第八章 ニライカナイ①

 夕闇の空は、徐々にくらくなっていく。

 雲の縁を赤く滲ませていた夕陽は、もう完全に西の岬の向こうへ落ちたか、夜空には星が瞬き始めていた。西の空が闇に沈むと同時に、あがりざきのほうから昇ってきた満月が、街灯もない墓地を照らし始めていた。

 小豆あずきばらは、否とも是とも答えなかった。その顔を見て、ハッとしたのは無量だ。

「あんた……あの時の」

 奈良の街で無量を襲った暴漢と一緒にいたモスグリーン・コートの中年男だ。面長の異相に、けんの小さな傷と、白髪まじりのあごひげ。暗く不気味な眼光。間違いない。

 萌絵を振り返ると、真っ青になっている。それを見て、彼女を石垣島へと連れてきたのも小豆原──「あの夜の男」だったと無量は気づいた。

「今のは、どういう意味なんだ。忍。まさか、こいつが三村サンを……?」

「至急、東京にお戻りください。昌史様の御命令です」

 と小豆原が会話を遮って告げた。コントラバスを思わせる重く低い声だった。目元には怒りが滲んでいる。

 忍はじっと睨み据えている。

「否定しないのかい?」

「愚にもつかない話です」

義兄にいさんの片腕が、こんなところにいていいのか。今はそれどころじゃないはずだが?」

「JBスタンフォードのウォール会長が、三ヶ月ほど前に、シンガポールの邸宅で、る日本人と会っていたと聞きました。東シナ海における海底開発に関する、大変重要な示唆を与えてくれたとのオフレコ談話が。ウォール会長は、大御所様と親交がありましたが、五年前に来日した時、接待役として付き添いを申し出たのは、確か……忍さん。あなただ」

 無量が「それ誰?」とくと「新実鉱業の大株主のひとりだ」と忍が答える。例のジオ社に株式を売却した投資会社のことだった。

「ウォール会長に何を言ったんです。東シナ海開発の発言は、どう考えても、井奈波の社内秘を把握した上でのものとしか思えない」

「雑談をしただけさ」

「ジオ社に、新実が保有するあさ金属鉱山の買収を勧めたのも、あなたですね」

「何を証拠に」

 小豆原が突き付けたのは、数枚の写真だ。かつぷくのいい白髪の欧米人と、眼鏡をかけた五十代くらいのアジア系ビジネスマン、その二人に挟まれるようにして、スーツ姿の若者がひとり。

 写っているのは、他でもない。忍ではないか。

「眼鏡の男は、ウーチヤン銅業のCEOリユウフーベイ氏。ウォール会長とは同学のよしみで旧知の仲だ。日付は去年の三月。場所は香港」

「………。どうやって、こんなものを?」

「地元経済誌がリーク画像として入手していました。この後、ウォール会長は鉱業部門への長期投資方針の変更を示唆している。ウーチヤン銅業が海底開発事業に正式に乗り出すと発表したのも、その二ヶ月後のことだった」

 どういうこと? と萌絵が無量に耳打ちした。何だかよくわからないが、つまり、今度の買収劇の中心人物であるウォール会長が動く時、なぜか忍が近くにいる、と言いたいらしい。

「しかも談話の中で、ウーチヤン銅業もウォール会長も、東シナ海を『ほうらいの海』と表現している」

「……僕が『龍禅寺文書』の内容を、彼らに教えたとでも?」

「では、なぜ、コアのデータまで、彼らが把握していたんです」

 詰問する小豆原を、忍は鋭い目つきで凝視している。

「ジオ社が発表した東シナ海の銅鉱床に関する予測評価に、井奈波が尖閣近海で採取したボーリング・コアのデータが使われていた。社内秘を何者かがリークしたとしか考えられない」

「スパイは僕だと言いたいんだね」

「情報ろうえいの罪で告訴する用意もできていますよ。忍さん」

「ふっ。取引のつもりかい? 小豆原。おまえの罪と僕の罪を、はかりに掛けるつもりだと?」

 あざわらうように、忍は一際、語調を強くした。

「『龍禅寺文書』にはこうあった。〝蓬萊とはあかがねの海にす南西方の島なり。不老石なる三石を用いて不老不死の薬となす〟。文書は、南西の海域に、陸上をはるかに上回る銅鉱床があることを示唆していた」

