第三章 正倉院と緑の琥珀①

 そんなはずはない、と萌絵も思う。

 かつこうが似ていただけだ。居酒屋でずっと見とれていたものだから、ついその印象を重ねてしまったのだ。廊下は薄暗かったし、目撃したのも、ほんの一瞬だ。気のせいだと自分に言い聞かせていたが、今、忍と再会してみて、やはり似ていると思う。ちらつく蛍光灯の下でせつ見た、振り返りざまのその顔が。

 無量は一笑に付した。馬鹿なこと言うな。大体、忍には理由がない。文化庁の一職員が、なぜ大学教授を殺すんだ。理由は萌絵にだって分からない。しかし……。

 笑い飛ばした無量が、ふと真顔になり、考え込むように口をつぐんだ。

 だが、すぐにまた鼻で笑い、

「あんたも俺も酔ってただろ。酔った頭で見たもんがあてになるかよ。ありえもしないこと、警察なんかの前でペラペラ口にすんなよ」

 確かに酔ってはいた。でも、別人だとは、萌絵は言い切れない。

 反面、似ても似つかない印象もある。走り去る人影の、やけに乾いたまなしだけが、脳裏から離れなかった。ようぼうの印象よりもそれは鮮烈だった。ほんの一瞬見ただけなのに、そのそうぼうが宿した酷薄な光だけは、目に焼き付いて消えない。いま思い出すだけでも、胸の辺りが底冷えする。

 戦地の兵士めいた無味乾燥なひとみだった。

 忍はあんな眼はしない。湯気の向こうに見た柔和な瞳と、あれが同じであるはずがない。

 殺人者の眼だ。間違いない。見ただけで呪いが降りかかりそうな、薄暗い眼だった。あれは人間の一番残酷な部分をあけすけに見せつける眼だ。見た者をいたたまれなくさせる。世に溢れる善良な人々の薄っぺらなヒューマニズムをあざわらい、辱める、そういうまがまがしさだ。

 時が経つほど、そんな印象が強くなる。

 火傷やけどが深くなるこの感覚は、脳に焼きゴテでも押しつけられているかのようだ。殺伐とした何かに頭まで引きずり込まれそうで、助けを求めるように無量へ打ち明けた。この得体の知れぬ恐怖から、無量の手袋をはめた右手が、引っ張り上げてくれるような気がしたからだ。

 無量は手を貸してこそくれなかったが、ふと黙った瞬間の真率な横顔から、萌絵の不安の一片を引き受けてくれたと感じた。

 あれが、本当に相良さがら忍だったとしたら……。


    *


「写真が手に入った。これがなくなった緑色はくだ」

 所長の亀石に呼び出されて、今日の発掘作業を終えた無量と萌絵が合流した先は、駅前の焼肉屋だった。

 炭火にあぶられる網の上でカルビの肉汁がしたたっている。はねる脂を避けるようにして、亀石がスマートフォンを差し出した。

「間違いないか?」

 三村研究室の学生が、デジカメで撮っていた画像だった。すでに土は落とされ、ポスターカラーで小さく「注記」が施されている。無量はのぞき込んで「間違いないっすね」と答えた。無量が掘り当て、三村が「ほうらいうみすい」と呼んだ緑色琥珀だ。

「まだ見つかってないんすか」

「ああ。まだだ」

「やっぱり、持ち去ったのは、三村サン刺した犯人なんですかね」

 わからん、と言いながら、亀石は皿のタンを網に載せた。

「ただその可能性は高いな」

「じゃあ、この緑色琥珀を手に入れるために、犯人は三村教授を手に掛けたんですか。何で?」

 かみはた古墳から出土した遺物だ。

 それをなぜ? なんのために? なぜそこまでして?

「わからん。ただあの時の電話も、たいがい様子がおかしかったからな」

 もうもうと立ちこめる煙の向こうで、亀石は苦々しそうな顔をした。

「ずいぶん要領を得ない話し方だった。ひどく慌てていて、理由もろくに言わず、とにかく渡したい物があるとだけ何遍も繰り返してた。もしかしたら、この石のことだったのかもしれん」

 三村教授と亀石は、同じ大学出身で、同じ考古学研究室のOBでもあった。そんな縁から発掘員もよく派遣していたし、講演会のセッティングをしたり、シンポジウムのコーディネートをしたり、時にはみにいったりもした仲だった。

