38 道はほかにもある
透から連絡が入ったのは午前の最後の授業を受けている時だった。
ポケットから振動が伝わった新太は机の下に隠したスマートフォンを覗く。
授業中であることをどうにか自覚している新太の表情に最小限の驚きが浮かび上がる。
透が言っていた”経路”。どうやら彼はその切符を手に入れたらしい。
〔放課後、天文部のOBに会ってくる〕
こっそりと指を動かし、新太は短い返信を打ち込んだ。
〔サシャによろしくな〕
透が次期生徒会長選挙に挑むサシャの準備の手伝いをしていることは新太も認識している。
早々に天文部の部長に任命された彼女。
サシャもまた事件の容疑者だと噂を流された一人だ。
ようやく真犯人の糸口が掴めそうな今、彼女が協力してくれることにも違和感はない。
新太はスマートフォンから顔を上げ、昂然とした瞳で教壇を見やる。
昼の時間を終えたガーシュインカフェはゆったりとした微睡の時間が流れていく。
しかし学校帰りの生徒たちの姿がちらほらと増えていくと、ウトウト気分にも少しずつ途切れが見えてくる。
夢見心地で瞼が閉じかけていた人も、時折聞こえてくる彼らの明るいはしゃぎ声に目が覚めてきてしまうからだ。
店内に再び活気が戻り始める頃合いなのだ。
そろそろ夕刻が近づいていることに気づいた先客たちは徐々に席を去っていく。
また一人、近隣住人である常連客が雑誌片手に席を立った。彼と入れ違うようにして店に入ってきた透とサシャは、彼が座っていたテーブルの隣に空席を見つけて指をさす。
席につき、サシャがメニューを手に取ったところで透は口を開いた。
「秦野。先輩に連絡とってくれてありがとう。助かった」
透の素直なお礼の言葉に気を良くしたのか、サシャは嬉しそうに口を横に開いて笑う。
「いいえいいえ。透くんにいつもお世話になっているのは私の方だし。お役に立てて光栄です」
大袈裟な調子でわざとらしく喋るサシャの愉快な声に透は力を抜いて笑った。
「それに、事件のことで動きがあったなら協力しなくちゃ生徒会長の名が廃るでしょう」
「まだ会長じゃないだろ」
「ふふ。シミュレーションは大事でしょ?」
「まぁそうか。どうせ再来週には秦野が会長になってるようなもんだしな」
「でしょー?」
透の言葉にサシャはくすくす笑いだす。ちょうど店員が近くを通ったので、サシャはすかさず手を挙げた。
「あっ。すみません。コーヒーを一つお願いします。透くんは?」
「俺はカフェモカで」
二人のオーダーを聞いた店員は穏やかな微笑みと会釈を返して去って行った。
「カフェモカ? 透くんにしては甘いものを選んだね。甘いの苦手じゃないの?」
サシャが片眉を歪ませて好奇心を持って訊ねる。
「今はそっちの方が落ち着くから」
「なるほど。ま、それもそっか」
透の答えにサシャは共感するように頷いた。
ガーシュインカフェを訪ねた二人はただ友人同士でお茶をしに来たわけではない。透は昨夜サシャに電話した時のことを思い出す。
新太と会話をした後で透がすぐに連絡をとったのはサシャだった。天文部に所属するサシャは卒業生との関係が薄い透とは違って先輩たちとも交流を持っている。
高校創立時からある伝統的な天文部がもともと仲が良かったおかげかもしれない。
しかしサシャが先輩たちから可愛がられてきたのは、積極的な彼女の姿勢の賜物だろう。生徒会長選に向けてサシャと会話をするうちに、透もそのことが分かってきていた。
だからこそ、自分たちが知り得ない学校の話を聞くには彼女を頼るのが一番いい。新太の話を聞いた透は漠然とそう考えたのだ。
「急なお願いなのに、よくこんなにすぐ約束が取れたな」
透の素朴な感心が声に滲んでいたのか、サシャは得意げな顔をして机に腕をついた。
「コネは強力な武器になるでしょう?」
彼女の軽やかな態度は透の考えを確信へと変えていった。
「今日呼んだ先輩は、叶山高校を五年前に卒業して、今は院に通ってる人だよ。桃城さんっていうの。卒業生も交えた天文部の交流会で知り合ったんだ」
サシャの所属する天文部は定期的に集まって天体観測会などを行っているようだ。透からしてみれば想像も出来ないことだったが、そのような場があるのなら、本来ならば出会うはずのない卒業生の知り合いが多いのも納得できた。
「それで、その柳楽さんって人が、頼成先生を……?」