「〝銅の〟……〝海〟……」

「そう。龍禅寺雅信は、始皇帝が、蓬萊を求めさせたのも、実は不老不死の薬を探すためなどではなく、銅鉱床を手に入れるためだったと解釈した。龍禅寺雅信は『蓬萊』を探し出し、そこに埋まる『宝』の資源を手に入れるのを一生の野望としていたからね。そして、その場所がどこかを、特定する手がかりになるのが、『不老石』と蓬萊文神獣鏡だった」

「つまり、蓬萊産の鉱物を掘り出すために……かみはた古墳の発掘を」

「そういうことだ」

 と忍は認めた。

 蓬萊からの使者のものと思われる墓から出る副葬品。

 その素材を化学分析することで、産出地を特定できる。

「蓬萊の場所が、沖縄近海を指すことは、父さんが見つけた琉球古代文字が大きな手がかりになった。『龍禅寺文書』に記されていた蓬萊文字が、実際に石垣島で見つかったことは、驚くべき発見だったから、雅信も教授もそりゃあ興奮しただろう。……八重山近海から採取される鉱物中の鉛が、青銅鏡の原材料となった鉛の同位体と一致すれば『蓬萊』の場所が特定できる。鉱石を同定できれば、なお間違いない。同時に『龍禅寺文書』がしんぴよう性のある史料だと認められることになる」

 無量はようやく合点がいった。

 あの古墳の発掘には、何か別の意図がある。

 何か異様な力が働いていると感じたのは、このためだったのだ。

「……当の雅信は結局、それを確かめる前に死んでしまったが、義兄あにはその妄想じみた野心を引き継ごうとした男だった。沖縄トラフの開発計画に執着して、他に先んじて鉱区申請したのは、上秦古墳から蓬萊産と見られる銅鏡と鉱物が出土したからだ。文書が示した証拠物は、現実に見つかった。これでいよいよ蓬萊の場所が特定される。蓬萊を手に入れる。……義兄さんの野望は、雅信宿年の沖縄近海開発で確かな実績をあげ、名実ともに、井奈波グループに君臨する『天皇』を継ぐことだった」

「忍……」

「だが、そんなことはさせない」

 忍は闘う眼になって、強く断言した。

「義兄さんの思い通りにはさせない。家族を殺し、父さんの研究を汚した人間が、『井奈波の天皇』の座に納まろうなんて、この僕が断じて許さない!」

 忍の頑強な意志に、無量は息をんだ。

 そのためだけに忍は、三村教授を操り、恐らくはそのために文化庁の職員にまでなったのだ。世界に名だたる投資家や中国のライバル企業までも巻き込んで、そうまでして阻止しようとした忍の意志に、圧倒されずにはいられなかった。

「永倉さん、あなたがあの日見た『研究室から去る男』は、僕に間違いない。……あの日、僕は三村教授に電話で呼び出されて、研究室に行ったんだ」

 と忍が語り始めた。奈良市内の居酒屋で、無量たちと吞んだあの夜のことだ。急な用事ができたと言って、席を立った忍。あの時の電話は、他でもない、三村教授からのものだったのだ。

「電話の向こうの三村教授は動揺してた。『何者かから電話を受けた。〝うみすいを引き取りに行く、引き渡さなければ、論文の盗作疑惑について世間に公表する〟と脅された』と。どうしたらいいか、と教授がたずねてきたから、僕は『渡さないように』と伝え、誰か第三者のもとに送るよう、指示した。だがその時間はなく、教授はやむなく、『海翡翠』を他の遺物に紛れ込ませた。その直後のことだ。犯人が研究室にやってきたのは」

 そして、その数分後には、三村教授は命を絶たれた。

 無量と萌絵は、その目で見た殺害現場のせいさんな光景を鮮やかに思い出した。

 忍は不気味なほど淡々としている。

「僕が駆けつけた時には、教授はすでにこときれていた」

「……犯人はその場にいなかったんですか」

「ああ。すでに」

「なら、なぜ」

「証拠も証言もないのに、ひとを人殺し扱いしようとは」

 と小豆原が重く口を開いた。

「ことによっては、名誉そんも告訴状に加えますよ」

 忍は動じず「話は終わりじゃない」と付け足した。

「……教授は、犯人とのやりとりを、画像と音声付きで、僕に伝えてきてたんだ」

「なに」

「これでね」

 と懐から取りだしたのは、見覚えのないスマートフォンだ。

 三村教授のスマートフォンだった。所持品からなくなったまま、警察も見つけられなかった。忍が持っていたのだ。

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