40 蜘蛛

 瞬きすら忘れていた。鹿島を一直線に見つめ、芙美の視界から色が消えていく。ぞわぞわと心臓を蛇が這うような気味の悪さを覚える。氷河に出くわしたような彼女の凍っていく表情とは裏腹に、こぼれ出た芙美の言葉に鹿島は卑しく笑う。マグマがぐつぐつと煮える不穏な烈火が瞳を横切ったようだった。


「だったらどうする? 金のために自分を曝け出したのは、そっちだろ?」

「ちがう……違──っ!」


 芙美が反論しようとすると、鹿島は彼女の髪に触れていた手を離して直接耳に囁くように口元を寄せた。彼のシャツの襟元からは清々しい洗剤の香りが浮き立つ。


「君も、蜘蛛は嫌い? ただの売女が、生意気なことしようとすんな」


 耳元から離れていく鹿島の顔を芙美は見つめる。彼の表情に浮かぶのは軽蔑と勝気が入り混じる屈折した笑顔だった。芙美の全身は鼓膜を揺らした蜘蛛という言葉に血の気が引いていく。茫然とする芙美の左手に鹿島の右手が蔦のように侵食する。


「どうして……それを……」


 メディア室で見た頼成の紅白姿と、彼の前で色も変えずに朽ちていた蜘蛛に刺さったナイフの濁った輝きが瞳に蘇ってくる。思い出すだけで絶望が芙美の身体中を伝っていった。事件現場にいた蜘蛛のことは公表されていた。が、頼成が蜘蛛を嫌っていた事実は公式には非開示の情報だ。噂として流れてはいたが、校内でも知る者は限られている。

 それを何故、外部の人間である彼が知っているのか。立ち上がりたい。今すぐ彼から離れたい。頭では願っているのに、身体が恐怖で動かなかった。左手に繋がる知らない体温が芙美の自由を奪い磔にする。


「君もあいつと同じ。弱みを簡単に人に話す。易々と話しちゃって、あいつは教師失格だよな」


 鹿島の口元は歪んだ笑みを浮かべたまま。だが声は固く、刺々しく、険しかった。彼の黒目は強張った芙美の全身を吟味するように上下に動く。逃げなければ。芙美の心臓が必死に警鐘を鳴らす。なのに動けない。見えない力に圧されているようだった。口が開くことに逆に違和感を覚えるほどだ。


「信頼していたから、先生は弱みを話したんじゃ……?」

「君は僕を信頼してた? それに、僕が欲しいのは秘密じゃなくて尊厳だよ。ああ。それに関しても、君はあいつと同じなんだね」


 芙美の太ももに目を向けた鹿島は彼女の脚にじっくりと骨ばった手を這わせる。長くはないスカートの裾が指先に触れても躊躇いはない。さも当たり前のように、動きが止まる気配もなかった。


「イヤッ! いやだ……!」


 覆いかぶさってくる彼の身体を剥がそうと自由が利く片手を伸ばして押しのけようとするも、芙美の抵抗などまるで通じない。流石に限界だ。新太はイヤホンを放り捨て、スマートフォンを透の腕に投げて勢いよく立ち上がる。


「おい! やめろ‼」


 ベンチから離れた低木の向こうから飛び出してきた新太に鹿島が気を取られた隙に、芙美は出せる力の全てをもって彼を自分から剥がす。力の限りに彼女に跳ね除けられ、鹿島は体勢を崩してベンチから落ちた。

 透も低木から出て、走ってきた芙美を腕で受け止めた。ベンチに置かれたバックパックは虚しく地面に落下する。


「大丈夫か? 生天目」


 こっそり声をかけると、芙美はぼろぼろ泣きながら震えだす。


「…………だめ」


 擦り切れたような声だった。透の胸元をぎゅっと握りしめる芙美の手の震えは治まりそうになかった。怖くなかったはずがない。透はすすり泣く彼女を淡く抱きしめ背中を優しく撫でる。

