harukamurasaki
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