第三章 正倉院と緑の琥珀②
*
亀石たちが西大寺にほど近い三村の自宅を訪れた頃には、すでに辺りも真っ暗になり、街灯が夜道を照らすばかりとなっていた。
仏壇の前には後飾りの小机がしつらえてあり、火葬を終えて戻ってきたばかりの遺骨の箱が安置されている。遺影を隠すヴェールのように、線香から細い煙が立ちのぼる。遺影の三村教授は、非業の死を遂げたのが噓のように、穏やかな笑顔を浮かべていた。
白木の
「子供たちに形見分けをしようと、書斎を整理していたら、このようなものが」
喪服から普段着に戻った夫人が差し出したのは、A3サイズの封筒だった。
表に「自分の身に何かあった時は、これを亀石発掘派遣事務所の亀石所長の元に持っていくように」と不穏な
中から出てきたのは数枚の写真と、桐の小箱だ。
写真は、古いアルバムに収まったものと、それとは別に比較的新しい写真が数枚。
桐箱には脱脂綿が敷き詰められ、緑色の玉が、赤子のように大切に収められている。
勾玉だった。
同封の便せんには、こんな文章が記されていた。
〝これは私の罪滅ぼしです。今後の研究にお役立てください。三村武昭〟
親指ほどの大きさの勾玉だ。くすんだ緑色で部分的に不透明。一見、碧玉に見えるが「琥珀」と箱書きしてある。
更に、裏には「伝
「緑色琥珀の勾玉だ。──正倉院の勾玉?」
一方、写真に写っているのも、緑色の玉だ。こちらは勾玉ではなく、数個の管玉だ。敷物の上にきちんと並べられてあり、「不空羂索観音・冠部の琥珀玉」とのキャプションがある。日付は去年の秋、時期的には東大寺法華堂の修繕の際に撮られたもののようだ。
「この管玉も緑色
「そう見えるか」
「ええ。間違いないと思います」
と無量が言った。三村教授は法華堂の修繕調査にも参加していた。その冠にも緑色琥珀が使われていた、と忍が言っていた。同じ玉だ。忍が見せたのと同じ「緑色琥珀の管玉」だった。
東大寺法華堂の本尊・不空羂索観音像は、
「これ、手にとってみてもいいですか」
無量が許可を
「間違いない。この勾玉も、緑色琥珀……」
「『龍禅寺雅信氏』というのはお知り合いですか」
「三村の古い知人で、よくお宅にも伺うような間柄でしたが、詳しいことは私も……。確か古美術の
「連絡を取ってもらうことは可能ですか? 差し支えなければ、ですが」
後ろから萌絵が服の
大体自分が殺されると分かっていたなら、警察に訴えるなり何なりするはずなのだ。それをしなかった──できなかった理由があるとしたら、それは何だ。
三村夫人は「名簿を持ってきます」と奥へ消えた。
待つ間、亀石と萌絵は再び遺品に見入った。
桐箱にある、緑色琥珀の勾玉。
「伝・正倉院って穏やかじゃないですね。盗まれた、とか?」
「正倉院の入口には勅封がしてあって、内部の宝物は簡単に持ち出せるもんじゃない。特に、聖武天皇関係の一番重要な宝物が収められていた北倉は、大昔から厳重に管理されてた。
「少なくとも、石自体は本物の琥珀っすね」
問題は、古いアルバムの写真だ。
だいぶ
更に頁をめくると、水中で撮ったとおぼしき写真が続いた。全体に画面が青く、やけに整然とした岩場が写っている。岩場というより人工の階段だ。水中に階段……?