 芙美を胸に抱えたまま顔を上げれば、鹿島の動きに警戒している新太の背中が見えた。


「お前、覚えがあるな。あぁ、そうだ、あいつが報告した男子高生ってお前か」


 転んだ際に打った腕をさすりながら鹿島が澱んだ声を出す。彼の目線の先にいるのは透だ。鹿島に依頼され、芙美の後をつけていたあの大学生はどうやら透の存在を彼に報告していたらしい。報告内容は鹿島と大学生しか知らないこと。けれど鹿島の恨みのこもった瞳を見れば、透のことを大学生がどう報告していたのかはなんとなく察しがついた。


「揃いも揃って……。他人の計画の邪魔なんてするもんじゃねぇぞ」


 ベンチに手をついて立ち上がろうとする鹿島の動きはたどたどしく、怪我人のように拙かった。が、彼が弱弱しさを見せたのも束の間だ。完全に脚が伸びる直前に、鹿島は右手で左側のポケットから素早く何かを取り出した。

 彼の手で鋭い先端を光らせているのはナイフだった。頼成が殺された時に使われたそれによく似ている。

 新太は彼の次の動きを慎重に見定め、一歩後ろへと下がった。


「俺は、あいつとの縁を完全に切るために来たんだ。今日、そいつを殺して区切りをつけるためにな」


 鹿島は刃先を芙美へ向ける。新太は無意識のうちに鹿島のことを睨んでいた。


「高校を卒業して、今の状況はよく知らなかったからな。でも、そいつのおかげで事前に情報を得られた。当時と大して変わってないって分かって安心したよ。これで目的が果たせる、ってな」

「やっぱり、お前が、頼成先生を?」


 新太の声が空気の低いところを揺らす。鹿島はニヤリと笑って新太を見やる。


「お前らはあいつの本性を知らない。あいつはいい教師面して、悪気なく人を破滅させる。いいように騙されてるんじゃねぇぞ。いずれ俺に感謝する。ほら、敬えよ。俺はお前らの先輩だぞ」


 鹿島は両手を広げて三人を嘲るように鼻で笑った。新太の睨みが深くなると、鹿島はため息をついて首を横に振る。


「そ。まぁいいけど。俺も生意気な後輩なんていらないしな。でもその売女は黙ってここに置いていけ。どうせ死ぬんだ。その前にこれまでそいつに払った分の対価を返してもらうからさ」


 鹿島はナイフで新太をしっしっと追い払う仕草をした。芙美の肩に回した透の腕には警戒心で力が入る。


「好き勝手なことばっか言いやがって。お前の言うことを聞くわけがないだろ」


 新太は呆れた声で吐き捨てるように言った。芙美を見ていた鹿島の黒目が新太を捉える。新太が透と芙美の前に立ちはだかったからだ。


「新太、挑発するな」


 透の冷静な忠告は虚しく地面へ落ちていった。透が言い終わるより先に、鹿島は新太に向かって豹のように駆け出した。彼は開いた瞳孔で躊躇うことなくナイフを振り回し、小気味よく刃先をかわす新太を追いかける。

 芙美は何が起きているのか見ることが出来なかった。恐怖に支配された彼女の心はもう限界をとっくに越えている。


「邪魔だっつってんだろ‼」


 芙美のもとへ向かう自分を遮り続ける新太に、苛立った鹿島が咆哮をあげた。


「そんな物騒なもん持ってる奴を通すわけないだろ!」


 新太は慣れないおもちゃを振り回すかのように突飛な動きばかりをする鹿島に戸惑いつつも彼からナイフを奪う機会を窺っていた。隙を見て手を伸ばしても鹿島の腕を上手く掴むことが出来ない。避けてばかりでなく攻撃しようとしても、すぐにナイフが目の前に飛んでくるので彼にダメージを入れることも難しかった。