「しかし、ただの大昔の玉だぞ。人ひとり殺してまで手に入れたいと思うか。ふつー」

「あの石に何があったんでしょう」

「コレクターのしわざとか」

「あれが出土したことは、まだどこにも発表されてなかったはずだけど?」

「なら、身内のしわざか? よせよ。大体、あんなもん持ち去ってどーすんだよ」

 そらえ、と亀石が焼けたカルビを無量の皿に載せた。

「じゃあ、研究絡み? 三村教授の研究を妨害したかったとか?」

「石一個盗んで、妨害できると思うかフツー」

「でも三村サンは何か、初めからあの大珠が出るの、予想してたみたいっすよ」

 無量の言葉に、亀石は、ピク、とトングを扱う手を止めた。

「その『海翡翠』が三村サンの研究の肝になる。だから、妨害するために盗もうとした。そしたら偶然そこへ本人が現れたんで、勢い余って刺した、……とか」

「そもそも教授は、本当は何の目的であの古墳を発掘し始めたんですか。所長」

「三村教授の研究テーマは、皇統の出自を探ることだ。〝記紀〟(古事記・日本書紀)にある神話的記述から歴史的事実を読み取るという立場をとって、ここ最近は〈天皇家・南方海洋民〉説を唱えていた」

 忍が言っていた、アレのことか。

 三村教授は、学術的には一般に「しんぴよう性が低い」とされる天孫降臨や神武東征など〝記紀〟の記述を、歴史的事実に沿うものと解釈して、大胆な持論を展開していた。そのため、学界では多少異端と見なされていたようだ。

「南方海洋民説というのは、天皇家の先祖が南方から来たって説だ。人や文化のでんが大陸との関係に偏ったこれまでの史観に対抗して、環太平洋的見地から検証するというのの一環だが」

「かみ砕いて言うと?」

「つまり、古代の人間は大陸からばかりでなく、太平洋の海を渡って、南の島から日本列島に人や物や文化を伝えたって立場だな」

 皇統の出自は、南九州、特に天孫降臨の地とされる日向ひゆうがである、と推測した上で、更に、その祖先は南方の島から日本列島にたどり着いた氏族である、という主張だ。

「そのあかしとなる品をやまとの地へも持ち込んで、王権継承の証として代々伝えた。つまり三種の神器のひとつ、さかにのまがたまこそが、それである、ってな」

 萌絵も無量も、ぽかん、としている。

「その八尺瓊勾玉が、上秦から出土すると……?」

「そいつはさすがに行き過ぎだが、八尺瓊勾玉と思われる石の種類を特定した、と息巻いてたそうだ」

「それが『海翡翠』……? 緑色琥珀」

「南方交易の証だと三村教授は踏んだようだが、それにしたって根拠がわからん。センターの徳永サンによれば、三輪山周辺から出土する琥珀は、ほとんどが岩手県のや福島県のいわき産なんだそうだ。南方どころか東北だな」

「この玉、何か刻まれてましたよね」

 無量は気づいていた。確かに洗浄前は不鮮明だったが、よくよく見ると、表面に何か記号のようなものがある。

「教授が彫ったとか?」

「いや。それはない。ありえない。摩耗具合からしても、元々彫られてたもんだ」

 琥珀はせつこう並みに軟らかいので加工がしやすい。同じ緑色の石でも、へきぎよくなどは硬くて彫りを入れるのも難儀するが、琥珀なら容易だ。

「何かの字みたいにも見えますね」

 古墳築造と同時期なら、三世紀後半の文字ということになる。だが古代文字に詳しい亀石にも、それが何だかはつかめない。

じようの玉に文字が刻まれるという例は、あまり聞いたためしがないな。判別するにも、実物がないことには何とも」

「ともかく、取り返さないとまずいっしょ。まだ成分分析もできてないんだし」

 無量は発掘員として、ここに来ているのだ。遺物レリツク・発掘師デイガーとしてのプライドと責任感から、見過ごしにはできなかった。

「取り返すって……。犯人探すつもり? 相手は人殺しだよ」

「そーだけど、こっちだって貴重な出土遺物だぞ」

 古墳時代の遺物といえば、立派な文化財だ。無量は腹立たしげに、

「苦労して掘り当てたの勝手に持ってかれちゃ、三村サンだって浮かばれない」

 と言いながら、焦げたカルビを口に放り込み、苦い顔をする。本来は警察に任せるべきだが、こんなことになってはとても穏やかな気分ではいられなかった。

「気持ちは分かるが、おまえは発掘に専念しろ。発掘調査が無事終わることが、三村さんへの何よりの供養なんだから」

 分かってますよ、と答えて無量は、スープを飲み干した。亀石のスマートフォンが鳴りだしたのは、その時だ。見たことのない番号だった。電話に出た亀石は「あっ」と背筋を正した。

 三村教授の妻からだった。

「……はい、このたびは、いえ、その後少しは落ち着かれましたか。こちらこそ大変……えっ……?」

 妙な間で絶句した亀石の反応に、萌絵も無量も思わず目線を返した。亀石は柄にもなくシリアスそうにまゆゆがめ、こう受け答えたのだ。

「私宛の遺品が見つかった……?」

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