31 正体を現せ
芙美が警察署に相談に行ってから二日が経つ。大きな手掛かりもなく、また特筆すべき被害も受けていない状況のまま時は悠々と流れていくばかりだった。
目に見える被害がないと警察側も動くことは困難なことは理解できる。しかし、目が覚めていようとなかろうと芙美の心身は落ち着くことがない。
常に傍にある憂慮に怯え、一寸先の恐怖に襲われ続けている。警戒心に身を割きすぎた精神は疲弊していく一方で、解決の糸口は一向に見えてこない。
このところは誰かに監視されている感覚がどこにいても抜けず、友人の咳一つでも身が震えるようになっていた。どう対処をすればいいのか。せめて相手の気配をほんの僅かでも掴むことが出来れば。
スマートフォンを握りしめ、芙美はぽつりぽつりと文字を打ち込む。
いつも”風鈴”のことを応援してくれるファンにメッセージを返しているところだ。インターネット上の”風鈴”の姿は本来の自分とはかけ離れている。望んで始めた活動ではなかった。けれど自ら手段を選んだ時から、それは紛れもなく芙美自身の選択となる。
言い訳など通用しない。ならば画面上の少女が例え偽りの姿だとしても、自分を支えてくれるファンの期待に応えるほうが賢明な判断だ。
お得意様のメッセージが日々の絶望的な空気を和らげてくれるのもまた事実だった。思いがけず、彼らの激励は芙美に力を与えてくれた。芙美にとっても意外な発見だった。
「生天目。そろそろ帰ろう」
教室の入り口を見やれば透が顔をのぞかせていた。
「うんっ」
芙美は元気よく返事をして鞄を手に取った。一日のうちで心に平穏が訪れる時が二回ある。一つはファンのメッセージを見る瞬間で、もう一つは、友人である透と一緒に下校する時間だ。おまけに今日はクラスメイトも乗り気らしい。
「透と芙美ちゃんこれから帰るの? じゃあ俺もお供しようかな」
透が芙美を迎えに来たことに気づいた新太が意気揚々と声を弾ませる。
「勝手にすれば」
「うん。桜守くんも一緒に帰ろ」
透の素っ気無い回答に続いて芙美が新太を見上げて微笑みかける。
「念のために確認するけど、お邪魔、じゃあないよな?」
先に歩き出した透に気づかれぬように新太は声を顰めて芙美に問いかけた。新太が二人の関係を怪しんでいることは前に透にも聞いたことがある。芙美はくすくす笑いながらこくりと頷く。
「もちろん。桜守くんがいてくれると、さらに頼もしいくらいだよ」
彼の誤解を積極的に解く気はまだなかった。新太には申し訳ないと思いつつも、芙美は透との歪な関係を楽しんでいるようだ。以前に比べ、新太も二人に対して抱いた疑念は薄まっていた。
ストーカー被害にあっているという芙美の事情を聞き、透が彼女を気にかけていることが納得できたからだ。
それでも二人の関係の奥に何があるのかまでは分からない。新太は入念に石橋を叩きながらゆっくりとその関係を探っていこうとしていた。
先日の青央との一件も新太をそう思わせる一因となった。見たいものだけを見ようとしては、本当に知りたいことを見逃してしまう。
焦っていたとはいえ、早とちりして勝手な憶測しか見えていなかった自分のことを新太は情けなく振り返る。
「はははっ。やっぱ単純な戦闘力で言えば、透より俺の方がマシだもんな」
芙美の言葉に得意げになった新太の声が聞こえたのか、透が涼しい目で振り返る。
「サバゲーでは散々だったけどな」
「あっ! おい! あれは所詮ゲームであって、小細工なしの喧嘩だったら俺の方が強いってば」
反論する新太のことを鼻で笑う透。新太は芙美に助けを求める目を向けた。
「ふふ。桜守くんは運動神経いいもんね」
まるで行き場をなくした捨てられた子犬を連想させる悲し気な顔をしている新太のことを見捨てるわけにもいかず、芙美は優しくフォローの言葉をかける。
学校の敷地を出る頃には、三人はすっかりこの前行ったゲームセンターの話で盛り上がっていた。
久しぶりにストレスを解消できた気がすると口走った芙美を皮切りに、新太と芙美の二人は溜まっていた鬱憤を吐き出すように本音を言い合ったのだ。
