第六章 蓬萊の海へ①
雲の切れ間から島らしきものが見えてきた。
機上の萌絵は、思わず身を乗り出して、窓の外を見てしまう。眼下には、きれいなコバルトブルーの海が広がっている。島を縁取るように海の色が透明な青緑色にくっきりと分かれる。あれは……
萌絵は気が気ではない。離陸してから、すでに二時間が過ぎようとしている。乗せられたのは、十数席ほどしかない小型ジェット機だ。海外のセレブが乗ったりするのはテレビで見たりしていたが、はしゃぐ余裕は、さすがの萌絵にもなかった。
「あの……あと何時間飛ぶんですか。私、パスポートとか持ってませんけど」
「もうじき着陸です」
と
窓の外に見えてきた発着ターミナルは、とてもこぢんまりしていて、空港というより駅みたいだ。タラップを降りると、むわ、と空気があたたかい。季節がひとつ、逆戻りしたみたいで、コートを羽織る必要がなかった。
「〝おーりとーり〟(ようこそ、いらっしゃい)〝いし〟〝がき〟〝くう〟〝こう〟……?」
歓迎の看板を見て、萌絵はようやくここがどこかを知った。
「石垣島!?」
沖縄本島よりも更に西南に位置する
が、小豆原はそんな説明は一切せず「車を用意してありますので」と寡黙に先導するだけだ。空港ターミナルの端に黒塗りのハイヤーが待っている。郊外型チェーン店が軒を連ねる国道を抜けると、風景はいつの間にか牧草地だ。起伏のある地形で、坂の多い道を更に走り続けること数十分、海岸線が見えてきた。
もうこの時点で萌絵には何が何やら分からない。
会社に向かうのではなかったのか。沖縄の離島に連れてこられるなんて、いったい何がどうなっているのか。
「あの、どういうことなんですか。社外に持ち出せない資料が、こんなとこにあるんですか」
「着きました。あそこです」
海岸線に面した小高い場所に、赤い屋根の平屋が並んでいる。琉球独特の
南国の強烈な陽射しを
庭に立つソテツの木が、風に揺れている。
縁側に、人影がある。
こちらに背を向けて、腰掛けている。若い男だ。
萌絵の隣で、小豆原が軽く不意打ちをくらったような反応を見せた。振り返った、縁側の男の顔を見て、今度は萌絵が「あっ!」と声をあげる番だった。
「待っていたよ。小豆原。遅かったじゃないか」
そう言って立ち上がったのは、他でもない。
萌絵は思わず、忍と小豆原を交互に見た。これはどういうことだ?
「この件は全て僕に任されていたはずだよ。勝手に事を進められちゃあ困るじゃないか。誰の指図だい?
小豆原は目に見えてうろたえていた。
「あなたがいっこうに動く気配がないので、業を煮やしておられます」
「ふーん……」
それが方便であることを忍は見抜いている。萌絵も聞き逃さなかった。「兄さん」とは誰のことだ? 忍の家族は例の火事で、皆、亡くなったと聞いていたが?
はっと思い出した。鶴谷の言葉だ。
──相良忍も、「
「まあ、いい。永倉さんには僕から話をしよう」
「し、しかし……」
「僕が話す。いいね」
小豆原は渋々と部屋から去ってしまった。内心慌てたのは萌絵だ。ちょっと、なんで引き下がっちゃうの? この人は間違ったことをしている人じゃないの? それを暴くために私を呼んだんじゃないの? ふたりきりにさせないでよ!
