第三章 正倉院と緑の琥珀④

 二人は「伝 正倉院」の琥珀をひき続き「調査」のためと称して預かると、謹んで「おいとま」することにした。

 玄関先で、為夫氏の妻とばったり出くわした。髪をかっちりと結い上げ、薄紫の訪問着をきれいに着こなした和装美人だ。みの画廊から今、帰宅したところだという。為夫氏は気さくな主人だったが、妻のしよう夫人は雅信氏の実娘というだけあって、かんろくがある。

「……このたびはご愁傷様にございました。せっかくお越しになられたのに、留守などしていて、大変失礼致しました」

 笙子夫人が深々と頭を下げたので、亀石と萌絵もつられて深くお辞儀した。

 為夫氏が経緯を語ると、笙子夫人はますます恐縮した。

「まあ、父の遺品までわざわざご丁寧に。痛み入ります。奥様には改めて、お悔やみのお手紙を、と思っていたところですのに……」

「お気持ちはもう充分に。ありがとうございました。それでは失礼します」

 これ以上、長居して赤の他人とばれては困る。亀石は萌絵をつれてそそくさと龍禅寺邸を後にした。

 岐阜から奈良に戻るため、めいしん自動車道を一路、西に向かって車を走らせた。ぶき山の頂をどんよりと雪雲が覆っている。雪がちらつき始めていたが、チェーン規制はまだないので、今のうちに急いで帰ったほうがよさそうだ。が、亀石の頭を占めているのは、雪道の心配ではなかった。

「天皇家の竜宮伝説か……。三村教授は南方海洋民説を唱えてたが、その根拠の一端は、どうやら例の龍禅寺文書とやらだな。元々は、東大寺や興福寺にあった古文書の写しだというから、年代的には、下手すると、奈良時代に近いものもあるぞ」

 信長と東大寺の関係から、龍禅寺の先祖がその写しを得たのだろう。正倉院の宝物持ち出しは難しくても、蘭奢待を切り取った信長なら、古文書の写しぐらいはゴリ押しできたろう。

 問題は、かつて正倉院にあったという「はくまがたま」だ。

「例の正倉院宝物の目録である『東大寺献物帳』ってやつは、五つに分けられるが、中でも有名なのは『国家珍宝帳』ってやつでな。亡くなった聖武天皇に代わって、妻の光明皇后が大仏開眼のために献納した宝物の目録なんだ」

 その珍宝帳には、後に持ち出された宝物を「じよもつ」として、名前の部分に目印のせんが貼られた。七種あるという「除物」のうちの二件──「ようほうけん」「いんほうけん」については、明治時代に大仏の足元から見つかった国宝・金銀荘大刀二振りが、それだったことが、つい最近判明したばかりだ。他にもふじわらのなかの乱(みのおしかつの乱)が起きた際、大量の武具が持ち出されたりなどもしている。代用品になったりちたりして、実際に残っているものは四分の一程度とも言うが、今度の「琥珀玉」は少なくとも珍宝帳にある「除物」付箋の七種には該当しない。その後も、細々と出入りはあったようだが、勅封がなされた正倉院の管理は厳重だ。戦国時代、東大寺は戦に巻き込まれて大仏殿はじめ多くの塔頭が焼けたが、正倉院は被害を免れている。少なくとも、記録には何も残っていない。

「まあ、一口に正倉院の宝物っつっても、北倉・中倉・南倉合わせて九千点もあるしな」

「三村教授は、龍禅寺文書を解読するお手伝いをしてたんですよね。そのついでに『勾玉』のことも調べてって頼まれたんでしょうか」

「仮に、龍禅寺雅信から預かった琥珀勾玉を〈正倉院琥珀〉、上秦古墳から出た琥珀玉を〈上秦琥珀〉と呼ぶとしよう。〈上秦琥珀〉が出た時、三村さんは『ほうらいうみすいが出た』って言ったんだよな? 真っ先に緑色琥珀だと気づいたのは〈正倉院琥珀〉を持ってたのと、前に不空羂索観音の琥珀を見ていたせいだとしても、しかし、なんでそれを『海翡翠』と呼んだかは分からない。もしかしたら、龍禅寺文書に何か書かれてあったのかも。帰って解読してみっか」

