第5話

 私は何をしているんだろう? 自らの行いに疑問を感じつつ、優衣はコーヒーカップを持ちあげる。

「この間のライブの帰り道に、紗枝のやつ俺の背中で無茶苦茶涎を垂らしてさ。背中はぐちょぐちょだし、夜風が冷たいしで、気分は最悪だったよ」

 酔いも一気に冷めたし、その後、二日酔いだったしで、最悪に最悪が重なったな。そう付け加えわざとらしく肩を竦めてみせる太一の顔を見ていると、ますます、自分は何をしてるんだろう、という困惑が膨らんでいく。

 行きなれてない喫茶店は、照明がまばらでどこか薄暗く、人がさほどいないのもあって妙な静けさが漂っていた。太一は、洒落てるだろ? などと得意げに言っていたが、優衣からすれば不気味さの方が勝る。そんな場所にほいほい連れこまれてしまっているのだから、我がことながら神経を疑う。してしまったことなのだから、仕方がないと割り切ろうとしつつ、少し前の自らの軽率さを恥じた。


 つい三十分程前。先週と同じくらいの時刻に公園の前を通りがかると、ベンチに太一が座っていた。よお、と話しかけてくる男を、最初は無視して立ち去ろうとしたが、すぐさま待ってくれよ、と追い縋ってきたので仕方なく振り返った。

「迷惑なんだけど」

 今日にいたるまで心の中に存在する遠慮を押し殺しながら、優衣はそう言い放ってみせる。しかし、太一は怯んだ様子はなく、どことなく愛嬌のあるくしゃっとした笑顔を向けて、そんなこと言わずにさ、と頭を掻いた。

「別にいいじゃん。友だちと話すくらい」

「お互いに相手がいるのに、そういうのは良くないと思うんだけど」

 少なくともその程度の常識はあるはずだ。優衣の相手に対する淡い願いは、太一の、固く考えんなよ、という軽い言葉によって破られる。

「俺としては、旧交を温めたいと思ってるだけなんだが、それってそんなに悪いことか?」

「仮にあんたがそう思ってても、世間様はそういう風には見てくれないでしょ」

 辺りへ視線を巡らせる。幸い知り合いの姿は見当たらなかったが、もしも夫との共通の知人に目撃された場合は、あらぬ誤解を招きかねない。他の男といる、というだけでも大きなリスクだという自覚がある。

 そして太一も優衣の様子から、認識の共有を深めたのか、それもそうか、とあっさりと頷いてみせた。これで諦めてくれると胸を撫で下ろしそうになったところで、

「じゃあ、ここじゃなきゃいいな」

「へっ?」

 間抜けな声を漏らした優衣に、太一は、たしかに常識がなかったよな、と一人でひとしきり頷いたあと、ベンチから立ち上がり伸びをした。

「ちょっと、着いてきてくれよ」

「待って。私まだ」

 付いていくなんて言ってない。そう口にしようとした優衣の前に、太一は思いきり顔を近付けてきた。わけがわからず、目一杯に飛びこんでくる、昔は見慣れていた不健康そうな細面に釘付けになっていると、

「なあ、頼むよ」

 太一は拝むように両手を合わせてくる。思いのほか、真に迫った男の素振りに、戸惑いを大きくした優衣に対して、

「なんなら、今回だけでもいい。俺は、優衣とまた、仲良くなりたいだけなんだよ」

 頭を下げる太一。行動も言葉も、にわかにはどこまで信用していいかわからない。とはいえ、知り合いの欲目からか、あるかどうかも怪しい誠実さを認めてしまいたくなる。

「卒業前のことも、ずっとずっと謝りたかったんだ。あの時のお前の決断も……いまだに納得は行ってないけど、たとえ同じ結果になるにしても、もっと上手くできたんじゃないかって……今なら思うんだよ」

 それこそ今更な話だ。しかしながら、同様の心残りは優衣の中にもたしかに根づいていた。

 別の結末があったんじゃないか? その点に関しては、優衣もまた同様のことを思わなくもなかった。

 辺りを見回せば、周囲の視線が集まり出している。ここにい続ければ、知り合いにみつかるのも時間の問題かもしれないし、そもそも優衣から見えない位置から誰かしらに補足されている可能性もあった。

 僅かに悩んでから、決断を下す。

「……少し、だけなら」


 そして現在。太一の行きつけの喫茶店とやらに連れて来られてから、先週の飲み会とほぼほぼ変わりないどうでもいい話が続いている。優衣は何度か頷きながらも、微かな苛立ちを募らせた。

 こんなことのために連れてこられたの? そんな疑問を内心で湧きあがらせている最中も、太一は、今働いている建設現場での苦労や、仕事の合間合間にちょこちょことしか曲を作れないもどかしさ、今自宅で飼っている猫のサチに顔を引っ掻かれた話などの事柄を面白おかしく話す。こけた頬を楽しげに振るわせる姿を見ていると、優衣は少しずつこの時間に対する親しみが湧いてきた。

 ゆえに被せるようにして、マンションとマンションの間に住んでいるとおぼしき三毛猫の親子を見るのが買い物の途中の楽しみであることや、夕食を作る前に見る刑事ドラマシリーズの再放送がもうすぐで終わってしまいそうで残念なことや、時々弾くギターで昔ほど指が動かないことなどをだらだらと語った。そんな風にして、この時間に楽しみを見出し始めている最中、

