第四章 龍の子供たち⑦

 二人は再び、山の辺の道を北に向かって歩き始めた。陽射しがあったのは午前中までで、空はまたどんよりと曇り始めている。思えば、奈良に来てから、きれいな青空が広がったのは三村教授の告別式の日だけだった。

 陽射しがなくなると、冷え込みが一段と厳しく感じられ、気持ちまでふさいでいくようだ。気がつくと、さんざん一緒に近所の山を歩いて回った子供の頃の記憶を辿たどっていた。当時の忍はちょっとしたガキ大将で、小さい無量はいつも引きずり回されていた。忍の背中ばかりを見て、もう歩けない、と泣きべそをかくと、怒りもせず、しゃがみこんで、おんぶしてくれた。

 化石掘りばかりしている無量を、近所の子供がからかうと、忍は必ずやり返してくれた。隠された靴を、夜中までかかって捜してきてくれたこともあった。

 そんな思い出を辿って、つい遅れ気味になる無量を、忍が振り返った。

「どうした? もう歩けないか。おんぶしてやろうか?」

「なに言ってんだ。馬鹿」

 忍は笑った。

 今にも雪が降り出しそうだ。冬枯れのミカン畑の上には、ちんうつな雲がかぶさっている。細い枝の上でひよどりが遊んでいる。やますその細道を歩き続けていくと、不意にからりと視界が開けた。神社の境内に出た。

「檜原神社だ。この辺りは昔、かさぬいのむらと言って、伊勢に移る前にアマテラスがまつられていた。だから、元伊勢、と呼ばれてる」

 どこかで聞いた説明だと、無量は思った。

 古代の自然信仰を思わせる、社殿も拝殿もない神社で、囲い地の中のいわくらが御神体だ。神域らしく、りんとした空気が独特だ。社務所に明かりがついている以外は、他に人気もなく、きれいに掃き清められた境内は、しん、と静まり返っている。

 かしわを打つ音が、響いた。

 忍だった。二拝二拍手一拝の作法も美しく、まるでどこかの神官みたいだ、と無量は思った。体に染み込んでいるような一連の仕草は、昨日今日で身につけた美しさではないように思えた。

 顔をあげた忍は、しばらく山のほうを見つめていた。神がいますというかん山に、どんな気配を感じているのか。黙ると、もう物音もしない。彼らを包むのは自然の懐の、ただ厳粛な沈黙だ。

 風に乗って、小雪がちらりと舞った。

 ゆっくり振り返った忍は、どこか切なそうに無量を見ていた。

「……俺に、きたいことがあったんだろ?」

 心臓が小さく跳ねた。

 忍はとうに気づいていたのだ。

 無量はうつむいて言いよどんでしまう。すると、口の重さを見て取った忍が、助け船を出すように、ポケットから小さな桐箱を取りだし、差し出した。ふたには草書で「りゅう」と記されている。「開けてごらん」と促されて、無量は蓋を開けてみた。ふわ、と上品な匂いがした。ほんの一瞬で辺りが浄められた気すらした。包み紙代わりの半紙を開くと、お香が入っている。

 この幽幻な感じ。どこかでいだ覚えがある。

きやの香りがするだろう? 龍禅寺の屋敷でいつもいてるお香だ」

「龍禅寺の?」

「あそこの家はね、織田信長の名代として東大寺かららんじやたいを持ってきたこと、いたく誇りにしていてね。幾代目かの主人が自ら、中国から取り寄せた伽羅で蘭奢待に似せた香を創らせた。それがこの香だ。龍禅寺の家香としていつも焚かれてる」

 ここに萌絵がいれば、例の屋敷で焚かれていたのと同じものと判ったろう。だが、無量は行っていないにもかかわらず、この香りに覚えがあった。どこか高貴で深みのあるこの匂い。嗅いだ瞬間に思い出したのは、あの朝、古墳にいた眼鏡の男だった。

