30 ぴたり

 バイト先から車で十二分ほど離れたところで頼成は青央を降ろす。青央が目の前の建物を見上げると、どうやらそこはホテルのようだった。高級ホテルほどではないにしろ、モダンな出で立ちが洒落た印象を与えてくる。


「何。まさかあんた、そっち系? 悪いけど、俺は後輩の誰かと違ってカネで自分を売ってないんだけど」


 車に鍵をかけてホテルの入り口まで歩く頼成の背中に青央は蔑みの声をかける。反吐が出そうなほどの不快を表した青央の顔つきを窘めるように頼成は首を横に振って笑う。


「青央って噂を信じるようなピュアさもあったのか。そんなの時間の無駄だ。おすすめはしないね」


 自分に続こうとしない青央の背中をぽんっと押し、頼成は穏やかな様子で彼のことをホテルに招き入れる。

 ロビーのソファに座って電話をしていた清潔感のあるスーツ姿の男が頼成を見るなり片手を上げてにこやかな笑みを見せてきた。


「あれは大学時代の知り合い。青央も彼に感謝しろ」

「はぁ?」


 眉根を寄せた青央を頼成はエレベーターで五階まで連れて行く。エレベーターホールを抜け、右の廊下を曲がったところで頼成は部屋の扉に書かれた番号を丁寧に見やる。


「ああ。ここだ」


 頼成が指差した五一五の扉。彼は嬉しそうにポケットから鍵を出して解錠する。


「ほら、入れ」


 もうここまで来たらとりあえず言うことを聞くしかない。頼成の真意が読めぬまま、青央は大人しく部屋の中へ入っていった。

 中はホテル外観の印象と大きく相違はないデザインになっていた。シングルベッドにテレビ、小さな冷蔵庫、そしてクローゼット。よくある普通の客室そのままだ。


「なんだよ、ここ」


 ようやく質問が許された青央が洗面所の電気を点けている頼成に問う。すると彼は、綺麗に整えられたアメニティを眺めながらニヤリと笑った。


「この夏休みのお前の家だ。さっきロビーにいた男。あいつ、このホテルを経営してる会社の跡取りなんだ。だめもとで相談したら、ボランティア精神が強い彼は親切にもこの部屋を貸してくれてね。もちろん金は払うけど。部屋を借りる相場よりも格安にしてくれたんだ」


 今度はクローゼットの扉を開け、頼成は並んだハンガーのうちの一つを手に取る。


「は? 家、ってどういうことだよ」


 さらさらと当たり前の口調で説明されても青央の理解は追いつかない。不明瞭な彼の話に苛立ちを覚え、青央の表情は歪んでいく。


「そのまんまだって。青央。お前は家にいたくないんだろ? ならここで過ごせばいい。宿泊費は俺が持つ。その代わり、この夏休みのバイトは休んでくれ。お金があるとお前は薬物に使うだろ。バイトを休んで、しっかり療養するんだ。薬は抜け。俺も手伝ってやる。依存から抜け出して、青央の未来を設計しよう」

「…………なにいってんだよ」


 ハンガーで左の手のひらをとんとんと軽快に叩く頼成のリズムが余計に青央の頭を混乱させた。


「一応、母親にも連絡はしといた。許可は取ってある。荷物をまとめてもらってるから後で俺が取りに行く。青央はとにかく薬物から離れることだけを考えるんだ。それだけに集中しろ。辛いだろうが、お前ならやり遂げられる」


 頼成はハンガーを戻してクローゼットの扉を閉める。


「頭おかしいだろ。頼成、暑さで気でも狂ったのか? どうしてお前が、そこまで俺のことを気にするんだよ」

「お前が母親のことを気にかけてるのと同じだよ。母親のことが心配で、放っておけないんだろ? 青央は面倒見がいいからな」

「は? なに……」


 ぐるぐると目が回りそうで、次第に青央は吐き気を覚えてきた。そろそろ薬が恋しい頃合いでもある。頼成は青央をベッドに座らせ、優しく肩を叩いた。


「心配するな。余計なことは考えなくていい。すべて上手くいくからな」


 頼成の穏やかな表情がどんどん霧に塗れていく。こいつは何を言っているのだ。考えようとすれば脳みそがぐるぐるとかき回されていく。パレットの上で乱雑に混ざり合わせた絵の具のように、思考は次第に黒に覆われて気味の悪い色に変わる。ひどく醜い模様が脳に描かれ、内臓の底から異物が突き上げてきた。


