39 はじめまして

 駅前に立つ制服姿の芙美は、背中を圧迫するバックパックの数分前よりも重みが増した感覚に唇を噛みしめる。

 力の入った眼差しが見つめる先にあるのは一列に整列した改札だった。上階から発車ベルが鳴り響き、真顔の大群が改札の向こうから一斉にこちら側へと押し寄せてくる。

 同じ光景をこの場所に着いてからもう五度は見た。外に出てくる人の波は柱の前に立つ芙美の前で見事に割れていく。


 見知らぬ顔の彼らが脇を通り過ぎていくたびに芙美の心臓は締め上げられる。

 大勢の足音が遠のき、駅に静寂が戻るまでの間は呼吸が苦しい。

 今度の電車も違った。ならば次こそは。

 覚悟を決める回数が増えるほどに押し寄せる緊張で身体は強張っていった。

 俯き、足元を見つめる。


 入学してからずっと履き続けているローファーには傷みが目立ってきた。しかし買い替える余裕も今はない。

 握りしめたバックパックのショルダーストラップもそろそろ限界を迎えそうだ。

 あまり圧をかけてはだめだと分かっていても、芙美の手から力が抜けることはなかった。

 バックパックの寿命がぎりぎりと減らされていく。芙美の表情は喉を流れていく苦い味に歪む。


 バックパックもローファーも、買おうと思えば新しいものを買えた。けれど入ってくるお金はすべて行き先が決まっている。大学入学資金のための貯金だ。芙美が待っているのは、自分の未来を変えてくれるただ一つの手段だった。


「風鈴、さん?」


 下げた視線の先に、真っ黒なスニーカーが割り込んでくる。声に顔を上げれば、目の前には黒髪の男が立っていた。毛足は長いが重さを感じない。芙美を見るなり彼は人の良さそうな顔で笑う。


「こんにちは。僕、洗剤です」


 ごく自然な笑顔を見せた彼の右目の下には、弧を描くようなほくろが三つ並んでいる。


「あ……。はい。わたしが、風鈴、です。えっと……はじめまして……かな?」


 彼の近影を見たのは矢嵜造園での写真が最後だ。写真とは違い、前髪を切った彼の顔は思ったよりもさっぱりしたものに見えた。彼の高校の卒業写真よりも顔つきには大人の雰囲気が漂うが、前髪が短くなった分、造園での写真よりもずっと青年らしい印象を抱く。

 ぱっと見の雰囲気は学校の若い教師陣と同じ。学生でもなければ社会に馴染んだわけでもない。その中間で過去と未来を見ている若者だった。


「直接会うのは初めてだからね。こちらこそ、はじめまして」


 芙美のたどたどしい喋りも初対面だと思えば不自然なものではなかった。相手は緊張を滲ませる彼女の表情に再び笑いかける。芙美は僅かに目を伏せ口を開く。


「あの。こ、この恰好をしているので、もうバレているとは思うのですが……わたし、大学生じゃなくてまだ高校生なんです。秘密にしてもらえる?」


 ストラップを握りしめていた両手を身体の前に下ろして結ぶ。上目遣いで彼を見上げると、彼はこくりと頷いて答えた。


「もちろん。風鈴さんの活動が見れなくなっちゃうのは嫌だし。でも、秘密ならどうして会おうって言ってくれたの? 隠し事があるから、直接言いたいって言ってくれたよね? 風鈴さんからの誘いはすごくうれしかったけど、今までにない展開だから驚いちゃった」


 彼はあくまで柔らかな語調で芙美に訊ねた。ほわほわとした口調はマシュマロの感触を彷彿とさせる。前に一度通話をした時と同じ声音だった。


「それは……。洗剤さんが、わたしの一番の恩人だから」


 だから誠実でいたい。彼女の瞳に煌々とした駅の照明が入り込み、本音を告白する無垢な光が宿るようだった。


「ほかにも、風鈴さんを応援している人はいっぱいいると思うけどな」


 彼はくすりと笑いながら目元を弛ませる。芙美は微かに首を横に振った。かつてはそう思っていた。過去の事実が嘘を限りなく真実へと近づける。

 芙美も彼に倣い、純朴な微笑みで表情を彩った。


「高校生って聞いて、驚いた?」

「そうだね。正直、大人として窘めるべきなのか、君を守ると言い張って黙っているべきなのか、良心を試されている気分にはなるな。もしかして、そういう実験だったりしない? 周りに警察とかいる?」