急に声を顰めて小声になったサシャが前のめりになると、透はカップを持った店員が近づいていることに気づき無言で抑止する。
二人の前に注文の品が置かれた時、ガーシュインカフェの扉が開く音が店内に響く。
サシャが入り口に顔を向ければ、登場した人物は彼女を見るなり微笑んだ。
「
彼女の明るい呼びかけに引っ張られるように顔を上げた透の目にも彼の姿が映る。
「久しぶりだなぁ、サシャ」
髪を淡い茶色に染めた青年は風で乱れた前髪を指先で適当に整えながらサシャの隣の椅子に座った。もともと色素が薄いのか、瞳の色も薄茶色をしている。彼は透に気づいて右手を差し出す。
「こんにちは。桃城っていいます。君たちの先輩ってことになるかな?」
「初めまして。目白です」
透も手を伸ばして握手をする。桃城はぎゅっと力強く握り返してきた。
「うん。サシャから聞いてる。メディア部の部員なんだって?」
「はい」
「今回のことは大変だったね。頼成先生、本当に、言葉が見つからないよ」
桃城は残念そうな顔をして悔しさを滲ませる。
「いえ。その、こちらこそ、急に話が聞きたいだなんて言って、ご迷惑を」
「いいってそんなの。後輩の頼みを断れるわけがない。気にしなくていいから。それに先生のためにもなれるかなって」
桃城は首を横に振りながら透の言葉をにこやかに否定する。
「聞きたいのは柳楽のことだろ? あいつは俺の同級生だ。二年間同じクラスだったし、力になれることなら話したい」
すでにサシャから概要を聞いている様子の桃城はオーダーを取りに来た店員にコーヒーを頼んだ。
「ありがとうございます。桃城さん……えっと、先輩?」
「ははは。どっちでもいいって」
透が彼の呼び名に苦戦すると桃城は活きのいい声で笑う。彼の笑い声で緊張感の漂う空気が少し和らぐ。
「柳楽さんって、どんな人でした? 頼成先生とは親しかったと聞いているのですが」
透は早速本題を切り出した。すると桃城は当時を振り返るように遠くを見つめる。
「大人しい奴だったよ。二年の終わりまでは。あいつ、実家は裕福なんだけど父親が厳しいみたいでさ。いつも沈んだ顔で声まで苦しそうで、ちょっと周りからも距離を置かれてたんだよな。なんか、独特の空気が近寄りづらくてさ。後から知ったことだけど、どうも父親とは不仲でうまくいってなかったみたいだけど」
桃城の話は加賀が言っていた彼の印象と大きく変わりなかった。家庭事情が複雑で、なかなか自分を表に出さない。二人の話でもここは共通している。
「だけど、三年の時にメディア部に入ってから、あいつはだいぶ変わったんだ。頼成先生に誘われて入ったらしいんだけど。それからの柳楽は去年までが嘘のように明るくなって、友だちとしょっちゅう出かけるような陽気な奴になったんだよな。俺も何度か遊びに行ったことがあるけど、実際に話すとあいつ結構面白くて。金持ちだからか周りの奴らとちょっとズレてるところとかあってそれがまた新鮮だったんだよ。俺たちも普段じゃ知らないような話を聞けたりして楽しかったし。メディア部の奴らは柳楽ともっと親しかったから、豪勢な遊び方をしてたりしたけど」
桃城は当時のことを思い出して鼻で笑う。どうやら柳楽は三年になってからは結構派手な生活をしていたようだ。
「頼成先生とも仲が良くて、あいつは先生のことを慕ってた。先生も柳楽のことを信頼してたみたいでさ、メディア室の鍵係にまで任命した。ちょうど生徒にも鍵を渡せるようになったって言って。あいつ、新参者だったのにな」
「先生が、柳楽さんを鍵係に?」
透の眉が歪む。サシャは不安そうな眼差しを透に向ける。
「そう。周りの連中は新参者なのになんでって少し不服だったみたいだけど。でも柳楽は根は真面目な性格だし、羽目を外すようなことはしなかったから他のメンバーもどうにか納得したらしい。まぁ、皆、柳楽には随分世話になったようだしさ。先生が決めたならしょうがないってな」
桃城は運ばれてきたコーヒーを一口飲んで透を真っ直ぐに見やる。
「でもな、ある日、そんなメディア室の鍵がなくなったことがあったんだよ。同じクラスの奴が言ってたんだけど、どうも先生が鍵を失くしたらしいって。部活動中、鍵を部屋の中に置いてたのを失くしたんだって。当時、鍵は二本だった。先生が職員室に置いているものと生徒が持っているもの。先生の方針で保管分を生徒に渡すようにしたからそうなったらしいんだけど」
「今は三本だよね?」