 あの男の残り香だ。朝の上秦古墳に黒塗りの車で乗り付けた眼鏡の男。それだけじゃない。二日前の夜、無量を襲った男の片割れからも、かすかにこの匂いがした。

「なんで、おまえがこれを?」

「それは俺の、大嫌いな匂いだ……」

 とあからさまに言った忍は、澄んだ風で身を洗うように息を吸い、天を仰いだ。そして三輪鳥居の向こうにはるか望む二上山の二こぶを見やり、手前に広がるひなびた風景を目に宿した。

「龍禅寺の人間は皆、この香を家で焚く。誇らしげに。それがりゆうの縁者であるあかしだからだ」

「まさか、あの朝の眼鏡男は、龍禅寺の関係者なのか? なんでおまえが龍禅寺の香なんて持ってるんだ? 龍の縁者って一体、おまえとどういう関係が」

 伏し目がちに振り返った忍は、どこかものさびしそうな顔をしている。

「それは当人たちに訊けば分かることだよ。……それより、おまえの用件を聞こうじゃないか。無量」

 無量は忍をじっとにらんで、しばし押し黙っていたが、やがて意を決して、上着のポケットから、小箱を取りだし、忍へと差し出した。

「これを捜してたんだろ?」

 忍は目をみはった。ポリエチレンフォームを詰めた箱に入っていたのは、はくだまだ。上秦古墳で出土した緑色琥珀。ぎよくじようの先端部と思われる一番大きな琥珀玉で、古代文字が刻まれている。三村教授が死の直前に隠した「蓬萊の海翡翠」だった。

「………。見つけたんだね。無量。さすがだ」

「おまえは、あの夜、これを手に入れるために三村サンとこにいったんだろ」

「あの夜?」

「二日前の夜、妙な連中に襲われた。首絞められて『上秦から出た琥珀玉はどこだ』と訊かれた。一人にはその香と同じ匂いがした。教授はそいつらに『西原に渡した』って言ったらしい。あいつらが持ってた写真。あれ、おまえが発掘現場で撮ったやつだ。違うか」

 忍は神妙な顔つきで、無量を凝視する。無量は後にはひかず、

「あの暴漢は、おまえの仲間なんだろう。俺を脅すためにおまえがよこしたんだろう?」

「………」

「おまえはあの夜、事件の夜、俺達と別れた後、三村サンの研究室に行ったんだ。この琥珀玉を手に入れるために。そうなんだろう?」

 すると、忍はふと表情を和らげ、苦笑いを漏らした。

「どうりで永倉さんの様子が変だと思ったら、そうか。やっぱり疑われてたのか」

「忍。おまえなのか? あの時あそこにいたのは」

「僕は殺してない」

 いやにきっぱりと、忍は断言した。

「三村教授を殺したのは、僕じゃない」

「おまえじゃ、ない……?」

「手を引いてくれないか。無量」

 忍は、眼光鋭く言った。

「今度の件は、おまえたちには関わりないことだ。このまま何もなかったことにして、発掘が終わり次第、東京に帰って欲しい」

「やっぱり何かあるんだな。三村教授は親父さんとどんな関係があったんだ。おまえがここに現れたのは、一体なんのためだったんだ」

ふくしゆうなんだ。無量」

 ゾッとするほど冷たい口調で、忍が言った。

「誰にも邪魔はさせない。おまえにも。全ては始まってしまった。もう、後戻りはできない」

 およそ忍の口から出て来るとは思えない言葉だった。暗い情念に満ちた単語が、無量の胸に低温火傷やけどのように鈍く焼き付いた。忍の表情は次第に酷薄な色を漂わせ、そのひとみは氷のようで、今さっきまで傍らで話していた人間と同一人物とは思えないほどだ。

