第二章 相良忍④

    *


 神華大学のキャンパスは、まだ、ぽつぽつと研究室の明かりがついていた。

 しよう天皇陵にほど近く、所謂いわゆる、文教地区の一角にある。東大寺の裏手にあたり、市街地というほどにぎやかではなく、古い屋並みと古墳のもりとに囲まれた閑静な立地だ。

 さすがに夜九時ともなるとキャンパス内は閑散として、居残りを終えて帰る学生数名とすれ違うばかりだ。通用門の守衛がいる窓口で来校者名簿に名を書き込み、案内に従って、三村研究室のある文学部棟に向かった。

 建物の真後ろが天皇陵の森だった。夜の古墳には妙な威圧感がある。びくびくする萌絵と対照的に無量は「うちの裏山もあんな感じだったぞ」と事も無げだ。

 大学敷地の一番奥にある文学部棟は、シンプルな五階建てで、他の学部棟よりも年季が入っている。施設の古さゆえか照明も薄暗く、ひとがないと誠にうら寂しい。狭い廊下には、ホワイトボードがあったり、研究室に入りきらなかった資料が段ボールに入れて置かれてあったりと、雑然としている。廊下の端にある古いエレベーターに乗り込むと、がこがこと揺れて、今にも止まりそうだ。照明もチラチラして、なんとも心細い。

「気味の悪い校舎だね……。ひとりで来ないでよかった」

 がこん、と一際大きく揺れて、萌絵は無量に飛びついた。エレベーターが止まった。研究室のある五階に到着だ。先に降りた萌絵が「ぎゃっ」と悲鳴をあげた。

「なんだよッ」

「ああ、びっくりした。いま、廊下の先に人が……ッ」

「人くらいいるだろ。研究室なんだから」

「なんかやけに急いでたみたい。いきなり飛び出してきたから」

 無量はさっさと廊下を歩きだした。三村研究室は中ほどにある。名札を確かめて、ノックをした。返事がない。明かりはついている。

 何度かノックしたが、やはりない。

 聞き耳を立てたが、室内は物音もせず、静まり返っている。留守か?

 無量はドアノブに手をかけて、押してみた。かぎは開いていた。足を踏み入れた無量が、あっと小さく声を発した。そして次の瞬間、獲物に飛びかかる獣のような勢いで中に飛び込んだ。

 萌絵には何が起きたのか、とつに理解できなかった。無量が駆け込んだ先に、人が倒れている。顔をのぞき込んで、三村教授だと確認した。萌絵は悲鳴をあげ、

「さ、さいばらくん……っ、そこ、血……!」

 教授の倒れている付近がまりになっている。揺り起こすと、胸のあたりが血に浸したように染まっているではないか。無量が即座に叫んだ。

「救急車!」「はい!」

 萌絵は携帯電話を取りだしたが、かける手がぶるぶる震えた。無量はしきりに声を張り上げて、教授の名を呼んでいる。しかし反応がない。顔には血の気がなく、唇は紫色になっている。

 手首を取ると、脈がない。

 無量は、ごくりとつばんだ。雑然とした部屋の隅では、加湿器が白い蒸気を噴いている。救急車を呼ぶ萌絵の要領得ないやりとりだけが、室内に響き続けていた。


    *


 病院に駆けつけた三村教授の家族が泣き崩れている。その姿を、萌絵と無量は見届けることができなかった。警察から事情聴取を受けたためだ。

 搬送された病院で、三村教授の死亡が確認された。

 現場となった文学部棟には、たくさんの警察車両が駆けつけ、夜を徹して現場検証が行われた。報道関係者や野次馬が深夜にもかかわらず押し掛けて、キャンパスは騒然としている。第一発見者となった萌絵たちは、警察から問われるままに経緯を語った。

 タクシーでホテルに戻ったのは未明のことだ。だが、すぐに部屋に戻る気力すらなく、萌絵は着いた途端ロビーのソファに座り込んでしまった。すると無量も隣に座り込んだ。心身ともに、へとへとだ。