頼成の事件のこと。警察の捜査が難航していること。校内に流れる勝手な噂のこと。
不満は挙げればキリがなかった。何事もない顔をして毎日登校していても、やはり心が何も感じていないとは言えないようだ。
しかし透は二人の会話を黙って聞いているだけで、その内容にも特に関心がないように見えた。
聞き役に回るのはいつもの彼の役目だ。彼女と下校する意味も、自分の立ち回りももう把握している。あとは何か異変がないか、背後まで気を配ることだけ。
透の足取りが二人から少し遅れた瞬間、楽しそうな二人の声に異質な音が混ざる。
わずか一弾指の間にして辻斬りの如く三人の意識を切り裂いたその音に一番に反応したのは新太だった。
「一眼か⁉」
カメラにこだわる瑞希の受け売りか、聞こえてきた音そのものに対する見解を述べた新太は素早く振り返り、音の出所を探す。
「ぅあっ……!」
すると、これまで決して捉えることのできなかった声と腕が路地裏へと消えていく。
「待て‼」
すかさず駆け出した新太を追いかけ、透と芙美も走り出す。頭一つ飛びぬけて足の速い新太は二人を引き離し、逃げる標的との距離を縮めていった。
「こらっ! 逃げるなよ‼」
ストーカー犯を捕らえられるかもしれない。まさかの遭遇に興奮が隠せない新太の口からは近所の子どもをしつけるような言葉が勝手に飛び出す。とにかく捕まえることに必死で、何を言おうかなど悠長なことを考えている余裕などなかったからだ。
相手はさほど体力がないのか、新太はどんどんその姿に近づいていく。黒のニット帽をかぶった相手は、ぶかぶかのジーンズにチェック柄のシャツを羽織っている。新太よりも背丈は小さく華奢だった。
「いい加減にしろ!」
手を伸ばせばあと少しで犯人の腕に届く。犯人の肩からはトートバッグが落ちかけていた。腕が後ろに大きく振られた瞬間、新太は力強くその腕を掴む。
「きゃああぁっ!」
新太が勢いよく引っ張ったからか、腕を掴まれた犯人は体勢を崩して盛大に尻もちをついた。新太は相手が痛そうな音を立てて転んだことにぎょっとして目を見開く。が、彼が驚いたのは、捕らえた相手があまりにも見事な店頭を見せたことではなかった。
ようやく、背中しか見えていなかった相手の正体をはっきりと認識できたからだ。
「お……っ、女⁉」
新太は臀部をさすって涙目になっている彼女の顔をしゃがみこんでよく見つめる。自分の勘違いかもしれない。一度はそう思ったが、やはり目の前で転んでいる姿に変わりはない。
「新太……っ!」
そこへ新太に追いついた透と芙美が遅れて登場する。息を切らして地面にしゃがみこんでいる二人を見つけ、透はきょとんと瞬きをした。
「す、ストーカー、って、女の人⁉」
「新太、偏見はやめろよ」
思い描いていた犯人像からかけ離れた彼女の姿に慌てるばかりの新太を落ち着けようと、透は冷静に息を整える。
「うううう……ご、ごめんなさぁい……‼」
三人の顔を順に見た犯人は地面に手をついて泣きながら土下座した。小さな顔にはサイズ感の合っていない大きめの眼鏡をかけた彼女が頭を下げると、三人は困惑して顔を見合わせる。
「あ、あの。か、顔、顔を上げてください。それじゃ、話ができませんから」
芙美もまた予想外の展開に戸惑っているのか声が震えていた。とにかく、人通りが少ないとはいえ街中でこんなことをされては目立ってしまう。
芙美はどうにか彼女を立ち上がらせたかった。だが彼女の腕や肩に触れることには躊躇いがあるようだ。思っていた犯人と違っても、彼女が芙美の精神に危害を加えていたことは恐らく間違いない。そんな相手に触れることを本能が拒んでいた。
強張った顔の芙美を横目で見た透は新太に合図を送る。二人は犯人を挟むように立ち、彼女の腕を持って慎重に立ち上がらせた。彼女の身体から力が抜けているせいか、体重の圧が二人にかかる。
「うう……本当に、ごめんなさい。その、こんなこと、言える立場じゃないかもしれないんですけど……け、警察には、言わないでいただけますか」
泣きながらも要求してくる彼女の図々しさに透は渋い顔をした。