「どういうことなんだ。やっぱり、あの写真を撮ったのはおまえの親父さんなんだな?」

「見たんだね。三村教授が写った三十年前の写真」

「ああ、見た。三村サンとおまえの親父さんの間に何があったんだ」

「あの男は卑劣な人間だ。欲深で恥知らずだった。あんな死に方をして当然の男だ。僕は一切同情しないよ、無量。奴はそれだけのことをしたんだ」

 無量の脳裏に浮かんだのは、三村のメッセージだった。「これは罪滅ぼしです」という遺言めいた言葉。忍が言っているのは、その「罪」のことなのか。

「本当におまえが殺したんじゃないのか。忍」

 忍は鼻でせせら笑った。

「僕が手を下すまでもない。あんな男のために手を汚す必要もない」

 ひようへんした忍に動揺した無量が、たまらず問いかけた。

「いったい、どうなっちゃったんだよ、おまえ。この十二年で一体何が」

「……思い出したくもない。だが忘れることもできない。この十二年間は暗闇だった」

 けんに苦悩をにじませ、忍はちようするようにつぶやいた。

「僕の背中には、家族の無念がのしかかってる。それだけじゃない。僕は……いや俺は俺たち家族の人生を狂わせた人間に報復しなくてはならないんだ。これは俺の人生をけた復讐だ。だから何も言わないでくれ。何も見なかったことに」

「イミわかんねー。なに言ってんだよ」

「……無量。おまえ、俺がくっつくみたいに座っても、よけようとしなかったな。二度とも」

 無量ははっとした。忍はほんの少し目元を和らげて、

「普通、他人にあんなにぴったりくっつかれたら、気持ち悪くて、無意識に間隔置こうとするのに、おまえは離れなかった。不器用なとこは昔のまんまだった。それがうれしかった」

「だから、なに言ってんだよ」

「会えて嬉しかったよ。無量。それだけは、あの男に感謝してもいい。束の間でも昔に戻れてよかった。短い間だったけど、おまえと過ごせた時間は、懐かしい思い出の化石を掘ってるみたいで楽しかった」

「忍!」

 歩き出した忍を目で追うと、鳥居の向こうの農道に、一台の黒い車がやってくるのが見えた。あの朝、眼鏡の男が乗っていたのと同じ黒塗りの高級車だ。忍にはそれが迎えだと分かっていたのだろう。無量を見て、

「その琥珀玉は誰の手も届かないところへ。いや、いっそ捨ててしまってもいい。今度のことは全部忘れてくれ。無量」

「んなことできるわけねーだろ! ひと一人死んでんだぞ!」

「いや、四人だ」

 と忍が言った。

「両親と妹のを含めて、四人だ」

 無量はぼうぜんと立ち尽くしてしまう。

「迷惑かけて、すまなかった。無量。それだけ伝えたかった。もう二度と会うこともない。……さよなら。無量」

 忍はきびすを返して歩き出した。車から運転手が降りてきて、後部座席のドアを開けた。そういう扱いをされるのが、さも当たり前のように乗り込んでいく。

 無量はこんしんの力で怒鳴った。

「馬鹿な真似すんな! 化石なんかじゃねえよ、もう化石なんかにならねーよ! 戻って来いよ! 昔のおまえに戻れよ! 忍!」

 黒塗りの高級車は、小雪の舞う農道の下り坂を走りだしていく。後部座席の忍は、とうとう振り返ろうとはしなかった。

 置き去りにされた無量は、立ち尽くすばかりだ。

 物淋しい冬の大和盆地に、小雪が舞う。

 車の音が遠ざかると、また神奈備山のすそに沈黙が戻ってくる。

 ふと風が頰をでた時、無量は思い出した。数日前、発掘現場で、遠くの二上山を眺める忍の横顔に、誰かの面影が重なるのを感じた。あれは、あの朝の、眼鏡をかけた中年男だ。

 ──ここにはまだ途方もない宝物が埋まっているんでしょうね。

 ──この古墳にはまだ埋もれている宝物があるに違いない。

 だが忍に既視感を抱いたのは、言葉のせいじゃない。そう、匂いだ。あのきやの芳香がほんの一瞬、淡く忍からも香ったせいだ。

 遥か西に望む二上山が、吐く息に白く滲む。

「……しのぶちゃん……」

 小雪はやがて大きなぼたん雪となり、

 目の前に広がるミカン畑を白く塗りつぶしていった。

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