「音楽、続けてるんだな」

 太一が静かに食いついてくる。

「続けてるってほどじゃないよ。暇潰しと遊びとか、そんな感じ」

 懸命にバンドを継続している四人の手前、音楽を続けているなどと堂々と口にすることは少々躊躇われた。背景には五人の乗る船からいち早く降りた身としては、辞めたにもかかわず同じような楽しみに時間を注いでいることに対する、罪悪感に似た気持ちもある。

 下手をすれば、逆鱗に触れたかもしれない。再開してからの太一の穏やかさからすれば、ありえなさそうではあったが、優衣が何らかのかたちで音楽をすることに思うところはあるかもしれない。大学四年時のこじれ方を思えば、それもいたしかたないことだった。

 そんな予想に反して太一は、だったらちょうどいいな、などと楽しげな目でこちらを見てから、

「バンド、復帰してみる気はないか?」

 とんでもないことを口にした。 

 何を言っているんだ、こいつは。最初に浮かんだ感想そのままに、

「正気?」

 などと尋ねる。太一は優衣の反応も読めていたらしく、

「正気だよ。本気でまた一緒にやりたいって思ってる」

 深く腰かけてから、眼前にある飲み物を口にする。今気付いたが、向かい側から漂ってくる匂いからするにアルコールらしかった。

「昼間から酒なんて……」

「今更かよ。紗枝と似たようなこと言いやがって。いいだろう、休みなんだし。このために生きてるって言っても過言じゃない」

「それは言い過ぎ」

「かもな。けっこう、本気で言ってたんだけど。それはともかく。話を戻すとだ」

「やらないよ」

 やらない。重ねて言ってから、正面から見返す。

「何年、ライブしてないって思ってるの? さっきも言ったけど、指は昔みたいに動かないし、声も出ない。それに今の体制でバンドは上手く回ってるんでしょ? 今、私がバンドに入る意味がない」

「今すぐにとは俺も思ってないさ。何ヶ月かならしてから、あらためてライブ会場に上がって、お前の歌やギターを披露してくれればいい」

「そこまでして私が復帰する意味ないでしょ。この間聞いたかぎり、太一のボーカルは音も合っていたし、声も気持ち良かった。そこに異物が加わっても邪魔にしかならないよ」

 もうすぐメジャーデビューするのではと目されているバンド。優衣が抜けてから四人で積みあげてきたところに、おいしいところだけ啄ばむようにして出戻る。考えただけでも嫌になった。

「そもそも、このことは他のメンバーにも話したの? 紗枝とか真っ先に嫌がりそうだけど」

 再会してからの怜悧な態度を思い出す。多かれ少なかれ、拗れた時のことを表に出さないように努めている他三人とは異なり、あからさまな感情を露にする女の旧友の姿。遺恨が残っていそうなのもあるが、優衣がいると心穏やかではないというところもかかわっているだろう。

「いや。俺の独断だ」

「だったら、尚のこと話にならない」

 バンドを私物化しない方がいいよと付け加えようとして、かつての優衣自身が多分に自らの所属する演奏集団を我が物として扱っていたのを思い出し、口を噤む。

 太一は、だったら、と酒を呷ってから身を乗りだした。

「もし他の三人を説得したら、またバンドに入ってくれるか?」

「嫌だけど」

 一刀の元に切り捨てると、大袈裟にうな垂れる太一。その様子を見て、ほんの少しだけ興味が湧く。

「なんでそこまで私にこだわるの?」

 バンドに入るつもりは毛頭ない。ただ、興味があった。それこそかつてのただならぬ仲に根ざした理由だとすれば、今度こそ会わないようにしようと心に決める。

「優衣は、俺の夢だからな」

 間髪入れずに返ってきた言葉にポカンとした。

 なに、それ。もっとも親しくしていた時でさえ、聞いたことがなかった話だった。太一はどことなく照れくさそうに頬を掻く。

「サークルで初めてお前のかすれ気味の声を聞いた時からずっと、この娘とずっと演奏していたいって思ってた。その気持ちは、お前がバンドを抜ける抜けないで揉めてた時も、社会人になってからバンドの存続に四苦八苦していた間も変わらない。わかるか? 俺にとってのバンドって言うのは、お前が歌ってる場所なんだよ」

 言い切ったあと、ぐいっと酒を呷る太一。

 素面でなに言ってんのこいつ? 優衣はそう思おうとしつつも、顔が赤くなる。こんなこっ恥ずかしいことを言える神経を疑う。とはいえ、ずっと強く求められていたらしいという事実自体は馬鹿にできることでもない。

「冗談、じゃないよね?」

「……冗談でこんなこと言うと思うか? ただの誘い文句だったら、もうちょい恥ずかしくない言い訳を考えるっつうの」

 それもそうだ。なんだかんだで四年近く、深く付き合っていた相手だけに、噓を吐いているか吐いてないかくらいは優衣にも見当がついた。

「その……なんていうか」

「いや、言わんでいいから……」

「ううん。いや、こういうところはちゃんとしとかないと……ありがと」

「だから、言わないでいいって」

 顔を覆う太一。そう言えば、太一って、こういうところあったな。そんなことを思い出し、クスクスと笑いが漏れる。

「笑うなって」

「いいでしょ。楽しいんだから」

「それはそれで腹が立つ」

「はは」

「だから笑うなって」

 自らの額に掌を添える旧友の前で、腹を抱えて可笑しげな声を漏らし続けた。なんというか、とても楽しかった。

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