 意識が遠のき、青央は縋るようにベッドに倒れ込む。待ち構えていたように堰を切って襲い来る嘔気に青央の身体が大きくうねる。消化管を逆流した悪臭が鼻を覆う。封印の解けた魔物の如く呻き声を上げ、ただ息苦しさに悶えることしかできない。

 頼成は青央の傍らに寄り添い、強張った彼の背中をさすり続けた。




 頼成と青央の奇妙な関係はその夏の間ずっと途切れることはなかった。

 離脱症状に抗う青央が悪魔のような暴言を繰り返し、頼成に手をあげそうになっても彼は決して青央のことを見捨てようとはしなかった。バケツを差し出すのが遅れて自分の靴に嘔吐物を撒かれても、頼成は嫌な顔一つしなかったのだ。


 頼成の献身的な応対が功を奏したのか、青央の調子も日に日に良くなっているように見えた。頼成は日々の青央の少しずつの変化を素直に喜び、彼のことを励まし続けた。

 ようやく食欲を取り戻しかけたある日のこと。青央は差し入れをくれた頼成が額の汗を拭いているところをじっと観察する。


「頼成って、汗かき?」

「あー。人と比べたらそうかもしれないなぁ。だがな青央、お前が思う以上に外の世界は灼熱なんだぞ」


 しばらく外に出ていなかった青央は窓の外に溢れる白い光に目を向ける。


「それはもうただ立ってるだけで蒸されてく気分だよ」


 頼成がけらけらと笑う。


「なら、毎日来なくてもいいんじゃね。無理すると倒れるぞ」

「おお……! まさか青央がそんなことを言ってくれるなんてな。次は感謝の言葉が言えるようになると先生はなお嬉しい」


 青央の言葉に感激する頼成の反応が鬱陶しかったのか、青央は咄嗟にげんなりとした顔をする。


「いや冗談じゃなくてさ。どうしてそこまでしてくれるわけ? 頼成にはなんも得がないだろ」

「青央はシビアだなぁ。得とかそういう問題じゃないんだ。ただ教師として、お前にできることをやってるだけ」

「教師の域、越えてね?」

「だとしても。俺にできることがあるなら、全力を尽くすまでだ」


 頼成はエアコンの風がよく当たる場所まで移動して爽やかに笑った。


「ゲーテの言葉でな、根と翼、ってのがある。親が子どもに与えられるものは二つ。一つは根。一つは翼。しっかりと根を張らせ、未来に向かって翼を羽ばたかせることができるようにしてあげるのが親がしてあげられることだ。でも、それが難しい環境だってある。なら俺が親の代わりになれたらいい。ただそう思うだけだ」

「綺麗事だな」


 青央は冷めた声で嗤う。しかし頼成はにこやかな表情のまま首を横に振る。


「そうかもしれないけど。でも実際、俺は青央のことを養子にしてもいいってくらいには思ってる」

「イカれた? もうすぐ成人だし、そんな必要ない」


 頼成の発言を可笑しそうに笑う青央。頼成は彼の自然な笑い声を初めて聞いたような気がした。そのせいだろうか。愉快な気持ちが心の底から湧きあがり、気づけば一緒になって笑い出す。


「そうだとしてもだよ。俺とお前の年齢差は一生縮まらない。残念ながら、青央は俺にとって永遠に子どもってわけだ」

「ふざけんな。早く自由にしてくれよ」


 手元にあった枕を手に取り、青央は笑いながら軽く頼成に投げつける。頼成はふわりと飛んできた枕を大袈裟に避けながら、また一段と大きな笑い声を上げた。

 もう何がおかしいのか二人とも分かっていなかった。けれどそんなことはどうでもいい。

 ただ単純に、顔が真っ赤になるほど笑い転げていたい気分になっただけなのだ。笑ううちに呼吸のリズムを忘れ、やがて頭痛を引き起こしても、二人はまったく苦しさを感じなかった。



