第三章 正倉院と緑の琥珀①
そんなはずはない、と萌絵も思う。
無量は一笑に付した。馬鹿なこと言うな。大体、忍には理由がない。文化庁の一職員が、なぜ大学教授を殺すんだ。理由は萌絵にだって分からない。しかし……。
笑い飛ばした無量が、ふと真顔になり、考え込むように口をつぐんだ。
だが、すぐにまた鼻で笑い、
「あんたも俺も酔ってただろ。酔った頭で見たもんがあてになるかよ。ありえもしないこと、警察なんかの前でペラペラ口にすんなよ」
確かに酔ってはいた。でも、別人だとは、萌絵は言い切れない。
反面、似ても似つかない印象もある。走り去る人影の、やけに乾いた
戦地の兵士めいた無味乾燥な
忍はあんな眼はしない。湯気の向こうに見た柔和な瞳と、あれが同じであるはずがない。
殺人者の眼だ。間違いない。見ただけで呪いが降りかかりそうな、薄暗い眼だった。あれは人間の一番残酷な部分をあけすけに見せつける眼だ。見た者をいたたまれなくさせる。世に溢れる善良な人々の薄っぺらなヒューマニズムを
時が経つほど、そんな印象が強くなる。
無量は手を貸してこそくれなかったが、ふと黙った瞬間の真率な横顔から、萌絵の不安の一片を引き受けてくれたと感じた。
あれが、本当に
*
「写真が手に入った。これがなくなった緑色
所長の亀石に呼び出されて、今日の発掘作業を終えた無量と萌絵が合流した先は、駅前の焼肉屋だった。
炭火に
「間違いないか?」
三村研究室の学生が、デジカメで撮っていた画像だった。すでに土は落とされ、ポスターカラーで小さく「注記」が施されている。無量は
「まだ見つかってないんすか」
「ああ。まだだ」
「やっぱり、持ち去ったのは、三村サン刺した犯人なんですかね」
わからん、と言いながら、亀石は皿のタンを網に載せた。
「ただその可能性は高いな」
「じゃあ、この緑色琥珀を手に入れるために、犯人は三村教授を手に掛けたんですか。何で?」
それをなぜ? なんのために? なぜそこまでして?
「わからん。ただあの時の電話も、たいがい様子がおかしかったからな」
もうもうと立ちこめる煙の向こうで、亀石は苦々しそうな顔をした。
「ずいぶん要領を得ない話し方だった。ひどく慌てていて、理由もろくに言わず、とにかく渡したい物があるとだけ何遍も繰り返してた。もしかしたら、この石のことだったのかもしれん」
三村教授と亀石は、同じ大学出身で、同じ考古学研究室のOBでもあった。そんな縁から発掘員もよく派遣していたし、講演会のセッティングをしたり、シンポジウムのコーディネートをしたり、時には
「しかし、ただの大昔の玉だぞ。人ひとり殺してまで手に入れたいと思うか。ふつー」
「あの石に何があったんでしょう」
「コレクターのしわざとか」
「あれが出土したことは、まだどこにも発表されてなかったはずだけど?」
「なら、身内のしわざか? よせよ。大体、あんなもん持ち去ってどーすんだよ」
そら
「じゃあ、研究絡み? 三村教授の研究を妨害したかったとか?」
「石一個盗んで、妨害できると思うかフツー」
「でも三村サンは何か、初めからあの大珠が出るの、予想してたみたいっすよ」
無量の言葉に、亀石は、ピク、とトングを扱う手を止めた。
「その『海翡翠』が三村サンの研究の肝になる。だから、妨害するために盗もうとした。そしたら偶然そこへ本人が現れたんで、勢い余って刺した、……とか」
「そもそも教授は、本当は何の目的であの古墳を発掘し始めたんですか。所長」
「三村教授の研究テーマは、皇統の出自を探ることだ。〝記紀〟(古事記・日本書紀)にある神話的記述から歴史的事実を読み取るという立場をとって、ここ最近は〈天皇家・南方海洋民〉説を唱えていた」
忍が言っていた、アレのことか。
三村教授は、学術的には一般に「
「南方海洋民説というのは、天皇家の先祖が南方から来たって説だ。人や文化の
「かみ砕いて言うと?」
「つまり、古代の人間は大陸からばかりでなく、太平洋の海を渡って、南の島から日本列島に人や物や文化を伝えたって立場だな」
皇統の出自は、南九州、特に天孫降臨の地とされる
「その
萌絵も無量も、ぽかん、としている。
「その八尺瓊勾玉が、上秦から出土すると……?」
「そいつはさすがに行き過ぎだが、八尺瓊勾玉と思われる石の種類を特定した、と息巻いてたそうだ」
「それが『海翡翠』……? 緑色琥珀」
「南方交易の証だと三村教授は踏んだようだが、それにしたって根拠がわからん。センターの徳永サンによれば、三輪山周辺から出土する琥珀は、ほとんどが岩手県の
「この玉、何か刻まれてましたよね」
無量は気づいていた。確かに洗浄前は不鮮明だったが、よくよく見ると、表面に何か記号のようなものがある。
「教授が彫ったとか?」
「いや。それはない。ありえない。摩耗具合からしても、元々彫られてたもんだ」
琥珀は
「何かの字みたいにも見えますね」
古墳築造と同時期なら、三世紀後半の文字ということになる。だが古代文字に詳しい亀石にも、それが何だかは
「
「ともかく、取り返さないとまずいっしょ。まだ成分分析もできてないんだし」
無量は発掘員として、ここに来ているのだ。
「取り返すって……。犯人探すつもり? 相手は人殺しだよ」
「そーだけど、こっちだって貴重な出土遺物だぞ」
古墳時代の遺物といえば、立派な文化財だ。無量は腹立たしげに、
「苦労して掘り当てたの勝手に持ってかれちゃ、三村サンだって浮かばれない」
と言いながら、焦げたカルビを口に放り込み、苦い顔をする。本来は警察に任せるべきだが、こんなことになってはとても穏やかな気分ではいられなかった。
「気持ちは分かるが、おまえは発掘に専念しろ。発掘調査が無事終わることが、三村さんへの何よりの供養なんだから」
分かってますよ、と答えて無量は、スープを飲み干した。亀石のスマートフォンが鳴りだしたのは、その時だ。見たことのない番号だった。電話に出た亀石は「あっ」と背筋を正した。
三村教授の妻からだった。
「……はい、このたびは、いえ、その後少しは落ち着かれましたか。こちらこそ大変……えっ……?」
妙な間で絶句した亀石の反応に、萌絵も無量も思わず目線を返した。亀石は柄にもなくシリアスそうに
「私宛の遺品が見つかった……?」
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