第四章 龍の子供たち⑦
二人は再び、山の辺の道を北に向かって歩き始めた。陽射しがあったのは午前中までで、空はまたどんよりと曇り始めている。思えば、奈良に来てから、きれいな青空が広がったのは三村教授の告別式の日だけだった。
陽射しがなくなると、冷え込みが一段と厳しく感じられ、気持ちまで
化石掘りばかりしている無量を、近所の子供がからかうと、忍は必ずやり返してくれた。隠された靴を、夜中までかかって捜してきてくれたこともあった。
そんな思い出を辿って、つい遅れ気味になる無量を、忍が振り返った。
「どうした? もう歩けないか。おんぶしてやろうか?」
「なに言ってんだ。馬鹿」
忍は笑った。
今にも雪が降り出しそうだ。冬枯れのミカン畑の上には、
「檜原神社だ。この辺りは昔、
どこかで聞いた説明だと、無量は思った。
古代の自然信仰を思わせる、社殿も拝殿もない神社で、囲い地の中の
忍だった。二拝二拍手一拝の作法も美しく、まるでどこかの神官みたいだ、と無量は思った。体に染み込んでいるような一連の仕草は、昨日今日で身につけた美しさではないように思えた。
顔をあげた忍は、しばらく山のほうを見つめていた。神が
風に乗って、小雪がちらりと舞った。
ゆっくり振り返った忍は、どこか切なそうに無量を見ていた。
「……俺に、
心臓が小さく跳ねた。
忍はとうに気づいていたのだ。
無量は
この幽幻な感じ。どこかで
「
「龍禅寺の?」
「あそこの家はね、織田信長の名代として東大寺から
ここに萌絵がいれば、例の屋敷で焚かれていたのと同じものと判ったろう。だが、無量は行っていないにも
あの男の残り香だ。朝の上秦古墳に黒塗りの車で乗り付けた眼鏡の男。それだけじゃない。二日前の夜、無量を襲った男の片割れからも、かすかにこの匂いがした。
「なんで、おまえがこれを?」
「それは俺の、大嫌いな匂いだ……」
とあからさまに言った忍は、澄んだ風で身を洗うように息を吸い、天を仰いだ。そして三輪鳥居の向こうに
「龍禅寺の人間は皆、この香を家で焚く。誇らしげに。それが
「まさか、あの朝の眼鏡男は、龍禅寺の関係者なのか? なんでおまえが龍禅寺の香なんて持ってるんだ? 龍の縁者って一体、おまえとどういう関係が」
伏し目がちに振り返った忍は、どこか
「それは当人たちに訊けば分かることだよ。……それより、おまえの用件を聞こうじゃないか。無量」
無量は忍をじっと
「これを捜してたんだろ?」
忍は目を
「………。見つけたんだね。無量。さすがだ」
「おまえは、あの夜、これを手に入れるために三村サンとこにいったんだろ」
「あの夜?」
「二日前の夜、妙な連中に襲われた。首絞められて『上秦から出た琥珀玉はどこだ』と訊かれた。一人にはその香と同じ匂いがした。教授はそいつらに『西原に渡した』って言ったらしい。あいつらが持ってた写真。あれ、おまえが発掘現場で撮ったやつだ。違うか」
忍は神妙な顔つきで、無量を凝視する。無量は後にはひかず、
「あの暴漢は、おまえの仲間なんだろう。俺を脅すためにおまえがよこしたんだろう?」
「………」
「おまえはあの夜、事件の夜、俺達と別れた後、三村サンの研究室に行ったんだ。この琥珀玉を手に入れるために。そうなんだろう?」
すると、忍はふと表情を和らげ、苦笑いを漏らした。
「どうりで永倉さんの様子が変だと思ったら、そうか。やっぱり疑われてたのか」
「忍。おまえなのか? あの時あそこにいたのは」
「僕は殺してない」
いやにきっぱりと、忍は断言した。
「三村教授を殺したのは、僕じゃない」
「おまえじゃ、ない……?」
「手を引いてくれないか。無量」
忍は、眼光鋭く言った。
「今度の件は、おまえたちには関わりないことだ。このまま何もなかったことにして、発掘が終わり次第、東京に帰って欲しい」
