第二章 相良忍③

「あの、ひとつ訊いてもいいですか? 西原くんが言ってたんですけど、日本の考古学者はサイバラの名を聞くと皆おなじ反応するみたいなんですけど、それ、どういう意味なんでしょう」

 忍の表情が硬くなるのを見て、萌絵は「あ、まずい質問したかな」と思ったが、忍は存外柔らかい反応で、うーん……と悩ましさを表現した。

「それは、考古学の業界に長くいれば嫌でも耳に入ってくると思うけど、多分、無量のおじいさんのせいかな」

「おじいさん?」

「ええ。有名な人だったんだけど、問題行動でこの業界を追われてしまって」

「考古学者だったんですか?」

「うん。高名な、ね。勿論、無量は関係ない。ただ、おじいさんのした事はいまだに業界のトラウマになるくらい重くてね」

 身内に問題を起こした人がいるせいで、無量の立場も難しくなっている、ということのようだ。本人は寡黙なので踏み込みづらいが、忍のほうは業界にも無量のことにも通じている上に親しみ易いので、萌絵は気安さから、ついたずねてしまった。

「西原くんの火傷やけどは、子供の時のですか」

「火傷?」

「右手です。ほら、西原くん、いつも手袋してるでしょ?」

 忍は無量の怪我のことを知らなかった。子供の頃はそんなものはなかったという。無量は食事の間も、右手だけ手袋を外さなかった。その右手もほとんどテーブルの上には出さず、なるだけ隠すようにしていた。

「そういえば、無量は右利きだったはず。はしを左で持ってたし、手袋もしてるし、変だなとは思ったけど」

 幼なじみの忍も知らないとなると、最近の怪我か。余程のアクシデントでなければ、あれほどの火傷にはならないはずだが。席に戻ったら思い切って訊ねてみよう、と萌絵は思い、待ち構えていたら、無量が携帯電話をいじりながら戻ってきた。しきりに首をひねっている。

「どうした?」

「いや。三村サンから電話かかってきてたみたい。しかも五回も。留守電には何もないし。こんな時間になんの用事だ?」

 思い当たる節がない無量は、気になって仕方がない。すると今度は忍に着信だ。

「ごめん。職場からだ。ちょっと話してくる。んでて」

 と言い、店の外に出ていってしまった。改めて無量と二人きりで向き合った萌絵は、何やら気まずい。

「……なんだよ。じろじろ見て」

「あの、西原くん、その手……」

「ちゃんとトイレでは外してるっつの。細かい奴だな」

「そうじゃなくて……」

「忍の奴、何があったんだろう」

 出ていった忍を目で追うようにして、無量が神妙な顔で呟いた。職場のことではない。久しぶりに再会した忍は、昔と変わらず朗らかだったが、ふと漏らした呟きがずっと気になっていたのだ。

「……昔の自分に戻ったみたいだって、言ってた。あいつ、そんなに変わったかな」

「優しくて面倒見のいいお兄さんって感じだね。京大出て目指すは官僚なんて凄いよね」

「まあ、昔っから、すげー頭よかったし。将来、絶対出世するとは思ってたけど、外交官にでもなってるかと思ったら、まさかこんな近い業界にいるとは」

「西原くんの影響かもよ」

「まさか」

「ホントにそうかも。だって無量くんのこと、凄くうれしそうに話してたし……」

 無量が「ん?」という顔をした。萌絵も口を押さえた。忍が「無量、無量」と呼ぶものだから、つい伝染うつってしまった。

「あ、いや、西原くんは……ほら、弟みたいなもんだって言ってたし……だから、その」

 一度、話が途切れると、もう会話が続かない。後はお互い黙って、料理をちびちび食べるのみだ。そこにようやく忍が戻ってきた。急用が入ったらしい。

「ごめん。ちょっと職場で問題が起きちゃって、今すぐホテルに帰らなきゃいけなくなった。君たちはゆっくりしてって。また近いうちに吞もう。楽しみにしてるよ」

 言うと、こちらが割り勘を言い出すもなく、伝票に一万円札を挟んで慌ただしく店を出ていってしまった。座の主役がいないのでは仕方がない。二人きりで吞んでいても気まずいので、萌絵たちも滞在先のビジネスホテルに帰ることにした。