 洗剤は人差し指で辺りを指差して見回すふりをする。ふざけた調子の彼につられ、芙美も吹き出した。


「いない。警察はいないし、実験もしてない。すべて、ただわたしが個人的にしたこと」


 洗剤の腕を軽く叩けば、二人は声を合わせて控えめに笑い合う。


「良かった。今ならまだ改札はすぐそこだ。逃げるべきなら早めに教えて?」

「ふふ。それはないから大丈夫。洗剤さん次第だよ」


 話していれば画面上での彼とのやりとりと何ら変わりはなかった。ただ直接、彼の声が聞こえて表情がすぐそこに見えるだけ。ただそれだけの違いで、意識すれば何も身構えることはない。二人の間に僅かに流れたぎこちない空気もすぐに消え失せた。


「ねぇ。せっかく直接会えたんだもの。わたし、一度こうやって洗剤さんと直接話してみたいなって思っていたんだよ。街を案内するから、よければこのまま散歩に行かない?」

「風鈴さんと街をぶらぶらするの? そりゃいいね」


 彼の返事に芙美は手を叩いて小さく身体を弾ませた。

 彼にはちゃんと喜んでいるように見えただろうか。

 今日、彼を呼び出した本来の目的を芙美は頭の中でずっと繰り返していた。

 時が動き出す。高まった緊張で潰れてしまわぬよう、芙美は彼に初々しい笑顔を向けながら踊るように踵を返す。




 二人が隠れているのは住人の憩いのために古くからある公園の一角だった。街の中央から逸れた場所にある広大な公園で、整備の関係で今は全域が解放されているわけではない。二人は本来ならば立ち入り禁止の領域で来訪者を待っていた。

 遊具に瑕疵が見つかり点検と撤去のために置かれたバリケードを越えた新太と透は、ベンチが見える低木の裏に座り込んでいるところだった。

 この位置であれば低木の隙間から公園内の様子を窺える。視界の中央を陣取るベンチは使用が禁じられた遊具のすぐ近くにあった。


 ベンチの傍に佇むのは撤去されることが決まった滑り台だ。家を模った滑り台は、おとぎ話の世界にそのまま入り込めるような意図が込められ、メルヘンな装いをしていて細部までしっかりと作られている。壊すのはもったいないと反対する者がいたほどだった。

 オブジェとして飾り続ければいい。そこまで言われるほどに愛された滑り台を鑑賞するには傍のベンチに座るのがちょうどいい。滑り台を取り囲む花壇も相まって、少しばかりの気分転換になるはずだ。


「透。芙美ちゃん、なんで急に協力してくれる気になったんだろうな」


 新太がベンチから目を離して隣にいる透に訊ねる。


「ストーカー犯かもしれないファンと会うなんて、本当は嫌に決まってるだろ」


 静かな呼吸を続ける透を見やり、新太は眉を歪ませて芙美を思いやるように言った。


「嫌だろうね。でも……」


 彼女が生徒会室でスマートフォンを握りしめて自分たちの前でファンに連絡をした時の光景が透の脳裏に蘇る。「どうして連絡してくれた?」スマートフォンから顔を上げた彼女にそう訊ねれば、彼女ははにかみながらもちゃんと答えてくれた。「わたしだって、皆を守りたいからだよ」

 彼女が温かな頬を緩ませた瞬間の表情が忘れられなかった。


「生天目なりのけじめだろう」


 透はもやもやした顔をしている新太に一言返した。すると、新太のスマートフォンに着信が入る。


「芙美ちゃんだ。そろそろだな」


 画面に浮かぶ名前を見た後で、新太は透と目を合わせる。透が無言で頷いたので、新太は通話のアイコンを指で押す。


『あっ。お母さん? 今日も自習して帰るから、少し遅くなるね。うん。分かった。じゃあ、また後で』


 新太のスマートフォンから芙美の声が聞こえてくる。新太はミュートボタンに触れ、ワイヤレスイヤホンを取り出し、片方を透に渡した。今度は芙美の声が耳元で聞こえてくる。


『ごめんなさい。先に連絡しておかないと心配かけちゃうから。あ、もうすぐで着きますよ!』


 芙美が話しかけているのは電話先にいる新太でも透でもなかった。彼女の声は先ほどより少し遠くなった。しかしちゃんと彼らの声は拾えている。


『いいよ。親に心配をかけちゃ申し訳ないし。ここって、公園?』


 芙美よりも離れた位置で発せられる声は聞き覚えのない男のものだった。初めて聞く彼の声に、新太も透も身を引き締める。


『そう。公園。あのね、すごく素敵な花壇があって、今度、遊具が一つ取り壊されるから、その場所を一面花壇にしようって計画があるんだって。だから、洗剤さん、植物が好きって言ってたし、これから花が広がるその場所を見せたくって』