 三村教授は、二人が発見した時には心肺停止状態だった。駆けつけた救急隊がせい措置を行ったが、そのなく、息を引き取った。死因は出血性ショックと見られる。

 三村教授は何者かに刺殺されたのだ。

 萌絵たちは研究室を訪れた経緯を事細かに警察からかれ、直前に不審な人影が廊下を走り去ったことも全部話した。顔は見なかったので年齢も分からないが、背の高い男性だ。サラリーマンがよく着る無地のコートを着ていたので、下はスーツだったかもしれない。でも、それ以上は分からない。

 萌絵はいまだに頭が真っ白だ。

 殺人なんて、ニュースかドラマの中の話だと、昨日まで思っていた萌絵は、まさかそれが自分の身近なところで起きるとは思いもよらなかった。しかも殺されたのは、昼間まで一緒にいた人で、その上、自分が発見者になるとは……。

 隣に座る無量はソファの背もたれに頭を預けて、天井を見上げている。こちらもさすがにしようすいしきっている。青白い頰で、もうろうと照明を眺めている。だが、まだ無量がいてくれてよかった、と萌絵は思った。自分ひとりではパニックになっていただろう。無量の服が血で汚れている。介抱しようとした時に付いたにちがいない。

「それ、クリーニングに出したほうがいいよ」

「ああ。なんか、変なことになってきたな……」

 萌絵は思い出したように携帯をチェックした。亀石からのメッセージが入っている。何度もかけてくれたようで、着信記録は亀石の名前でいっぱいだ。明日一番でそちらに行く、とメールにあった。

 三村教授は心臓を一突きされていた。それが致命傷だった。むごいことだ。

 一体、三村の身に何があったのか。

 むろん、無量たちには皆目、分からない。


 教授の葬式は、それから数日後、市内の葬儀場で行われた。警察の検死を終えた三村の遺体は、きれいにされて、死に顔もただ眠っているようだった。萌絵はきゆうきよ、実家から喪服を送ってもらい、無量も量販店で揃えた喪服で参列した。そばには亀石所長の姿もあった。

 遺族にも二人が発見者だったことは伝わっていたようで、通夜の後にあいさつを受けたが、一家の大黒柱を非業の死で失ったショックは大きく、妻子の消沈ぶりは見ていて痛ましいほどだった。病死ならまだしも「殺害」だ。沈痛極まりない。

 犯人はまだ捕まっていない。

 告別式の参列者の中には、喪服姿の相良忍もいた。二人を見かけると、こちらにやってきた。

「大変な目に遭ったね。大丈夫?」

 忍も、まさか自分と別れた直後に、二人がそんなことに巻き込まれていようとは、思いもよらなかったろう。

 三村教授の悲報は、学界にも大変な衝撃を与えた。参列する研究者の顔触れを見れば、三村がどれだけ日本の考古学研究に寄与した人物かが分かる。広いホールは大学関係者や親交のあった研究者であふれていた。出棺を見送って、三々五々、式場を後にする人々の口にのぼるのは、やはり犯人のことだ。捜査は進んでいるが、めぼしい手がかりもない。教授の身辺にトラブルの気配はなく、恨みを買うような性格でもなかった。凶器は残されておらず、室内は荒らされた様子もなく、財布などの金品にも手を付けられた形跡はなかったが、スマートフォンだけがなくなっていたという。同時刻、五階のフロアにいたのは三村教授だけだったようで、物音や話し声などを聞いた者もいない。

 唯一の手がかりが、萌絵の見た人影だ。

「発掘は中止かな……」

「いや。同じ大学の准教授名義で引き継ぐそうだ」

 こんな騒動の中でも発掘作業は続いている。認可が下りた発掘期間は限られているからだ。だが現場の作業員も皆、動揺して作業が手に付かない。そんな中でも無量は淡々と作業を進めていた。つい先日、銅鏡の発見があっただけに、マスコミはそのことと事件を関連づけて、おくそくが飛び交い、取材に来る人数も倍増だ。しつこくインタビューされて、作業員たちも迷惑そうにしているが、三村の遺志を引き継ぐ意味でも、中止にはできない。

