32 トラウマ

「解放してよかったのかよ?」


 大学生の姿を見送りながら新太が芙美に訊ねると、芙美は黙ったまま首を縦に振る。


「だって、あの人は、お金がほしくて雇われてただけなんだもの……」

「でも、やってたことは悪質だろ」

「そうだけど……」


 新太が言っていることは理解できた。それでも芙美は、もごもごと言葉を濁し続ける。


「生天目。あの人と自分を重ねるのはやめろ」


 見かねた透が口を挟む。やけに堅い彼の声に新太はきょとんと首を傾げた。俯いた芙美は、身体の前で結んだ指先をぎゅっと握りしめて全身を強張らせる。


「重ねる? 透、それどういう意味だよ」


 新太の疑念に満ちた声が芙美の肩をびくりと揺らした。彼の視線が挙動不審に動く彼女の方面を向く。


「わ、たし……………………」


 喉の奥から絞り出した声が薄っすらと空気を漂う。


「裏垢系女子に、投稿してるの…………」


 芙美の激白に新太は数秒遅れて目を丸くする。


「はぁっ⁉ それって、あの、アダルトサイトだろ⁉」


 有料コンテンツが多い当該サイトを新太自身が見る機会はほとんどない。それでも学校の仲間内で話題になることもあり、存在自体は新太も当然のように知っていた。

 恥ずかしそうに肩をすくめる芙美を見やり、新太は開いた口が塞がらなくなる。共感を求めて透を見るも、彼は特に驚いた様子もなく芙美のことを気遣う眼差しで見ているだけだ。


「透……ッ、まさかッ、お前、そのこと知ってたのかよ⁉」


 新太の狼狽えが辺りに響く。透は否定することなく頷き、涙をこぼした芙美の傍に寄る。そっと肩をさすれば芙美は弱弱しい笑顔を見せた。二人の奇妙な絆を目にした新太はその場で全てを悟ってしまう。


「もしかして。あの事件の日、話してたことって……」

「そう。わたしがやってることに気づいた目白くんが気づいて……黙っていて欲しい、って、お願い、したの」

「えっ……じゃあ、お前ら」

「だから、付き合ってるわけではないって」


 二人を指差してぽかんとする新太に向かって透はため息混じりに答えた。


「なんだよ……それならそうと言ってくれれば……。俺、勘違いして。ごめん」

「謝ることじゃないって。こっちだってちゃんと言ってなかったわけだし」

「都合がいいからそういうことにしようって。わたしもそんな冗談を言ったから……」


 芙美はばつが悪そうな顔をして唇を結ぶ。透も少し目を伏せる。三人の間に重い空気が訪れる中、混乱した新太の頭には次の謎が浮かんでくる。


「でもなんで、そんなことしてんの?」


 当然の疑問が投げかけられた。芙美はもう一度透の目を見てから意を決して真実を話す。幼少期の病気のこと。大学への憧れのこと。お金に困窮していること。すべてを打ち明けても、芙美の心はこの場から逃げ出したがった。新太の反応を聞くのが怖いからだ。


「悪かった。俺、何も知らなくて。でもやっぱ、そういうことは危険だと思う。そもそも芙美ちゃんは規約を違反してるわけだし。芙美ちゃんはお金のためだけって割り切ってるかもしれないけど、投稿してる時点でそういう人だって思われかねない。実際、ストーカー問題だって解決してない。もしかしたらストーカーの依頼者はサイトを見てる人かも。芙美ちゃんのことを調べてる人間がいる。そいつが今後、何もしないとは限らないだろ」


 新太は遠くに聞こえた自転車のベルの音を一瞥してから勇壮な瞳を芙美に向ける。


「事情があるのは分かる。でも、自分でどこか線引きをしておかないと、取り返しのつかないことになるぞ」

「それは……わかってる、けど……」

「さっきの人。依頼主のことは分からないって言ってた。芙美ちゃん、本当は心当たりあったりしない?」

「え?」

「サイトでさ。俺も少し見たことあるけど……ほら、支援者とか、いるだろ?」


 新太の指摘は透も気になっていたことだった。芙美は対策をしているから大丈夫だと言い張るが、メディア部でも散々インターネットで情報発信することの危うさを学んできた透には到底信じられなかった。誰かが彼女の正体を見破った。特段困難だといえるものでもない。

 芙美はごくりとつばを飲み込み、ポケットにしまったスマートフォンに視線を向ける。


「もしかしたら、個別のやり取りで知り合った、誰かかも……」


 蚊の鳴くような声で芙美が可能性を語る。


「わたし、たくさん応援してくれる人とは個別に連絡を取ってるの……完全に一対一のメッセージのやり取り。ファンと交流して、少しでも長く応援してもらえるように繋ぎ止めるの。他の人にとられないように……。親しみを持って、友だちみたいな気軽な関係になりたくて。身近に感じて欲しいから」

「なんだそれ。ファンに個別で応対するってわけか。それってどうなんだよ。友だちっていうよりただのカモじゃん」

「カモじゃない! みんな、純粋にわたしのことを応援してくれてるの」

「そうは思わない。当然下心があるに決まってんだろ。もともとのサイトがそうなんだから。ファンとも一線を置くのが本当のプロだ。プロ意識ないのかよ」

「だってプロじゃないもん!」


 芙美が必死の眼差しで否定をするので、新太は余計に顔をしかめていく。


「もっと自分のことを大事にしろよ。いつか大変なことになったらどうする。そうなったら、もう後には戻れないんだぞ。何もなかったことにはできない」

「そんなこと起きないよ! わたしだって、何も考えてないわけじゃない」

「芙美ちゃんがどれだけ努力しようが関係ない。頭が良くても腕力があっても、どうしようもないことがたくさんある。力に自信がある俺だってどうすることもできないことがある。芙美ちゃんならなおさらだ。見下してるわけでもなんでもなく、理不尽なことはいつだって唐突に起こる」