「彼らから何て言われて、ここに連れてこられたんですか」
「さ、相良さん、文化庁の職員というのは噓だったんですか」
忍は一瞬、目を丸くすると、なるほど、と伏し目がちに笑い、上着の内ポケットから職員証を取りだした。
「このとおり、正真正銘、本物の文化庁職員だよ。れっきとした国家公務員だ。なんなら職場に問い合わせてもいい。あの人たちもずいぶんとお粗末な口実を考えたもんだね」
「作り話だったんですか? なんでそんなこと。私をここに連れてくるためだけに、あの人たち、そんな噓ついたんですか? 井奈波マテリアルの社員さんが」
「社員とは少し違う。井奈波の人間であることは確かだけど」
萌絵には状況がまるで吞み込めない。どちらが正しいのかもよく分からなくなってしまった。混乱している萌絵に気づいて、忍は殊更、柔らかな物腰で、
「身内の勘違いで迷惑をかけたみたいです。すぐに帰りの飛行機を手配します。まあ、でも遠路の移動でお疲れでしょうし、一服してください。お茶でもいれましょう」
「動くって何のことなんですか。
忍の動きがぴたりと止まった。
「あの古墳には何があるんです。三村教授の事件も、あなたが!」
不意に忍が真顔になって、萌絵を正面から凝視した。慌てて口をつぐんだが、遅い。不用意な質問だった、とすぐに悔いたが、後のまつりだ。
「あの時──現場で見たんですね。僕のこと」
さっと血の気が引いた。
「僕のこと、見たんですね」
萌絵は総毛立った。
「や、やっぱり、あれは相良さんだったんですか」
「あなたが目撃したのは多分、僕で間違いない。でも殺したのは僕じゃない」
「え」
忍は用心深く周囲に目線を配ると、萌絵へ言った。
「……せっかくだから、石垣島を案内しますよ。ドライブでもしながら話しましょう」
*
萌絵の警戒はMAXだ。なかなか車に乗ろうとしない萌絵に、忍は軽く
「そんなに警戒しないでも、とって
「どういうことですか」
「君も僕も、監視されてる。事の真相を知りたいと思うなら、乗って」
その一言が、萌絵の背中を押した。覚悟を決めて助手席に乗った。
忍のハンドル
「石垣島は初めてですか」
「え……あ、はい」
「のんびりしてて、いいでしょう。このへんの浜は
のんびりどころの騒ぎじゃない。南国特有の風光
「あの屋敷は、龍禅寺の持ってる別荘なんです。石垣島を気に入った雅信氏が、三十年ほど前に建てたもので」
ぎく、と萌絵は背筋を伸ばした。忍は見透かしたように、
「どうやら、僕と龍禅寺の関係も、とうに調べがついてるみたいだ」
「あ、あの……それは」
「じゃあ、あの写真も見ましたね」
「写真って……もしかして三村教授の」
忍は語らない。目線が頻繁にバックミラーをチェックしている。それを見て、萌絵の頭に嫌な考えがよぎった。まさか、このまま口封じされる? 私を殺そうとしてる? 噓でしょ。この人見張るつもりなら、ちゃんとついてきてよ、小豆原さん!
忍が車を止めたのは、
他に客はおらず、貸し切りだ。グラスボートは沖に向かって動き出したが、忍はまだ用心深く浜辺のほうを見ている。
「……もう大丈夫。誰も追ってこない」
「うそ」
振り切ってしまったのか。じゃあ、本気でふたりきり?
青く澄んだ海の底には、たくさんの珊瑚だ。しかし見とれている心の余裕は、萌絵にはなかった。グラスボートは島陰に入った。降ろされた場所は、グラスボート乗り場とは反対側にある浜だった。「ありがとう」と忍が言うと、よく日に焼けたガイドの若者は白い歯を見せて「また
浜の上にはペンションがある。忍はやはり顔なじみで、そのオーナーから車を借りた。
「さあ。これでやっと本当の自由行動だ。行きましょう」
この時点で萌絵はもう腹をくくった。どうとでもなれ、という気分だった。忍は本当に真相を話してくれるのだろうか。信じていいのか。信じるしかないのか。
知りたいことはたくさんある。忍と龍禅寺家と上秦古墳の発掘。「この件は僕に任されていた」とは何のこと? 「監視」? どこからどこまでが意図されたものなのか。
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