「なんか、最近どっかで聞いた言葉だな」
新太もそう言って苦笑する。犯人は大学生くらいの女で、ニット帽から出ている髪は首の中央まで伸びていた。背後の姿では分からなかったが、デニムのオールオーバーの上に長袖のシャツを羽織っているようだった。
「言わないでって……じゃあ、本当に、あなたがわたしのことを?」
拳を胸の前で握りしめた芙美がごくりと息をのみ込む。
「ええっと……そう、だけど、そうじゃないんです」
大学生の女はしょんぼりしたまま首を横に振った。
「確かに、あなたのことをつけていたのは私。あなたのことを監視するように頼まれて見ていました」
「頼まれて?」
透が訊き返すと、彼女は控えめに頷く。
「はいぃ。SNSで募集してたんです。裏バイト、って言うんですか? そういうので。結構儲かるんです。あんまり危険じゃなくて、それなりの額のあるものを探して……それで引き受けました。ある女子高生の動向を監視して欲しい。写真を撮って、日々の様子を観察してくれって。期間は一か月単位。依頼主が望めば、延長もありですけど」
新太は彼女の首に下げられた立派なカメラを見やり、そっと手を伸ばす。
「私、カメラが趣味で。趣味も生かせるし、いいかなーって軽い気持ちで」
新太がカメラを手に取ったことに気づき、大学生は申し訳なさそうに呟く。
「依頼主って、誰なんですか?」
透が続けて問いかける。芙美は事態がまだ飲み込めていないようで何も言葉が出ないようだ。
「分かりません。SNSでしかやり取りしてませんし。名前も初期のまま変えてないみたいで、アルファベットのられるですし。打つのが面倒だったので、私が勝手に主さんって呼んでただけです」
「じゃあ、目的も?」
「はい。分かりません。ただその子を監視することしか」
大学生はちらりと芙美に視線を向けてしゅんと目を伏せた。
「本当にごめんなさい。何も危害を加えないし、ただ見てるだけだからいいかなって軽い気持ちでした。でも、きっと、怖かった、ですよね?」
大学生の自信がなさそうな発言に、苛立った透の表情が険しくなる。
「きっと?」
水面に一直線に落ちていく雫のごとく静かな声に、芙美はハッと顔を上げた。いつも落ち着いている彼の声とは様子が違う。凍てついた彼の瞳を見やり、嵐の前触れを察した芙美は慌てて口を開く。
「め、目白くんっ! 大丈夫だからっ! えっと、あの、その……事情、は分かりました。あなたは、雇われていたってことですよね? 誰か、知らない人に……」
芙美の懸命な声に透は口を閉ざし、開きかけていた瞳孔も元に戻る。
「そ、その人を責めても、解決しないよ……」
芙美は肩を落として悔しそうに呟いた。結局のところ何故芙美が監視されていたのか真実が見えず、その場に流れるのは静寂のみだった。すると、何気なくカメラのデータを見ていた新太が息を止めた。
「なぁ……なんで、俺?」
急に毛色の違う話を持ち出した新太の言葉に透が顔をしかめた。何故そんなことを言いだしたのか。その引き金が知りたくて彼が見ているカメラの画面を見ようと首を伸ばす。
画面に写っていたのはつい先ほど撮ったと思われる新太の笑顔だった。
「えっ、と……可愛いなぁって思って、つい、夢中になっちゃって」
大学生が照れたように笑いながら控えめな声で答える。悪気はなさそうなはにかみ顔だ。が、新太は彼女の方を見ようとしない。硬直しているようにも見える。
「ご、ごめんなさい」
カメラから手を離した新太に謝罪する大学生は流石にばつが悪そうだった。透が新太の表情を窺おうとすると、彼は顔を逸らしてしまい、様子が見えなくなる。
二人が彼女を自由にすると、大学生は深くお辞儀をしてもう一度お詫びの言葉を告げる。
真犯人が分からずどうしようもない三人は、反省した様子で写真のすべてのデータを消した彼女を過度に責めることはやめた。
「もう、バイトは辞めます」
そう言い残し、大学生はひどく元気を失くした様子で去っていく。
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