第4話
「昨日は楽しかった?」
翌朝、穏やかな声で夫に尋ねられる。昨夜は夫が先に寝てしまっていたため、話す機会がなかった。
「まあまあ、かな」
そう言ったあと優衣は、目玉焼きの横に添えたプチトマトを箸で持ちあげ、すぐさま口に放りこむ。想像していたよりも酸っぱく、一気に眠気が覚める。
「その顔、あんまり気晴らしにはならなかったのかな?」
トーストを手にしながら神妙な表情で尋ねてくる夫を、鋭いな、と思いつつ、そうじゃないけど、と答える。
「何年も会ってなかったから、ちょっと気まずかったんだよね」
実情はもう少し複雑であったものの、詳しく語る気にはなれないし、仮に語るにしても出勤前の夫にするには長いし面倒な話だった。
夫は、そうなんだ、と軽やかに受けとったあと、
「あくまでも一般論になってしまうんだけれど……昔の友だちは大事にした方がいいと思うよ」
何の意外性もない意見を口にする。とはいえ、意外でない以上にある種の正しさも保持していた。
「ありがとう。参考にさせてもらうよ」
どこまで取りいれるかどうかはともかくとしてたしかに参考にはなった。そしてこうした当たり前をわざわざ口にしてくれる夫に、更なる好感を抱く。
「そう? だったら、とても嬉しいけど」
薄く笑った夫はコーヒーカップに口をつける。喉仏の上下運動をぼんやりと眺めながら、大人しい動きだな、と朝の麗らかな気候の下で思った。
例のごとく、昼頃までに家の中での仕事の多くを終わらせたあと、白い布製の買い物袋と予備のビニール袋を手に外に出る。日頃から運動不足になりがちな生活を送っている優衣にとって、買い物は貴重な体を動かせる時間だった。
今日の献立はどうしようかな? 夕飯の計画は、今のところない。比較的潤沢な資金はあるものの、一主婦としては、削れるところは削ったうえで栄養のあるものを夫に食べさせたいと思う。とはいえ、これといった考えが浮かばなかったので、とりあえず店の中のものを見て決めることにした。
歩いて十五分ほどの距離にあるスーパーまでの道程。見慣れた車の通りが多い四車線道路、規則的に設けられた低木、インドカレー屋や個人経営とおぼしきパン屋にブックオフやコンビニチェーンなどなど。買い物に行く都合上、何度も眺めているだけあって、すっかり目に馴染んできている。夫のマンションでともに過ごしはじめてからさほど経っていないにもかかわらず、今の環境に順応できてきたことは素直に嬉しかった。一方で、何年も過ごしていけば、この景色も次第に色褪せていくのかもしれない、という想像も膨らむ。そんなことを思うにはどれだけの時を要するのかもわからないし、そもそも飽きる前に引っ越す可能性だってあった。しかしながら、もしも今のマンションにずっと住み続ける未来があるとすれば、同じことをこれから十年も二十年も続けていくのだろうか? という懸念も浮上する。
……その時は、また何か新しいことをはじめればいいし、環境は目まぐるしく変化していくでしょ、と思いつつ、優衣は見慣れた景色をぼんやり眺め歩く。そんな既視感の塊のような風景の中に、突如として違和感が現れた。
主婦や小さな子供連れの声で盛り上がる公園の入り口近くのベンチに、見覚えのある痩せ型の男が座っていた。
気のせいでしょ。そう切り捨ててスーパーに向かおうとしたところで、男と目が合った。
「よぉ」
こうなってしまえば、無視するわけにもいかない。優衣は不承不承ながらベンチに近付いた。
「なんでこんなところにいるわけ?」
ベンチに座り薄く笑う太一に尋ねる。偶然ではないだろうという優衣の予想は、
「昨日話したりなかったから、もうちょいどうかなって思ってな」
本人の発言によりすぐさま裏付けられた。とはいえ、今のお互いの立場的にはあまりよろしくない事態だと優衣は思う。そしてそれ以上に、昨日に引き続きあまり気が進まない。
「私がここを通らなかったら、どうするつもりだったわけ?」
とはいえまっすぐに、お断りします、と一言で済ますのはなんとはなし気が咎めたのもあり、言葉を交わしながら去り際を探ろうとする。
太一は天を仰いでから、
「どっちみち、今日は休みだしな。一日ひなたぼっこっていうのもなかなか有意義じゃないか」
しれっと告げた。そう言えば、今のバンドメンバーは皆、ちゃんと就職したうえで活動しているというのを昨日飲み会の終わり際に聞いた気がした。四人ともいまだにメジャーデビューへの野心は捨ててないようだったが、それでいてちゃんと地に足がついているのだな、と他人事のように感心したものだ。なにより、卒業してからもしっかりと夢と現実を両立して、今にいたっても継続しているというのは素直に尊敬に値する。
「っていうか、住所教えたっけ?」
「なに言ってんだよ。年賀状、毎年くれるだろ」
「それもそっか」