サシャが確認するように透に訊ねる。透は黙って頷いた。
「らしいな。俺もこの前天文部の後輩に聞いた。たぶん、その失くした事件があったからそうなったんだと思うよ」
桃城はコーヒーの水面を見つめながら個人の見解を述べた。
「その、なくなった鍵って見つかったんですか?」
透の問いに桃城は首を横に振る。
「いや。先生が誤魔化したけど、実際は見つかってない。それに」
桃城はここで周りをちらりと見回した後で机の中央に顔を寄せていく。サシャと透もそれに従った。
「俺は、鍵を失くしたのは先生じゃなくてあいつだって思ってるよ」
小声で囁かれたのは不穏な可能性だった。
「どうして?」
サシャも微かな声で続く。透の胸は小さな針がチクリと刺さったように鼓動が小刻みに動き出す。
「鍵がなくなって、小さな騒動になった時。あいつ……柳楽は、前のあいつみたいにやけに大人しくて仄暗い目をしていた。何かを隠しているようにしか見えなかったね」
サシャと透の呼吸が神妙に深くなっていく。彼らの息遣いを見つめながら、桃城はゆっくりと背を椅子に預けていく。
「俺はメディア部の部員でもなかった。だから二人の間に何があったのかまでは知らない。遠目からは二人は卒業まで親しげに見えた。俺が見た柳楽の姿はそれが最後だ」
桃城は何かを考え込む透の眼差しをじっと見つめる。
「鍵の真相を知っているのも、今はあいつだけかもな」
コーヒーカップを手に取った桃城は、まだ冷める気配のない熱い液体を喉に流し込んだ。
「鍵がもう一本あるってこと⁉」
桃城の話を聞いた瑞希と新太が目を丸くして一斉に透を見る。話し終えたばかりの透は二人の声の大きさに思わず廊下の方面を見やる。
ここは生徒会室。サシャが話をするならここを使えばいいと貸してくれたのだ。まだ会長にもなっていないが、現生徒会長からの強力な後ろ盾のある彼女は既に部屋一つくらいの権力は手にしているようだ。
「もう完全に柳楽千歳が怪しいじゃん! あーっ。悔しい。タッチの差だったのに……‼」
机に突っ伏して裏返った声を上げた瑞希は机上を数回叩いた。
「矢嵜造園との契約も解除したらしいからな。矢嵜さんも鹿島が今どこで何をしているのか分からないって。事件の後は数回仕事に来ただけだから、親しい人もあんまりいないらしいし」
新太は嘆く瑞希の後頭部を同情の眼差しで見つめながら腕を組む。
「俺たちが訪ねたことバレたのかな」
透が訊くと新太は肩をすくめた。恐らくバレている。なんとなく、透にはそんな予感がしていた。
「せっかく手掛かりを見つけたけど……鹿島に聞かなきゃ真相は分からないもんな。警察に言ってもまた鹿島にうまいことはぐらかされるだけだ。五年前の鍵なんて、本当に失くしただけなのかもしれないし」
新太はどうしたものかと窓を見やる。外から伝わる澄んだ麗らかな光が皮肉に思えた。
「桃城先輩によると、柳楽千歳は卒業後、同級生の誰とも連絡を取り合ってないらしい。携帯番号も住所もすべて変わった。鹿島になってるってことも知らなかったって」
「矢嵜さんにも頼んでみたけど……連絡がつかないって言ってたしなぁ」
新太は参ったようにため息を吐く。ここでうだうだと考えていても埒が明かない。そうは分かっていても、この先どう動くべきかの案が浮かんでこなかった。下手に動けば、また透が怪しまれるだけだ。新太たちはそのことも懸念していたのだ。
すっかり静まり返ってしまった生徒会室では、外でさえずる小鳥の声だけが彼らの耳を支配していた。
あと少しで真相が見えてくるはずなのに。蜃気楼のごとくいつまでも手に掴めない幻を見ているようで、四人の思考は完全に行き詰まっていた。
ただ一人、唇を閉ざしたまま目を伏せていた彼女を除いては。
「あの…………」
生徒会室に入ってからずっと皆の話に耳を傾けていた芙美がぽつりと声をこぼす。三人の瞳が彼女のことをゆっくりと捉えていく。
「わたし、できるよ」
「え?」
透と新太の声が重なった。机に伏せたせいか額が赤くなっている瑞希もぽかんとした表情をする。
「洗剤さんに、連絡してみる」
芙美は決意を呈した眼差しで皆と目を合わせていく。
「わたしが、やる」
声は小さいが力強い。
ポケットの中で握りしめていたスマートフォンを取り出し、芙美は凛々しく笑ってみせた。
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