 新太の声には熱がこもる。語気を強め、どうにか芙美に心情を訴えかけたくて新太は瞳を歪めた。


「もし、何かあったら。それはもう、逃げられない過去になる。被害を受けた時の苦しみは一生つきまとう。その時の恐怖は身体に染み込んで忘れさせてくれない。過去なんて感覚はなくなる。大丈夫って思っても、次の瞬間には絶望してるんだ。そんな呪いみたいな経験、芙美ちゃんには絶対にして欲しくない」


 新太の叱責に芙美は唇を奮わせて細い息を吸い込んだ。呼吸が苦しそうだった。


「俺は、芙美ちゃんの味方だよ。でも自分が置かれている立場を、少し考え直してくれ」


 新太の瞼が落ちていく。彼が芙美を心配する悲痛な気持ちは胸を締め付けられるほどに伝わってきた。けれど芙美はその場では何も答えられない。黙り込んだ芙美の表情を窺うように、透が穏やかな声をかける。


「今日のところは帰ろう。新太も、色々あって疲れただろ」


 透の言葉に二人は静かに頷く。それから透と新太は芙美を家まで送り届けた。透は芙美の隣に並び、彼女の歩幅に合わせて歩いた。

 二人から少し離れたところを歩く新太の表情は暗いままだ。ぼんやりとした眼差しで地面を見つめ、あからさまに元気がない。自宅マンションのエントランスに消えた芙美を見届け、新太は踵を返した透に続く。


「言い過ぎたかな」


 芙美のマンションが見えなくなったところで新太が久しぶりに言葉を話した。


「いや。俺はそうは聞こえなかった」


 透は隣でしゅんと肩を落としている新太にさっぱりとした返事をする。


「俺も、生天目にはもっと自分のことを大事にしてほしいって思ってたし。サイトのこと、黙ってて悪かった」

「透が謝ることじゃないだろ。秘密を守ってたんだろ? でも警察に言えないのは厄介だな。透、ずっとはぐらかしてたんだろ?」

「まぁ、そうだけどさ」


 透が肩をすくめたので、新太は力なく口角を持ち上げる。


「気にすんなよ。まぁ、勘違いしてる間、俺もちょっと楽しかったし。気がかりなのは、結局警察にアリバイの真実を話すことはできないってことだけだ。まぁ別に、告白ってことでいいんだろうけどさ」

「問題だって言うなら、鍵の方が気がかりだろ」

「確かにそうか。そこの謎をどうにかクリアできればいいんだけどなぁ」


 鍵の近くにいた青央も犯人ではなかった。残された鍵は透が持っていた物だけ。透が鍵をかけた仮説を覆せないもどかしさを誤魔化し、新太は空元気で笑う。そんな新太を横目で見やり、透はおもむろに口を開く。


「さっき、あの女の人に写真を撮られたことで、過去のことがフラッシュバックしたんだろ?」


 透の推察に新太はぎくりと顔を強張らせる。


「勝手に写真を撮られたのを見て、過去に経験した剥き出しの欲望が蘇った。状況は違うけど、新太にとってはトラウマだ。その時に感じた恐怖を思い出したんでしょ? だから生天目に、あそこまで言えた」

「ああ。そうだよ。透の言う通りだ。俺はヘタレだし、ちょっとしたことですぐに怖気づく。あー……でも、よく考えたら芙美ちゃんは俺よりもしっかりしてそうだし、やっぱ、余計なお世話だったのかもしれないな」


 自らを蔑んで嗤う新太の横顔が夕焼け色に染まる。哀愁の滲む彼の笑い声に透は目を向けた。


「新太はヘタレじゃないって。俺はあんなはっきり生天目に言えなかったし。それに新太は十分闘ってる。過去の自分とも、今の自分とも。駄目な奴なんかじゃないよ」

「透……」


 滅多に聞けない透の温かな言葉に新太の表情が次第に輝いていく。


「俺、駄目な奴とは言ってないんだけど」

「あれ? そうだった?」


 とぼけた顔をする透に新太は思わず吹き出す。これは確信犯だ。


「まったく、透はどこまでも素直なんだなぁ。よっし! こうなったら、何が何でも透の期待に応えてやるからな!」

「ええ? 急に生き返って怖いんだけど」

「ははは! そんな怯えんなって。お前が励ましてくれたんだからな? 元気になったのはお前のおかげだぞ?」

「これこそ余計なことだったかな」

「まぁまぁそう言うなって」


 新太はニヤニヤと透の反応を面白がりながらスマートフォンを取り出す。


「何するの?」

「大天才様のお力添えを頂くんだよ」

「は?」


 すっかり生気を取り戻した様子でメッセージアプリを開く新太は画面をスクロールした。


「大天才?」

「透。お前だって芙美ちゃんのこと、他人事じゃないだろ」


 スマートフォンから視線を上げた新太は透と目を合わせる。

 やけに逞しく見えた彼の眼差しに、透は眉間に皺を寄せた。

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