「くそっ。空手部とかにでも入ってればよかった」

「部活動なんてススメねぇ。時間の無駄だ」


 新太のぼやきに鹿島は怨念のこもった声で助言する。透は芙美を彼から遠ざけようと少しづつ距離を広げていく。芙美はまだ透の胸元に顔をうずめたままだった。


「お前だって、メディア部入ってたんだろ⁉」

「だからこそおすすめしねぇっつってんだよ。先輩の言うことを少しは聞けよ」

「俺らみたいな後輩はいらないって言ったじゃん」

「いらねぇよ。だからとっとと失せろ」


 鹿島は力を込めてナイフを振り下ろす。新太は身体を屈めて彼が狙いを定めた箇所から上半身を避け、曲げた左足を軸に右足を伸ばして鹿島の脚に蹴りを入れた。


「ってぇ!」


 痛みに叫んだ鹿島の動きが止まる。彼が無鉄砲に繰り出すナイフの動きを見ているうちに、新太は鹿島が芙美以外の人間を殺す意図がないことに気づいていた。とにかく邪魔なだけ。でも殺すつもりはない。どうやら彼の標的は完全に芙美に絞られているようだ。


「いい加減にしろっ!」


 鹿島が叫んでいるうちに、新太は休む間もなく彼のみぞおちを膝で打つ。鹿島はバランスを崩して後方へと後ずさり、ゲホゲホと咳を吐きだした。今ならナイフを落とせるかもしれない。彼の油断が見えた新太は一気に鹿島との距離を詰めていく。しかし、鉄砲玉の如く飛び込んでくる新太に驚いたのか、彼は咄嗟にナイフで盾を作って空気を切り裂いた。


「新太ッ!」


 二人の距離がゼロになった瞬間、透の声が公園に轟く。

 透の息遣いの変化に気づいた芙美が恐る恐る振り返れば、鹿島の予想外な顔が見えた。尻もちをついて倒れ込んでいる彼は何かを恐れたのか青ざめ、ぽかんと口を開けたまま目の前で起きたことを丸い目で見つめている。


「あ。やべ」


 鹿島の視線を独占しているのは彼に覆いかぶさるようにして片膝をついている新太だった。新太は左腕を曲げて前腕の外側を自分の方へ向けようとしているところだった。

 腕を回して彼が確認しようとしているのは、切り裂かれた袖の奥に見えるぱっくりと割れた自分の肌だった。

 地面には彼の腕から落ちていく血が絶え間なく着地し、その場には血の水溜りができてしまいそうな勢いだ。


「さ、さくらもりくん……っ」


 芙美の顔も鹿島と同じく青ざめていく。自分がナイフで彼の腕を深く切ったにもかかわらず、鹿島は何が起きたのか分からない様子で呆気に取られて瞬きをしていた。そんな彼と新太の目が合った。

 二度、瞬きをし合った後で、新太は慌てて怪我をしていない方で手刀を打ち、彼の手からナイフを落とす。力が抜けているのか、ナイフはあっさりと面に落ちていった。まるで電池の切れたおもちゃだ。


「え」


 ナイフが落ちる金属音の余韻に鹿島のくぐもった声が重なった。バネが突如として跳ねるように新太を押しのけ立ち上がった鹿島は足をもつれさせながらも公園の出口へ駆けていく。やはり新太を刺す気はさらさらなかったようだ。鹿島からの表情からは感情が消え失せていた。

 追いかけようとした新太だったが、傷口の痛みがそれを阻む。


「透! 逃がすな!」


 まるで犬に指示をするような口調だった。けれどそんな些細なことはどうでもいい。透は逃げる鹿島を反射的に追いかけていく。


「生天目! 救急車を!」

「う、うん……ッ!」


 バリケードを飛び越えた透の指示に、新太に駆け寄っていた芙美は震える手で落としそうになりながらも自分のスマートフォンを取り出す。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る