『花壇の下見? それはあまりできない経験だなぁ』

『ふふ。それに、その場所は今立ち入り禁止なの。誰もいなくて静かだから、たくさんお話しできるかなって』

『会話を誰かに聞かれるのは恥ずかしい?』

『もしかしたら、恥ずかしいかも』


 余韻を含めた彼女の声に対する相手の反応は聞こえなかった。恐らく表情で返事をしたのだろう。新太と透はそう察し、立ち入り禁止のバリケード付近を見やる。先ほどまでは人影のなかったバリケードに近づいてくる影が見えてきた。


「あっ。ほら、ここだよ。あの滑り台。あれがね、壊されちゃうんだって」


 イヤホンとまったく同じ言葉がイヤホンをつけていない方の耳にも届く。

 息を潜めて隠れる二人の視線の先に現れたのは学校帰りの芙美とどこかで見たような顔の男だった。矢嵜造園の写真で見た鹿島だ。シャツにジャケットを着て、芙美が指差す滑り台に目を向けている。


「あれが? よく出来てるのに勿体ないね」


 彼と芙美との距離は恋人と見間違うほどに近かった。彼に触れるか触れないか、絶妙な位置を保った芙美はそのまま彼をベンチへ誘導する。


「それで、何を話す?」


 ベンチに座った鹿島はしばらく花壇と滑り台を黙って眺めていた。少し離れて遠慮がちに座っていた芙美に視線を移した鹿島は、緊張した様子の彼女に身を近づける。


「えっと……あの……相談、が、したくて」


 相手から急に距離を詰められた芙美はたじろぎながらも言葉を探す。聞かなければならないことは分かっている。だがどれだけ相手を刺激せずに話せるか、芙美には自信がなかった。


「相談?」


 鹿島の声が会った時よりも低く聞こえる。ちらりと横目で彼を見やれば、彼の目つきすらも変わっているように見えた。芙美は微かな相違を気にしないふりして視線を手元に戻してから続きを話す。


「わたし、もしかしたら、誰かにつけられてるかもしれなくって……」

「それって、ストーカー、ってこと?」

「う、うん。学校帰りに、気配を感じるの。あの。わたし、ネットで活動してるでしょう? だから、誰かに身バレしたのかもって怖くて。友だちにも親にも風鈴のことは言えるわけないし、警察にもきっと相手されない。こんなの相談できるの、洗剤さんだけだって思って……。一人で抱え込むのが、辛くなったの」

「へぇ。それは災難だ。僕に協力できることある?」


 鹿島は芙美の苦悩を気遣うように彼女の表情を窺いながら優しげな声を出した。だがどこか空気を上擦り、新太の腕には鳥肌が立つ。


「分からない。でも、誰かに話を聞いて欲しかったの。どうすればいいと思う?」


 芙美はストーカーの話を聞いても全く変わらない鹿島の表情や口ぶりに少しの不安を抱く。もし彼がストーカー犯だった場合、自ら告白する可能性は低い。けれど少しくらい異変が見えてもいいものを。もしや本当に彼はストーカーには無関係なのだろうか。あるいは。緊張で芙美の指先が硬くなっていく。


「ネットでの活動を止めればいい」


 芙美の不安をよそに鹿島はあっさりと答える。


「で、でも……やめちゃったら、わたし」

「風鈴さん、お金が欲しいんでしょ? お金なら僕がいくらでもあげるよ。もし君が、その対価に値するなら、だけど」

「……対価?」


 芙美が訊き返すと、鹿島は更に近づいて彼女を品定めするような眼差しを向ける。低木の隙間から観察している新太が立ち上がりそうになったところを透が止めた。まだ辛抱しろ。そんな言葉が聞こえるようだった。


「そう。あいにく僕は、タダの善意は持ち合わせてない。でも、僕は我儘らしいから、必ず目的は果たす。その点、風鈴さんは随分と手がかかるけどさ」


 やけに含みのある言い方だ。鹿島は風に吹かれて顔にかかった芙美の髪にそっと触れて彼女の耳にかけた。彼の指先が肌に当たり、芙美の指がビクリと震える。


「人を雇って、わたしをストーカーしてたのは、貴方?」

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