「やっぱり何かあるんだな。三村教授は親父さんとどんな関係があったんだ。おまえがここに現れたのは、一体なんのためだったんだ」
「
ゾッとするほど冷たい口調で、忍が言った。
「誰にも邪魔はさせない。おまえにも。全ては始まってしまった。もう、後戻りはできない」
およそ忍の口から出て来るとは思えない言葉だった。暗い情念に満ちた単語が、無量の胸に低温
「どういうことなんだ。やっぱり、あの写真を撮ったのはおまえの親父さんなんだな?」
「見たんだね。三村教授が写った三十年前の写真」
「ああ、見た。三村サンとおまえの親父さんの間に何があったんだ」
「あの男は卑劣な人間だ。欲深で恥知らずだった。あんな死に方をして当然の男だ。僕は一切同情しないよ、無量。奴はそれだけのことをしたんだ」
無量の脳裏に浮かんだのは、三村のメッセージだった。「これは罪滅ぼしです」という遺言めいた言葉。忍が言っているのは、その「罪」のことなのか。
「本当におまえが殺したんじゃないのか。忍」
忍は鼻でせせら笑った。
「僕が手を下すまでもない。あんな男のために手を汚す必要もない」
「いったい、どうなっちゃったんだよ、おまえ。この十二年で一体何が」
「……思い出したくもない。だが忘れることもできない。この十二年間は暗闇だった」
「僕の背中には、家族の無念がのしかかってる。それだけじゃない。僕は……いや俺は俺たち家族の人生を狂わせた人間に報復しなくてはならないんだ。これは俺の人生を
「イミわかんねー。なに言ってんだよ」
「……無量。おまえ、俺がくっつくみたいに座っても、よけようとしなかったな。二度とも」
無量ははっとした。忍はほんの少し目元を和らげて、
「普通、他人にあんなにぴったりくっつかれたら、気持ち悪くて、無意識に間隔置こうとするのに、おまえは離れなかった。不器用なとこは昔のまんまだった。それが
「だから、なに言ってんだよ」
「会えて嬉しかったよ。無量。それだけは、あの男に感謝してもいい。束の間でも昔に戻れてよかった。短い間だったけど、おまえと過ごせた時間は、懐かしい思い出の化石を掘ってるみたいで楽しかった」
「忍!」
歩き出した忍を目で追うと、鳥居の向こうの農道に、一台の黒い車がやってくるのが見えた。あの朝、眼鏡の男が乗っていたのと同じ黒塗りの高級車だ。忍にはそれが迎えだと分かっていたのだろう。無量を見て、
「その琥珀玉は誰の手も届かないところへ。いや、いっそ捨ててしまってもいい。今度のことは全部忘れてくれ。無量」
「んなことできるわけねーだろ! ひと一人死んでんだぞ!」
「いや、四人だ」
と忍が言った。
「両親と妹の
無量は
「迷惑かけて、すまなかった。無量。それだけ伝えたかった。もう二度と会うこともない。……さよなら。無量」
忍はきびすを返して歩き出した。車から運転手が降りてきて、後部座席のドアを開けた。そういう扱いをされるのが、さも当たり前のように乗り込んでいく。
無量は
「馬鹿な真似すんな! 化石なんかじゃねえよ、もう化石なんかにならねーよ! 戻って来いよ! 昔のおまえに戻れよ! 忍!」
黒塗りの高級車は、小雪の舞う農道の下り坂を走りだしていく。後部座席の忍は、とうとう振り返ろうとはしなかった。
置き去りにされた無量は、立ち尽くすばかりだ。
物淋しい冬の大和盆地に、小雪が舞う。
車の音が遠ざかると、また神奈備山の
ふと風が頰を
──ここにはまだ途方もない宝物が埋まっているんでしょうね。
──この古墳にはまだ埋もれている宝物があるに違いない。
だが忍に既視感を抱いたのは、言葉のせいじゃない。そう、匂いだ。あの
遥か西に望む二上山が、吐く息に白く滲む。
「……しのぶちゃん……」
小雪はやがて大きなぼたん雪となり、
目の前に広がるミカン畑を白く塗りつぶしていった。
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