そのうちの一枚が目を
「線刻画か……?」
石器時代の遺跡などでよく見かける岩絵だ。ラスコーの洞窟などの彩色岩絵が有名だが、これは岩に彫った線刻文字のようだ。無量がハッとして、先程見せてもらった「
「似てる」
と
「この写真の場所、どこか分かりませんかね」
裏書きもない。どこか海か湖の中のようなところのようだが、具体的な場所を示す手がかりは、ゼロだ。
「これが自分の〝罪滅ぼし〟とは、ただならぬ感じがするな。一体、三村さんは何をやらかしたんだ?」
岩刻文字を撮った古い水中写真と、
*
大寒を過ぎて、一段と寒さの厳しい朝だった。
発掘現場の土にも、霜柱が立っている。ブルーシートもうっすら霜に覆われて白くなっていた。
翌朝、集合時間よりも三十分早く発掘現場に着いた無量は、古墳の前に、奇妙な黒塗りの高級車が停まっていることに気がついた。巻向山の
調査地の中に、人がいる。無量は近づいていって声をかけた。
「マスコミの方ですか」
そこにいたのはコートを羽織ったスーツ姿の、四十代後半と見られる男だった。面長で目鼻立ちがくっきりした顔立ちに、クレバーな印象のハーフリム眼鏡をかけていて、街の真ん中のオフィス・ビルならともかく、土まみれの発掘現場には似つかわしくない装いだ。乾いた土を踏む高級そうな革靴も、ひどく浮いている。
「一応、ここ関係者以外立ち入りは遠慮してもらってるんすけどね」
「そうなのか。フェンスもないから、構わないのかと思ったよ」
「見学なら、神華大学か市の文化財センターを通してください。それから調査地に入るならネクタイは外してください。こんな場所でひらひらさせてると、ベルコン(ベルトコンベアー)に巻き込まれますよ」
横を通り抜けた時、ふわ、と風に乗って線香のような匂いがした。
先日の、三村の葬式を思い出させる香りだったので、無量はお寺の関係者か何かとも疑った。
「作業員かい? ずいぶん早い出勤だね」
「現場には一番に来ることに決めてるんです」
「それは、これから発掘するためのお宝をこっそり埋めるため……とかかな?」
無量が猛然と
だが、眼鏡の男は悪びれもせず、微笑んでみせるばかりだ。
「銅鏡が出たのはどのへんかな。掘り当てたのは、君かい?」
「教授の件なら何も答えられませんよ。質問されても答えるなって言われてるんです」
「それは何か不都合があるから?」
「作業の邪魔だからです。あの騒ぎのおかげでだいぶ作業が遅れてるんです。いいから出てってくれませんかね」
無愛想に言って、トレンチを覆うブルーシートに載せた
「君、知ってますか。ここから東に真っ直ぐ行ったところにある
「……そうなんスか。よそから来たもんで」
「檜原神社の真西には、死者の山とされる二上山がある。太陽が昇るところに檜原神社、沈むところに
「なんすかソレ。おたく、歴史の先生とかですか」
「君、
無量は土囊を持ち上げようとして、ぴたり、と動きを止めた。
「何の用です。あんた、誰ですか」
「趣味で古代史を勉強してる者です。ここにはまだ、途方もない宝物が埋まっているんでしょうねえ。期待していますよ、
無量は思わず立ち上がり、言い返そうとしたが、眼鏡の男はすでにきびすを返し、車に乗り込んでいくところだった。冷たい北風の吹く畑の道を、高級車は去っていってしまった。無量は警戒の表情を解かない。一体何者だったのか。この古墳について何か知っているような口振りだった。
そこへ入れ違うように、別の車がやって来て、調査地のそばに停まった。丸みを帯びたコンパクト・カーから降りてきたのは、萌絵と亀石だ。
「やっぱり、来てる。どんだけ早く来れば気が済むの」
「別に早かねーだろ。三十分くらい」
「ここが今度の現場か。三世紀の前方後円墳。思ったより、デカイなあ」
亀石が上秦古墳に足を運んだのは、これが初めてだ。
「こりゃあ、さぞ鬼の手も
「そんなもん出てません」
「ご
萌絵はきょとんとしてしまった。……手が、嗅ぎつける? 鼻もないのに?
「鼻で嗅ぎ取れない匂いを、鬼の鼻が嗅ぐんだよ。な、無量。こいつの右手は、海外じゃ『
「なに言ってるんすか。変なこと言わないでくださいよ」
「変じゃねえだろ。過敏すぎて手袋でガードしてるくせに」
萌絵はますます奇妙な顔をした。……過敏すぎて……?
「古傷隠してるだけっすよ。人が見て気持ちいいもんでもないから」
「謙遜すんな。で、今の車は何だ? 無量。警察か? にしちゃ高級すぎんな」
「よくわかんない奴でした。なんか俺のこと知ってた」
なに? と亀石が眼を
「無量、俺達はちょっくら岐阜に行ってくる。例の『龍禅寺雅信』に会いに」
三村夫人が連絡をつけてくれたらしい。一緒にいくか? と
「こんな時に休んだら現場監督に殺されます。調査日程も、ぎりぎりですし」
「そうだな。何かあったら携帯に画像送るから、アドバイスをくれ。じゃあな」
「西原くん、私が見てないからってサボっちゃ駄目だよ」
「誰が。あんたじゃあるまいし」
憎まれ口を
──あの時見た人、相良さんと似てたような……。
萌絵の目撃証言を、無量も
「なんだなんだ? 二人して、じっと見つめあったりして。おまえら怪しいぞ」
「なんすか。それ」
「ばかなこと言ってないで、行きますよ、所長」
萌絵と亀石は、車で去っていった。見送った無量は、携帯を取りだした。
車が踏切を越えていく辺りで、萌絵にメールを送った。「勝手に動くなよ」と。すぐに「どういう意味?」と返ってきたが、返信はしなかった。
どんよりと曇った空が、箸墓の森に重苦しく覆い
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