第6話
「最近、楽しそうだね」
休日の昼頃。行きつけのイタリア料理屋を出たところで、そんなことを言われて、優衣は首を傾げる。
「そう、かな?」
「うん。なんか、少し前よりも顔に張りがある気がする」
「それは太ったって言いたいわけ」
だとすれば由々しき問題かもしれないと思う優衣に、夫は、違う違う、と首を横に振る。
「シャキッとしてるって言った方がいいかな。前向きに、生きてるっていうエネルギーを感じるっていうか」
「エネルギー、ねぇ」
なんとはなしに空を見上げる。幾重にも連なる分厚い雲は、いつ泣きだしてもおかしくなさそうだった。天を仰ぎながら、エネルギーとやらの源について考える。
「何かあった?」
腹ごなしの散歩に移行してすぐ、夫が尋ねてくるのに対して、
「作曲が上手くいってるから、とかかな」
それらしい話を口にする。実際に理由の一つではあると、優衣は思っていた。夫は、そうなんだ、と頬を弛ませる。
「その曲は僕が聞かせてもらってもいいものなのかな?」
「いいよ」
断わる理由はない。
「なんなら、今からでも聞く?」
「今から。もしかして、公園で生演奏でもしてくれるのかな。もしくはカラオケボックスとか?」
夫の問いかけに首を横に振ったあと、持ってきていた手提げ袋からイヤフォンを差した音楽再生機器を取りだす。
「これで良ければだけど」
「なるほど……そういうことね」
どことなく肩透かしを食らったような夫の声を耳にして、生演奏を期待されていたのかな、と思う。仮に生演奏となれば、普段、ギターも歌も夫がいない時に楽しんでいることが多いので、恥ずかしさをともなわなくもなかったが、今回は音源を作ってある。それはそれで別の恥ずかしさがなくもなかったが、ぶっつけ本番で親しい人の前でやるよりは幾分かましだった。
程なくして、三つ並んだ自販機の横に設けられた休憩用のベンチに腰を落ち着け、あらためて夫に再生機器を渡す。
「たいしたものではないけど」
「いやいや。じっくりと聞かせてもらいますよ」
興味深げに笑う夫の顔に、一抹の不安が過ぎったものの、隣に腰かけ審判の時を待つ。徐々に冬が近付きつつあることを実感させる肌寒さに両肩を抱いてから、ここのところ、週一で行なわれているレコーディングに思いを馳せた。
今住んでいるところから数駅離れたところにあるスタジオ。そこで太一と落ち合い、曲作りをする。結局、バンドへの復帰は断わったものの、できるだけいい物を作りたいという欲求だけは戻りつつあった。そのため、身近で最も頼りになるとわかっている相手に助力を請うかたちをとった。一週間、家で作ってきた曲や、こつこつと溜めてきたストックなんかを演奏したうえで聞いてもらう。そこにインディーズとはいえ現役のミュージシャンのアドバイスをもらう。数年ぶりにともに演奏したかつての仲間の視線はとてもシビアになっていた。
なにもかも中途半端だ。意図がぼんやりとし過ぎてよくわからん。お前の声に依存しすぎで曲自体はたいしたことないな……などなど。最初の口出しこそ気になった点に関する曖昧な印象みたいなところからはじまるものの、その後、優衣の曲に込めた思いや意図を伝えれば、それならこうした方がいいんじゃないか、と細かくアドバイスをくれる。どちらかといえば優衣の方が主導権を握っていた大学の時とは異なり、太一に理で追いつめられていく感覚は、今までにないひりひりとした感じがした。
他者に手足を縛られ、より良いものへと誘導される。諸々の生活費を夫に依存している今よりも、強い拘束されているように思えたものの、そのくびきは、決して居心地の悪いものではなかった。旧知の友人であり、一ミュージシャンである太一が導いてくれる、という安心感を、できあがった曲の手応えがより強めた。人と作るってこんな感じだったな。学生時代を思い出し懐かしくなる一方で、かつてはない誰かに引っ張られることの心強さに、胸の奥にぽかぽかしていく気がした。
そんなことを考えているうちに、夫がイヤフォンを耳から抜く。どうやら、聴き終わったらしい。自ら尋ねるのもなんとはなしにこそばゆかったのもあり、無言で反応を待っていると、夫は短く切りそろえた自らの髪を撫でた。
「そうだなぁ……声は綺麗だったと思う」
引っかかる物言いだったが、その点は先日、太一にも誉められていた部分であり、ほんの少し嬉しくなる。
ただ、と歯切れが悪そうに夫は続けた。
「普段、あんまりこの手の音楽を聴かないから、よくわからないなっていうのが正直なところだ」
素直な感想だというのはわかる。一方でどことなく気まずそうなあたり、妻である優衣を気遣っての発言であることも窺えた。
「そっか。うん……そうだよね。あなたは普段、あんまりこういうの聴かないしね」
それでも、少なからぬ落胆が、優衣の胸に響き渡った。わからないだろう、という予想自体はあっても、いいものを作れば伝わるだろう。そんな幻想を破られた。優衣自身もいまだかつてない出来だという自信があったし、手伝ってくれた太一もまた、心から太鼓判を押してくれたように見えた。
頭の中にある冷たい部分は、趣味には個人差があることや、聴きなれていないだけだろう、と淡々と事実らしきものを指摘してくるが、優衣にとって誰よりも大事な伴侶であるならば、わかってくれると、どこかで信じていた。その期待が、破られた。
「ごめん。ただ、もうちょっと聴いてみたらわかるかもしれないと思ってるよ。決して、嫌いではないから」
「ありがと。でも、無理しないでいいよ」
「無理とかじゃない。君の好きなことを知りたいんだ」
「そっか……ありがと」
薄い笑顔を振りまきつつ、夫が再びイヤフォンを耳につけるのを見守る。先程まで、優衣の胸の中にあった淡い期待は完全に消え去っていた。
案の定、夫は機器に入っていた曲を全て聴いてから、嫌いではないんだけど、とお茶を濁すように口にして締めくくった。届かなかったのだと認めざるをえなかった。
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