第五章 化石なんかじゃない⑥
会計を済ませ、ファミレスから出る時、萌絵が鶴谷に問いかけた。
「あの、鶴谷さんは知ってますか。西原くんのお
鶴谷は財布をしまいながら「ああ」と答えた。フリージャーナリストという仕事をしていて無量とも親しい鶴谷が、知らないはずは、まずなかった。
「西原くんのお祖父さんが起こした問題行動って、何なんですか。業界のトラウマになるほどのことって、いったい……」
「祖父の名は、西原瑛一朗。瑛は、王へんに英語の英。一朗は野球選手のイチローと同じ。ネットで調べれば、すぐに見つかるよ」
自分の口からは明かさず、それだけ言い置いて、鶴谷は帰っていった。
ホテルに戻った萌絵は、パソコンに向かった。「西原瑛一朗」について調べるためだ。鶴谷の言った通り、その名は苦を労さずに、むしろ拍子抜けするほどあっけなく探し当てることができた。
無量の祖父の不名誉な過去は、無遠慮なほど多くの記事に書き記されている。
その所業が、無量にとってどれだけ不利益をもたらすものかを察した萌絵は、再び言葉を失ってしまった。
「……そんな……」
*
翌朝は幾らか暖かく、奈良の街はうっすらと
無量の日課は、朝のジョギングだ。体力勝負の発掘作業に耐えられる体を作るためと称して、毎朝、軽く走り込む。日々ひたすらドカ掘りをしていれば嫌でも鍛えられるが、作業から解放されるとすぐになまるので、なるだけ走るようにしている。
その日、無量は奈良公園まで走った。靄の中、ねぐらから降りてきた鹿たちが、朝の食事となる草をはんでいる。適度に上り坂で、ジョギングにはちょうどいい負荷だ。走り続けて、東大寺大仏殿の裏手に
石柱でできた独特の囲いが、道に沿って続いている。天皇陵などでよく見かける。宮内庁の管轄であることを示す塀だ。隙間から大きな建物が
「あれが……正倉院」
思っていた以上に大きい。靄の向こうに神殿のように建つその姿には、何とも言えぬ存在感がある。
正倉とは元々、寺宝を収めた倉を意味する言葉だった。
今は、中の宝物は、鉄筋コンクリート造りの宝庫へと移され、あの建物の中にあるのは、数々の宝物を収めていた
無量は、三村教授の遺品を思い出した。
「伝 正倉院/琥珀玉」
龍禅寺の伝承が本当なら、戦国時代まで、あの中に収められていたということだ。
辺りには、誰もいない。無量はひとり、巨大な古の倉と向き合った。膨大な数の宝物を抱き続けてきた偉大な天平建築の前では、地べたに
あの緑色琥珀は、本当に『蓬萊』から聖武天皇に贈られたものだったのだろうか。
緑色琥珀と、画文帯神獣鏡と、三つの鉱物。
忍も、あの龍禅寺の男たちも、取り
冷静に考えると「無量を襲った暴漢」、やはり犯人との
三村教授が隠した琥珀玉を要求した時点で、繫がりをほのめかしたようなものだった。
問題は、暴漢と、忍との関係だ。
忍が殺害に関わっているなら、暴漢はその一味とも考えられたが、忍の口振りでは、一味どころか、対立する立場であるようだ(忍は琥珀玉を「捨てろ」と言った)。
忍は犯人を知っていて、なおかつ、その一味こそ「
復讐相手が三村教授であるならば、殺害された時点で、すでに復讐は終わったはずだ。が、忍は「その価値もない」とばかりに言い捨て、しかも、それはまだ続いているようだった。
龍禅寺雅信も、すでに死亡している。
忍は何をするつもりなのか。家族の復讐を、まだ果たし終えていないというなら、誰に、どんな形で遂行するつもりだ?
──あの男は卑劣な人間だ。欲深で恥知らずだった。あんな死に方をして当然の男だ。
三村への
あんな忍を、無量は知らない。
──この十二年間は暗闇だった。
暗く冷たく、同級生に笑顔すら見せたことがない、という忍。
自殺者を当たり前に出すような環境にいれば、嫌でも心を
龍禅寺に養われている間に、忍に何があった?
それが、忍にあの禍々しさを植え付けたのだろうか。
無量の頭に浮かんだのは、あの朝、上秦古墳に現れた眼鏡の男のことだ。「剣持昌史」と言ったか。井奈波マテリアルの次期CEOで、忍と同じ「龍の子供たち」のひとりと目される男。
しかも、暴漢と一緒にいたコートの男と、同じ残り香を
龍禅寺の家香「りゅう」。
当たってみるしかない。あの男がきっと、何か知っている。
*
この日、萌絵はいつもより早く、ホテルの部屋を出た。
警察に向かうためだ。
一晩、
とにかく殺害現場で見たことを全部話そう。犯人が忍でなかったとしても、それは警察が判断することだ。このまま放置すれば、巻き込まれた無量の身に何が起こるとも限らない。
何で今まで黙っていたのか、と刑事さんに怒られるかも、と気が重くなっていると、エレベーターのドアが開いた。ロビーに出ると、ソファにいた男が二人立ち上がった。
「永倉萌絵さんですね」
刑事さん? と思ったのは、二人ともスーツを着込んでいたからだ。だが、事情聴取をした刑事とは別の顔だ。声をかけてきた男は、苦み走った面長の
「朝早くからすみません。私、井奈波マテリアル業務監査室の
渡された名刺には「井奈波」の名と有名な稲穂マークが記されている。社名を聞いて萌絵の表情が
「な、何の御用でしょう」
「ある人物について、お話を聞かせていただきたいのです。相良忍をご存知ですか」
萌絵はあと少しで心臓が止まるところだった。
「は、はい。文化庁の方ですよね。それが何か」
「実は、このたび弊社内にてコンプライアンスに
「何でしょう。というか、私は古墳の発掘でちょっと知っているだけで、そんなには」
「相良忍は弊社の社員です」
え! と萌絵が声をあげた。馬鹿な。文化庁の職員ではないのか!
「ある案件に係わる中で身分を詐称しているものと思われます。重大なコンプライアンス違反を犯している可能性があり、当人とその周辺を調査しているところです。ご協力をお願いしたいので、大変申し訳ありませんが、今から少しお時間をいただけないでしょうか」
「え……でも、私……」
これから警察に行くところだったのだ。
「どうしても確認していただきたい内部資料があるのですが、社外に持ち出すことができません。ついては弊社までご同行いただきたいのです。三、四時間ほどお時間を
「それって……あの、三村教授の事件と何か関わりがあったりするんでしょうか」
小豆原と名乗った中年男性は、口を引き締めて、厳しい顔つきになった。何とも言えませんが、と前置きした上で「場合によっては」と低く告げた。
萌絵は青くなってしまった。
体の底から震えが湧き起こり、
「判りました」
萌絵を乗せた車がエントランスから出ていくところを、ちょうどジョギングから戻ってきた無量が目にした。タクシーかと思ったが、緑ナンバーではない。黒塗りの高級車だ。隣に誰か乗っていた。警察……?
「あいつ、一体どこに」
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