 忍はそんな無量たちに同情していた。

「色々落ち着かないと思うけど、何か力になれることがあったら、言ってくれ。無量。僕にできることなら何でも協力するよ」

「ああ。悪い」

 そんな彼らの元に所轄の担当刑事がやって来た。無量と萌絵に確認したいことがあるという。

「出土遺物がなくなってる……? 本当ですか」

 研究室の学生が、コンテナボックスにあった遺物が紛失していると証言した。箱に入っていたのは、上秦で出土した遺物だ。そう、無量が掘り当てた「大珠」だ。

 三村教授が「緑色はく」と言い、「うみすい」と呼んだ、あの。

 ふたりとも、あの時は動転していてコンテナボックスまで気が回らなかった。そこにあったことすら知らなかった。いつ消えたのかは、定かでないが、数時間前に学生がナンバリングを終えて、全部揃っているのを確認している。

「犯人が持っていった? そういうことですか」

「さあ。そこは何とも言えませんが」

「どういうことだろう」

 まさか、犯人の目的は、例の「海翡翠」?

 式場はすでに葬儀会社が撤収を始めている。慌ただしく運び出される供花や祭壇を眺めながら、無量は何か考え込んでいる。刑事が立ち去った後で、忍が言った。

「まさか出土遺物を奪うのが目的だったとでも言うんだろうか」

「ひと一人殺してまで、か? たかが遺跡から出た玉だぞ」

 緑色琥珀は、高価は高価だが、宝飾品として換金できるほど質がよかったとも思えない。普通の琥珀は透き通っているが、出土する古い琥珀はたいてい不透明で、お世辞にもきれいとは言えないからだ。そもそも部外者にはそれが「緑色琥珀」だと知ることすらできなかったはずだ。

「なら関係者……? ぞっとしないな」

 警察の捜査は、研究者や発掘関係者にも及んでいるという。

 喪服姿の亀石所長も、あごひげをさすりながら苦々しい顔だ。

「邪馬台国論争がらみだとかいうのだけは、勘弁して欲しいもんだな」

 三村教授の名が入った葬儀式場の看板がトラックに載せられていく。今度の発掘の陰に何があったというのだろう。

「発掘に支障のないよう、警察のほうにはうちの上層部からも色々くぎを刺しておくから。何か困ったことがあったら、言ってくれ。それじゃあ」

 忍は去っていった。亀石も、知り合いの研究者に声をかけられて、話し込んでしまう。残された無量は、喪服に合わせて用意した白手袋をはめた右手を、ズボンのポケットから出して、ふと見つめた。

 土の中から取り上げた「海翡翠」の感触がまだ残っている。熱いと感じた。

 そこへ背後から、萌絵が声をかけてきた。

 告別式の間中も、ずっと寡黙だった萌絵だ。沈痛な面もちをしていた彼女が、か細い声で「ねえ、西原くん」と呼びかけた。

「なに?」

「うん……。あのね。ひとつ、ずっと気になってたことがあるんだ。警察には、なんだか言いにくくて、話せないまま今日まできちゃったんだけど」

 無量はげんな顔をした。──警察には言えない?

「何か気がついたことでも?」

「うん。私が見た、例の不審な人影なんだけど……」

 と言って、萌絵は口ごもった。言おうか言うまいか、迷っている。

「なに? なんか思い出した?」

「うん……でも……こんなこと言ったら……」

「いいから言ってみ。誰にも言わないし」

 あのね、と何度も言いよどみながら、萌絵はようやく意を決してささやいた。

「あの時見た人、廊下を走ってった男の人、なんだか、相良さんと似てたような……」

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