第六章 蓬萊の海へ②

 乗り換えた車で、島の北部に向かう。うつそうとした亜熱帯の林が続き、それが途絶えると牧草地が広がる。やがて一直線の下り坂にさしかかると、視界が開け、正面にそびえる姿の美しい山の両サイドに海が見えてくる。標識には「ばる」という地名があった。忍はやますその曲がりくねった細道に車を進め、行き止まりの小さな広場で停めた。

しようにゆうどう……?」

 目の前には荒々しいがけが立ちはだかっており、どうくつがぽっかり暗い口を開けている。「サビチ洞」と看板がある。

「サビチ……。って、あ!」

 萌絵は思い出した。あの写真だ。忍の父親が撮った。

 三村教授と龍禅寺雅信が写っていた、古い洞窟の写真。

 あの裏書き──〝サビチにて〟。

「こっちだ」

 忍は、洞窟に入っていく。中は暗く、ひんやりして足元が湿っている。目が慣れると、鍾乳石がつららのように天井から垂れ下がっていた。石垣島は石灰岩質で、鍾乳洞が多い。このサビチ洞もそのひとつで、はんな岳の真下にできた横穴は海まで貫通している。ライトの明かりを頼りに歩き出すと、ちょっとした冒険気分だ。地面から突きだすせきじゆんは、恐竜のきばを思わせる。スピーカーから流れる妙に陽気な音楽が、観光地気分を盛り上げているが、人影もないので、なんだかちぐはぐな感じだ。

「まさか、ここがあの写真の……?」

「因縁の地だ。僕ら親子の運命を狂わせた……。上秦古墳の発掘も、全てはここから始まったんだ」

「それどういう意味ですか」

 おいで、と忍が手招きし、懐中電灯で照らしながら、右手の岩場をあがっていく。暗い空間をライトが照らしあげて、舞台ステージの上にいるみたいだ。不可思議な形をした石柱や石筍が、オブジェに見えてくる。忍は背をかがめて、岩場の一番奥にしゃがみこんだ。

「あった……。よかった。まだ残ってたな。見てください」

 萌絵がのぞき込むと、忍は岩に向けた懐中電灯を斜めに傾けた。すると、影ができて、岩肌に不自然な形のくぼみが浮かび上がったではないか。いや、何かを人工的に彫った跡だ。

「これ……。もしかして、岩刻文字?」

「これと同じものを、あなたも見ているはずですよ」

 あ! と萌絵は声をあげた。すぐに察しがついた。あの写真だ。三村教授の遺品にあった、三十年前の洞窟写真。あの古代文字のことではないか?

「そう。そして、上秦から出た画文帯神獣鏡にあったのと、同じ古代文字」

「まさか……。これ」

「四十年前、父さんが見つけた」

 岩のそばにしゃがみこんだ忍は、父の面影をたどるように、彫られた古代文字の跡を、指先で丁寧になぞった。

「ここだけじゃない。父さんは沖縄の各地で古代文字のこんせきを次々と見つけた。中には海底遺跡にあるものもあった。一目見て、与那国島に伝わるカイダ文字だと思ったそうだ。琉球王府が人頭税の徴収の為に作った文字だと言われるが、由来は定かじゃない。父さんはカイダ文字の起源となった文字ではないかと考えた。あの写真は、父さんが昔、三村教授と龍禅寺雅信を案内した時のもの。当時、三村氏は上秦近くの古墳で、特殊な画文帯神獣鏡の欠片かけらを発見して、一躍話題になってたところだった。新聞で、その鏡の写真を見た父さんが、琉球古代文字に似てる、と連絡を取ったのが、事の始まりだ」

 忍の父親・相良悦史。

 彼の古代文字研究に関心を持ったのは、三村だけではなかった。

 あの龍禅寺雅信が、石垣島に別荘を建てたのも、そもそもは、このためだった。

「龍禅寺雅信は、ほうらいにいたく関心を持っていた人だったからね」

「『うみすい』のことですか。『蓬萊の海翡翠』?」

「へえ……。さすが亀石さんだな。そんなことまで調べあげてるとはね」

 亀石がただの派遣業者でないことは、業界人なら大方、知っている。無量が関われば亀石も絡んでくるだろうことは、忍も想定していたようだ。

「大昔の天皇が即位すると、蓬萊から贈られてくる石だと聞きました……。八尺瓊まがたまの正体じゃないかって」

「そう。その『蓬萊』だ。龍禅寺雅信は『蓬萊』こそが高天原、つまり皇孫の……天皇家の出自の地だと解釈して、それを証明することをライフワークにしていたからね」

「画文帯神獣鏡の文字が、ここに彫られた文字と同じだから、ここが『蓬萊』って、ことですか」

「それだけじゃない。龍禅寺文書にも、この琉球古代文字が載っていたんだ。蓬萊の文字、としてね」

 萌絵は「あっ」と口を押さえた。

 亀石が見たがっていた、残りの「龍禅寺文書」のことに違いない。

「その部分には『海翡翠由来書』とただし書きが入ってた。龍禅寺文書は、戦国時代のものだが、元々は東大寺文書を書き写したものだ。東大寺文書は古くは聖武天皇の代までさかのぼる。正倉院にあった『蓬萊の海翡翠』の由来を記したものらしい」

