片っぽ靴下

 土曜の昼間、私は部屋を出て、アパートの急な階段を軽やかに下りて行った。階段を下りて行ったところにある郵便受けをちらりと覗き、ピザ屋のチラシと水道修理業者のマグネットが投函されているのを確認した。そして行きつけの焼き菓子屋へ、意気揚々と歩き始めた。週に一度、その店でタルトを食べるのが私の楽しみなのである。

 ごみごみした住宅街の細い道を進み、小さな坂を下ると少し広い道に出る。今日は休日だから、人通りが多かった。私も休日を謳歌する人々の一員として、道の左側をずんずん歩いていった。

 歩いていくと、右手に猫の額ほどの売地が見えてくる。この売地は白黒のまだら模様の猫がよく昼寝をしているスポットである。私は車道を横切って道の右側に行き、「今日もいるかな?」とその売地の方をじろじろ見た。ところがどっこい、今日はいないらしかった。きっと散歩にでも出かけているのだろう。

 私は少し落胆して、自分の足元に視線を落とした。するとそこには、靴下が片方落ちていた。ありふれた濃い灰色の地に黒の縞模様の、くるぶし丈のものだ。恐らく三十センチ以上ある、かなり大きい靴下である。

 落としものとして、片っぽ靴下はそれほど珍しくない。歩道の隅で悲しそうにしている白い五本指ソックスやら、誰かが拾ってガードレールにかけておいたであろう子ども用の恐竜柄の靴下やら、これまでに路上で見かけた片っぽ靴下は枚挙にいとまがない。ちなみに、私はこうした靴下たちを『野良靴下』と呼んでいる。

 今日見つけたこの靴下は、これまでに私が見た野良靴下の中でも最大である。サドルカバーと言われても納得してしまいそうだ。靴下屋でもこんなに大きな靴下はあまり取り扱われていないのではないだろうか。この野良靴下は、S区で一番大きいに違いない。この野良靴下はきっと、この界隈の野良靴下たちのボス的ポジションに君臨しているのだろうと私は思った。


 ある売地で、週に一度、野良靴下の集会が開かれる。野良靴下たちは縄張り意識が強いため、放っておくとすぐに争いが起こって、穴あき野良靴下が何足も出てしまう。そうした無駄な犠牲を出さないために、定期的に対話の場が設けられるのだ。

 最近では『水玉組』と『格子組』の関係が、抗争の一歩手前のような、ヒリヒリとした状態になっている。水玉組の若い衆が格子組の縄張りでおいたをしたとか何とかという理由で、ただでさえ険悪だった二組の関係がさらに悪化したのである。

 今宵の集会ではその二組の話し合いが行われた。最初はお互い冷静に話し合おうと努めていたが、徐々に冷静さは失われて、話し合いはヒートアップしていった。

「俺たちの縄張りを荒らしやがって! 礼儀もくそもねえのか、このすっとこどっこい!」格子組の頭は声を荒げて咬みつく。

「それは石鹸三つで和解したじゃねえか! 終わったことを掘り返してつけあがりやがって!」負けじと水玉組の頭も食って掛かる。

「今時水玉柄なんて流行んねえよ!」

「なんだと!」

「穴開けてやる!」

「上等だコラ!」

 双方の組員たちはやいやいと罵声を浴びせ合い、今にも乱闘が始まりそうな緊張感が売地に充満した。

 そんなとき、あの大きな野良靴下がポツリと、厳かに呟いた。

「みっともなく喚いてばかり、野良靴下の風上にも置けねえなァ」

 ボスの一声で、売地は水を打ったようになった。それまで威勢よくやり合っていた水玉組の組員も、格子柄の組員も、バツが悪そうにして黙り込んでしまった。

「で、でも、原因は水玉のやつらじゃないですか」しばらくして、格子柄の若いのが静寂を破った。

「だから、石鹸三つで和解したじゃないか」

「ああ、確かに一時はそれで了解したさ。でも後で詳しく話を聞いてみると、お前らの若い衆は、うちの組員の嫁さんや子どもにまで手を出して泣かしたそうじゃないか。それに、当の水玉の若い衆は頭の一つも下げに来て無え。誠意が無えよ」格子組の頭は静かに、怒りを込めて言った。

「む、それは初耳だぞ! おい、若造たちは謝りにも行ってなかったのか? それに女子どもにまで手を出しただと?」水玉組の頭はぷりぷりと怒った。それに対し、若い衆はしどろもどろと、言い訳のようなことを言っている。

「この馬鹿垂れども! 今すぐその頭下げやがれ!」

 水玉組の頭はしびれを切らして、若い衆の頭を地面へと押さえつけた。そして自らも頭を下げた。

「今回は本当に悪かった。俺の監督不行き届きだった。こいつらはよく言って聞かせておくから、許してくれ」

 水玉組の頭は潔く、誠心誠意謝った。その立派な謝りぶりに、格子組の組員たちは面食らったようだった。長い間、水玉組の頭と若い衆は頭を下げ続けていた。

「もう頭を上げてくれ、誠意は十分見せてもらった。今回の事は水に流そう。なあ、お前ら」格子組の頭がこう言うと、格子組組員たちも静かに頷いた。双方の頭は今度こそ、本当の仲直りの握手を交わした。

 こうして、水玉組と格子組の抗争は未然に防がれた。今回の集会は平和的解決を以て解散となり、野良靴下たちは自分たちの住処へと帰っていった。

 誰もいなくなった売地で、ボス野良靴下は夜空の月を見上げ、「やれやれ」と呟いた……


 抗争も防がれ大団円を迎えたところで、私は焼き菓子屋に到着した。店に入り、甘いバターの匂いをたっぷり吸い込みながらショーケースを眺めた。

 熟考の末、洋ナシとキャラメルのタルトとホットコーヒーを注文した。席に座って待っていると、水玉柄のマグカップに入ったコーヒーと、格子柄の皿に乗ったタルトが運ばれてきた。



 

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落としものストーリーズ watanave @vevebene

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