第八章 ニライカナイ⑤

 しんな表情で笙子を見つめ返し、忍はやがて深く頭を下げた。

「情報ろうえいの件では、処罰は免れませんよ。それも覚悟していますね」

「はい」

「……あなたがそうせずにいられなかった、責任の一端は、私たちにもあります。今後は、父が非公開にしていた『龍禅寺文書』も公開して、上秦古墳での発見が、あなたのお父様の研究成果にるところが大きいこと、必ず調査報告に盛り込まれるよう、尽力しましょう」

「あ、でも……」

 と萌絵は困った声を発した。肝心の「蓬萊のうみすい」こと〈上秦はく〉は、無量が海に投げ捨ててしまったのだ。

「……いくら何でも、捨てちゃうのは、やりすぎだったんじゃ」

 すでにプレス発表を控えている文化財だ。それを一個人の見解で投げ捨ててしまった、となると大問題だ。騒動になることは間違いない。心配していると、無量がニヤと笑い、リュックの中に手を伸ばした。

 取りだしたのは〈上秦琥珀〉ではないか。

 萌絵は叫んだ。どういうこと!

「こっちが本物。さっき忍に渡したのは、例の島で見つけたほう」

「投げたのは偽物? じゃ、最初からそのつもりで!」

「当然だろ。苦労して出した出土品、勝手に捨てたりなんかしたら、あとで調査員さんから何言われっか分かったもんじゃない」

 急に気が抜けてしまった。萌絵は思わず笑い出してしまった。つられて鶴谷も笑い始めた。一気に緊張が解けて、何かがはじけてしまったのか、ちょっとおかしいくらい延々と笑い続けてしまった。

「もう西原くんたら、ほんっと人騒がせ……」

 萌絵がはっと我にかえると、無量の視線は忍の方に張りついている。見ると、忍は海の方をじっと見つめている。切なそうな後ろ姿だった。

 草が風にそよぎ、月に照らされた海は、さざ波が星の欠片かけらのように光っては消える。

 無量が近づいていって、忍の上着のポケットにするりと手を滑り込ませたと思うと、取りだしたのは一本の折り畳みナイフだ。無量は悲しそうに手の中のナイフを見つめ、

「あの男と、刺し違えるつもりだったのか?」

 忍は切なそうに目を伏せている。多分、そうだったんだろう。

 無量は胸の痛みをこらえて、

「そんな価値、あの男にはねーよ……」

「………」

「こんなの、おまえには似合わねーし」

 とナイフは返さず、かわりに〈上秦琥珀〉を忍の手に握らせた。本物の「海翡翠」だ。忍は驚いて見つめ返してきた。

「無量……」

「これを親父さんに。誰よりも、楽しみにしてただろうから」

 忍はてのひらの中の「海翡翠」を見つめた。琉球古代文字の刻まれた緑色琥珀だ。

 握りしめていると、それが父の魂のような気がしてくるのか、忍はつらそうに唇をみしめた。石垣に囲まれた墓庭へと進み、扉の前にしゃがみこんで〈上秦琥珀〉を墓前に供えた。

「父さん……。無量がみつけてくれたよ。父さんが夢にまで見てた〝蓬萊〟のあかしだ」

 家族との懐かしい日々を嚙みしめている。

 あの日……。

「夏休みで、僕はたまたまリトルリーグの合宿に行き、家にいなかった。合宿先から電話をかけると、妹が出たんだ。『いまお客さんがきてる』『おみやげにあんみつもらったの。今から食べるの。いいでしょ』……って」

 お客さんって誰? といたら、お父さんの友達、と妹は答えた。

 どんな人? と訊いたら、ふくろくじゅ、みたいな人、と答えた。

 当時、相良家の床の間に飾ってあった七福神の人形のことだ。宝船に乗った七人の福の神。福禄寿は頭が長くひげを蓄えている。妹はその福々しい様子がお気に入りだった。

「火事のしらせにショックを受けていた僕は、そんなことすっかり忘れていた。だけど、龍禅寺の屋敷で初めて小豆原と会った時、唐突に思い出したんだ。妹の言葉を」

 面長のあごに髭を生やした小豆原は、顔立ちが確かに、家にあった福禄寿の人形に似ていた。あんな福々しさはなかったけれど、少し頰骨が高く目の細い感じが、そっくりだったのだ。

「僕は直感した。あの時、妹が言っていた客とは、この男じゃないかって。あの七福神の人形は焼けてしまって、とうにない。証拠もないけれど、僕は僕にしか通じない妹の証言を信じた。うちにいた福禄寿にそっくりな男、この男に間違いないと」

「忍……」

「妹が、教えてくれたんだ」

 家族の写真は、与那国のしんせきの家に、一枚だけ残っていた。

 祖父の洗骨で親戚一同が集まった時のものだ。忍はまだ幼く、妹に至ってはまだ赤ん坊だった。ごちそうを前に親戚と笑っているその写真が、忍の唯一の家族写真になった。

 肌身離さず持っていた写真を、忍は墓の前に立てかけた。

「……今も夢に見る。家族と過ごした何気ない日常のこと。台所に立つ母さんの背中、一緒にプラモデルを作ってくれた父さんの手、妹の甘酸っぱいような匂い……。今も夢の中では叱られたり、けんしたり、笑いあったりする。父さんたちの声、夢の中では、あんなにはっきり思い出すことができるのに」

 無量は切ない想いで聞いている。

 忍は、かすかに微笑んでいた。

「よく妹と父と三人で、狭い湯船にかりながら、色んな話をした。お気に入りのゼンマイ人形をお湯に浮かべて遊んでた僕たちに、父さんは自慢げに言ったんだ。──……なあ、忍。父さんたちの故郷は、昔、蓬萊があったところかもしれないんだ。すごいだろう? 幼い僕にはまだ『蓬萊』が何だかも分からなくて、それ竜宮城? って聞いたら、父さんは笑って、まあ似たようなもんかなあって答えた。妹が喜んで、じゃあ亀さんを助けなきゃ、亀さんに連れてって、もらわなきゃって。竜宮城に行って、おとひめ様に会って……ごちそうと……おさかなの……だんすを……」

 そこから先はもう、えつとなり、言葉にならなかった。

 うずくまる忍の横に無量もしゃがみこんで、震える肩に、右手を置くと、何度も揺さぶるように力をこめた。力をこめて、離さなかった。

 亀の甲羅に似た墓の屋根を、月の光が照らしている。

 家が焼けて思い出の品も全てうしなってしまった忍にとって、ここは唯一、亡き家族とのきずなを嚙みしめることのできる場所なのだろう。そして家族の目の前で、罪を認めさせたいと願った忍の気持ちも、無量には痛いほど分かる気がした。

 堪え続けていた想いが一息にあふれて、止まらなくなる忍のそばから、無量はいつまでも離れようとしなかった。いつか神社の軒下で、肩を寄せ合って雨宿りした。あの頃のように寄り添って、離れなかった。

 忍は泣いた。ようやく家族のもとに戻れた迷子のように。

 人目もはばからず、泣き続けた。


 海風に死者を弔うのぼりばたなびいている。

 波の音が聞こえる。

 それは海の向こうから届く歌のようでもあった。

 あの海の果てに、今は亡き、いとしい人たちの魂がむ島がある。萌絵は忍が語った「ニライカナイの伝説」を思い出した。蓬萊とは、本当は、そういう場所のことなのかもしれない。

 そこでは喪ったものたちも皆、笑って暮らしている。

 誰にも辿たどり着くことはできない。

 思い出だけがたいせきした、鎮魂と再生の地。

 きっと、そうなのだ。

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