年賀状も結婚式の招待状も太一からは返ってきていないから、てっきり読んでもいないのだろう、と決めつけていた。そもそも、スマホに一報を入れてくれれば良かったのでは? と考えかけたところで、バンドで揉めた時に電話番号もメールアドレスも変えてしまっていたなと思い出す。
「けど、直接マンションまで行くのは、気が咎めてな」
寝癖のついた髪を掻く太一に、それくらいの弁えはあるんだ、なんて感想を持つ。わざわざ公園で待ち伏せしているのもどうかと思ったが、少なくとも太一個人としての連絡手段は乏しく、最良ではなくとも次善ではあるのかもしれない、と判断したあと、気が付いた。
「だったら、昨日と同じで萌に頼んで呼び出してもらえれば良かったんじゃないの?」
優衣の疑問に、太一は顔を顰め屈んでから、自らの太ももの上で頬杖をつく。
「お前、それで俺しかいないって聞いたら来たか?」
「……行かないかもね」
こと、太一が相手ともなれば、親しき仲であってもある種の警戒が発生する。否、かつて親しくしていたからこその警戒かもしれなかった。
「だろ」
自嘲気味な言葉と微妙に卑屈な眼差しに、心の底に燻っていた罪悪感を揺さぶられる。非はどちらかといえば、私にあるんだから。そんな自覚が優衣をぐらつかせた。
「買い物があるから、そろそろ行っていい?」
たまらず逃げを打とうと尋ねるが、太一はベンチの隣の空間をぽんぽんと叩く。
「そんなに急ぐわけじゃないだろう」
「こう見えて、主婦って色々やることあるんだよ」
「一般論としてはそうかもな。けどお前、飲み会でけっこう時間に余裕があるって言ってたじゃん」
そんなことまで言ってたのか、私は。思ってすぐ、噓かもしれないと疑いを持つが、昨日はさほど酔えていなかった割には記憶がおぼろげであるのもてつだって、絶対にありえないと言い切れない。そもそも場を繋ぐために口にした会話などいちいちおぼえていない。
「そう警戒するなよ。ただ、話すだけだ。なにもしねぇって」
優衣の内心を読んでか、そう口にした太一の声はどことなく寂しげだった。
去った方がいいだろう。優衣の本能が警鐘を鳴らしていた。碌なことにはならないと。しかし、昨日までの間、まともな交流を断っていたといっても、親しくしていた相手であるのは変わりがないのだとも理解している。程なくして、大きく溜め息を吐いた。
「ちょっとだけ、だからね」
優衣が腰かけると、太一は目を大きく見開いてから、恥ずかしげに顔を逸らした。
「サンキュ」
「どうしたしまして」
既にどっと疲れていたのもあり、本当にどういたしましてだよ、と思いつつ、早々と済ませようと決める。はらはらと落ちる紅葉や子供たちの声を背景にぽつぽつと言葉を交わしはじめた。
「今日はなにかあったかな?」
夕食後、夫婦で手分けして皿洗いと食器入れをしている最中、夫に尋ねられた。二三日に一回くらいは飛んでくる類の問いであり、さほど珍しくもない。
「そうだなぁ。今日はあんまり思いつかないかも」
間を置かずに答えてから、補足するように午前中の家事や昼過ぎの買い物、家に返ってから見たワイドショーで熊が人里に出現した映像などについて語ったりした。
「あなたの方は?」
水を向けると、夫は、そうだなぁ、と眉に薄っすらと皺を寄せた。
「僕の方もいつも通りといえばいつも通りだけど。ちょっと苦戦しているかもしれないなぁ」
言ってから、細かいところを伏せながら、取引先との交渉についてどことなく自虐的に語っていく。少し前まで勤めていた時の緊張感をなんとはなしに思い出し、聞きの態勢に入った。
そのかたわら、今日太一と会ったのを隠したことに早くも後ろめたさを感じる。
普通に言った方がいいのでは? 夫が帰るまでの間、夕食を作ったりしつつぼんやりと考えてから、口にしない方がいいと、いう結論を出した。
昔の友だちと公園で話した。事実を取りだしてみればただそれだけである。そこに、男だとか、偶然ではなくわざわざ話すためにやってきただとか、浅からぬ仲だとか、という文脈が追加されることによって、あらぬ疑いが夫の心に湧いてしまうとすれば……。明らかに面倒な話になるだろう、というの目に見えていた。いくつか情報を伏せれば、話せる内容になるのではないか? と頭を捻ってみたものの、優衣は自らをさほど信用できず、どこかしらでボロを出しそうな気がしてならなかった。ならば、最初から話さないと決めた方が幾分かましになるだろう、と腹を決めた。
夫ならば、ちゃんと説明すれば何もないとわかってくれるはず。頭では理解している。しかし、仮に予想通り信じてくれたところで、可能性が生まれた時点で、いい気はしないだろう。ならば、胸の奥におさめておくのが一番だ。
そんな言い訳を重ねながら、夫との会話をこなしていくうちに、夜は更けていく。
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