「じゃあ、本当に、ここが蓬萊……」

 忍がおもむろに立ち上がった。岩から降りると、ひんやりと暗い鍾乳洞を先へと歩き出した。萌絵は慌てて後を追った。

 奥まで歩いていくと、先が明るくなってきた。波の音がする。

 海だ。

 この鍾乳洞は、海につながっていたのである。

 外に出ると南国独特のシダやつる植物が茂っている。その向こうにはもう海水が迫っている。萌絵は行く手に広がる海の青さに目を奪われた。太平洋だ。

「……だけど、物証はなく、文字だけだ。魏の皇帝みたいにヤマト王権を承認できるような権威が、本当にこの地にあったかどうかまでは、何も証明できない。説明もできない。でも父さんは初めて『龍禅寺文書』を見せられた時、すごく興奮したと思う。そして信じた。……ここが蓬萊の海なんだって」

 忍は潮風に吹かれながらつぶやいた。その横顔がひどく切なげで、思わず萌絵は吸い寄せられるように見つめてしまった。ざざん、ざざん、と岩に波が砕ける。生い茂る熱帯植物が、額縁のようにエメラルドグリーンの海を縁取る。

 萌絵は遠慮がちに、口を開いた。

「でも……。そのことと上秦古墳がどう関係あるんですか。上秦は邪馬台国の時代っていうから、それより少なくとも四、五百年は前のもののはず」

「確かに。上秦古墳の年代は、聖徳太子なんかよりもはるか前だ。聖武帝の時代とは隔たりがありすぎる。でもね、『海翡翠由来書』には書かれてあったんです。最初の使者のことが」

「最初の……使者?」

「ええ。その使者は、海翡翠の他に、多数の銅鏡を持ち込んだ。蓬萊文字の刻まれた鏡だ。それは、別の古墳からすでに三村教授が発掘してた。他にもたくさんの後漢鏡が一緒に副葬されていたから、それで年代がおおよそつかめた。三世紀前半だ」

「三世紀……やっぱり邪馬台国の時代、ですか」

「そう。教授も当初は後漢鏡と見ていたようだが、鉛同位体の違いに気づいた。それからは蓬萊文神獣鏡と、名付けたけどね。だが、それが本当に蓬萊産であるとの確信は持てなかった。更に揺るぎないあかしを見つける必要があった。『海翡翠由来書』には〝使者は蓬萊に戻ることなくこの地で死んだ〟と記されていた。その墓には、当時の大王が、使者の功績をたたえて、『せい宿しゆくの銘』を入れた鉄剣とともに、海翡翠と、鏡と、不老石と呼ばれる蓬萊の三ツ石を、副葬品として埋めたと」

「海翡翠と鏡と三ツ石……。それって」

 無量が発掘した、あの三点の出土品だ。

「場所は、三輪山のふもと。……上秦古墳からは、第一次調査で見つかった副室から、鉄剣が出てきてた。その鉄刀には、まさに『星宿の銘』が入ってた。銘文の年号は『ちゆうへい』。後漢帝の最後の年号だ。これを見て、三村教授は、上秦古墳こそが、蓬萊の使者の墓だと気づいた」

 ごくり、と萌絵はなまつばみ込んだ。

 遠くの白波を眺めている忍の横顔は、冷静だった。

「……あの古墳からは、きっと、蓬萊の証が出てくる。三村教授は、そう踏んで今回の調査に挑んだんだ」

「三つの証を見つけだすために、西原くんを呼んだ……そういうことですか」

 忍はコクリとうなずいた。

「無量なら、確実に探し当てることができる。そう思ったんだろう」

「でも、でもなんで! 蓬萊の証が出ると読めてたのは分かりました。でも、じゃあ、なんで三村教授は殺されたんですか!」

「さあ……。なんでだろう」

「あなたは何か知ってるはずです!」

「話したら、今度の件は一切忘れてもらえますか。僕があの現場にいたことも」

「!」

 萌絵が答えに窮すると、忍は振り返って、ふわりと笑い、散歩をするような足取りで、岩場沿いの道を先導するように歩き出した。三十年前の写真にもあった、岩場の小道だ。行き止まりが猫の額ほどの砂浜になっている。忍を追って、萌絵も波打ち際に降りた。

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