 酔って火照る頰を冷たい夜風にさらしながら、駅に向かって歩いていると、これから二次会に行くとおぼしき学生やサラリーマンとすれ違った。

 眼にかぶさるほど長い前髪を、風になびかせて歩く無量の横顔を、萌絵は時折盗み見る。無量はあまり背が高くないので、見上げるというほどではない。初めはずぼらな印象だったが、こうして歩く姿には、単独行動することに慣れた者特有の、きつりつ感がある。

 二人の前でつるむ学生たちは無量と同世代だろう。彼と会うまでは気にならなかったが、比べてみると、自分も含めて若い連中は皆、どこか線が細い。体つきが、という意味ではない。多分、内面の違いだ。

 学生たちは周りを顧みず、しやべりに夢中だ。狭い歩道いっぱいに広がって歩く姿は、羊の群れみたいで頼りない。そんな同世代を見慣れた萌絵の眼に、無量の歩き方はそんだ。ろくに連れも顧みない。歩き方は、人間性にも通じる気がした。

 協調性第一の会社組織で過ごしてきた萌絵には、まだ少し、どう接していいか分からない人種だ。空気を読み合うのが暗黙のおきてである職場ルールにどっぷり浸って、周りに合わせて生きてきた萌絵からすると、マイルールとマイペースを崩さない無量は、外国人を相手にしているみたいで困惑する。内気で人見知りだった少年を、こうまでしたたかにさせたものとは何なのだろう。

 幼なじみの前では見せた素直な笑顔も、今は消え、寡黙な無愛想顔に戻っている。なべの湯気ににじむ、はにかむような笑顔は、自分が酔って見た「幻」だとでもいうほどに。向かい風を切って歩く、孤高を感じさせる背中は、どこか近寄りがたい。

 そして、あの右手。

 手袋は火傷を隠すためのものだったのだ。萌絵はますます彼の過去が気になった。気弱な少年を変えたのは、あの火傷なのだろうか。

「なんだよ。さっきからじろじろ」

「え……っ、あ、歩くの速いからだよ。少しは歩調合わせてよ」

「あんた、人をだしにする気満々なんだろ。忍とお近づきになりたいって、顔に書いてある」

「なっ、なに。なんでそうなるの」

「あんた彼氏いないでしょ」

「どきっ。わ、わるい……?」

「鼻息荒すぎ。吞んでる間中、鼻の下伸ばしっぱなしだったもんな。おあいにく。とっくに彼女いるに決まってる。大体、あの見てくれで女がほっとくわけがない」

「なに? しつしてんの?」

「誰が誰にだ」

「西原くんこそ、少しは相良さん見習ったら? 礼儀正しいし、気遣いはできるし。あれが一人前の社会人の振る舞いってものなんです」

「お堅い公務員だしな」

「それ以前の問題でしょ。大体、君は普段からろくに敬語も……って、ちょっと待って」

 萌絵の携帯電話が鳴りだした。とってみると、亀石からだった。電話報告の催促かと思いきや、意外な用事を言い渡された。路上でのやりとりに、無量は端から聞き耳を立てている。電話を切った萌絵は、しきりに首を捻っていた。「今の亀石サン?」と無量が問うと、釈然としない顔で「うん」とうなずき、

「なんかねえ、今から神華大学に行ってこいって」

「神華大? 三村サンとこか?」

「うん。さっき所長んとこに教授から電話があったとかで。ちょっと急ぎで亀石所長に渡したいものがあるから、私たちを今から研究室に取りに来させてくれないか、だって」

 時計を見ると、もう夜九時近い。神華大学は車なら十分ほどの距離だ。遠いとは言わないし、大学だからまだ出入りできる時間だが、明日あしたでは遅い用事なのだろうか。

「さっき、西原くんにかかってきた電話も、それかな?」

「五回も鳴ってたしな。マジで急ぎなのかも。とりあえず行ってみっか」

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