「できるんですか? 所長」

「できる友人にやらせる」

 顔の広さだけが取り柄なのだ。

「もうひとつの問題は、あの水中写真だな。どうも海底遺跡くさいが」

「海底遺跡?」

「ああ。海中にある人工物と思われる巨石構造物のことだ。元々、陸にあったもんが、何千年か前に海面上昇で沈んだとか言われてる。日本で有名なのはぐにじまだな。遺跡認定はされてないが、人工物なのはほぼ間違いないって話だ」

「でも、なんでそんな写真が、正倉院の琥珀と一緒に?」

「分からん。三村さんがスキューバ・ダイビングできるなんて話も聞いたことねえし。自分で撮ったとは思えないんだよな。やっぱ、人からのもらいもんかな」

「私は……雅信氏と一緒に写ってた洞窟の写真が気になります」

「サビチにて、のほうか……。サビチ。南の島みたいな名前だが、どこの国だ?」

「サガラって、誰なんでしょう」

 萌絵が気になるのは、撮影者のほうだった。

「偶然だと思うんですけど……。文化庁の──西原くんの幼なじみの人も、サガラって言うんです」

 ほんの偶然だろうか。そもそも珍しい名前だし、滅多には聞かないみようだ。

 萌絵が目撃した不審人物。薄暗い廊下で、コートのすそなびかせて走り去ったあの男。

 殺伐としたひとみの……。

「おまえら、なんか隠してるだろ」

 亀石からいきなり図星を指されて、萌絵は露骨に、ドキッとした。ハンドルを握る亀石は、横目に萌絵をちらっと見た。

「まだ何か警察に言ってないことがあるんじゃないのか?」

「い、いいえ。全部話しましたよ」

 本当に? と念を押される。覗き込まれると見透かされそうで怖い。無量からは「誰にも言うな」と固く口止めされているのだ。だが、亀石は何かぎ取っているようで、

「おまえら、なんか心当たりがあるみたいだが、間違っても、自分たちだけで確かめるような真似はすんなよ。相手は人を殺すような人間だ。わかってんだろうな」

 くぎを刺されてしまった。

 萌絵はなんだか、胸騒ぎがしてならない。消えてしまった「蓬萊の海翡翠」。

 発掘現場に現れた相良忍。

 そもそも居酒屋で別れた後の、忍のアリバイは、誰にも分かっていないはずだ。

 あの後すぐ、神華大学に向かったとするならば。

 充分、犯行に及べる……。


 萌絵は不安を鎮めるようにセーターのそでくちもとにあてた。うっすらと、龍禅寺の屋敷でかれていた香の匂いが染み込んでいる。吸い込むと、あのいにしえの文物に囲まれた、いかめしい家の空気がよみがえる。

 遠い歴史の彼方かなたへと心を誘われる。何とも優美で奥ゆかしい、幽幻な香りだ。

 竜宮城にいたような気分にさせる匂いだと、萌絵は思った。


    *


 発掘現場に朝方ちらついた雪は、幸い積もるほどではなかったが、時間が経つごとに気温がどんどん冷え込むようで、作業する身は難儀する。トレンチの中は底冷えし、軍手をしていても手がかじかむほどだ。

 無量は手を休めて、土の壁の向こうを見やった。白い息に三輪山がにじむ。さびしげにたたずむ大和棟の民家、その上空を重く垂れ込めた雪雲が覆い、その後も時折、雪がちらついた。トレンチに入った作業員は黙々と、土と向き合い、静かな現場は真冬の寒さを得て、いっそう物淋しさを増している。時折、時報のように電車の通る音が響くのみだ。

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