 夏休みが終わると青央のホテル暮らしにも終止符が打たれた。

 薬物に対する依存度は当初に比べて改善されてきた。それでもまだ予断は許さない。

 頼成の計らいで、青央は専門家のカウンセリングも受けるために施設に身を預けることとなった。必然的に授業にはあまり顔を出せなくなるが、頼成の熱意により学校側も試験さえパスすれば出席率は問わないことを承諾した。


 文化祭の前には、ようやく青央も少しずつ学校に姿を現すようになる。

 ただ他の生徒たちと同じ時間に学校にいることは少なく、主に進路についての相談をするために来ていた。

 そして文化祭も終わり、肌寒さが近づくとともに学校の賑やかさにも落ち着きが見てきた頃、青央は本格的に学校に復帰するための準備を進めていた。


 頼成が殺されたあの日もそうだ。昼過ぎに学校に来た青央は廊下で授業に向かう頼成を見かけた。頼成も青央に気づき、嬉しそうに手を振って約束をする。


「後でな、青央」


 放課後、教頭との話を終えた青央は職員室にある鍵の保管庫近くで進路に関する資料が運ばれてくるのを待っていた。教頭が用意してくれると言ったからだ。

 しかし血の気を失った顔で戻ってきた教頭の手には何もなく、ただ一言、嘘のような言葉を告げただけだった。


「頼成先生が殺された」


 真っ白になった頭では、すぐには言葉をインプットできない。

 しばらくしてパトカーのサイレンの音が聞こえてくると、見失ったはずのパズルのピースがぴたりとはめ込まれる。

 そこでようやく理解する。さっきの教頭の言葉は紛れもない事実なのだと。


 理解はできても、受け入れられるとは限らない。

 全身が食いしん坊の悪魔に蝕まれているような非現実感が襲う。青央は目の前を忙しなく動く教師たちの姿をただ瞳に映すことしかできなかった。どうして。どうしてだ。なぁ。

 なぁ、まだ聞いてない言葉があるだろう、頼城。



 きっと、まだ二人の視線は自分を捉えたままだ。

 青央が顔を上げると、目の前で呆然と立ち尽くしている新太と透の複雑な表情が迎える。

 青央と頼成の関係は二人が思っていたよりも深いものだった。

 彼の話を黙って聞いていた二人だったが、時折息をのんでいたことは青央にも気づかれていた。


「それでもまだ、俺のことを犯人だって思うなら好きにしろ」


 青央は二人の自分を気遣うような眼差しに居心地の悪さを感じてぶっきらぼうに言い放つ。


「いや、そんなこと、思えるわけないじゃないですか」


 新太の声は真剣だった。最初の威勢をすっかりなくした新太のしんみりとした表情に青央はため息を吐く。


「別に俺は犯人扱いされることを気にしてはいない。そういう奴に見えてたってことも反論はできないしな」

「あのポスターも、悔しくはないんですか?」


 透が興味本位に訊ねる。青央は透の冷静沈着な眼差しにこくりと頷いてみせる。


「憎んでどうする。俺は品行方正でもないし。憎むのはちょっと違うだろ」


 肩をすくめながら立ち上がった青央は、沈んだ様子の二人を交互に見やった。


「真犯人が見つかるといいな」

「え」


 新太から思わず声が洩れる。青央は透を横目で見ると、最後に新太の力の抜けた表情に視線を向けた。


「もう突っかかってくんなよ。暑苦しいから」


 ひらひらと二回手を振って青に変わった信号を渡っていく青央を、新太は眉を寄せて困惑した表情で見送る。


「なぁ。あれ、瀬々倉先輩も透のこと犯人じゃないって思ってるってこと?」

「知らないよ」


 新太の問いかけにぽつりと返事をする透はまだ、向こう側の道を歩いていく青央の姿を瞳に映したままだった。


「ねぇ、二人とも。どうかしたの?」


 すると神妙な空気が流れる二人の間に柔らかな声が割って入った。声のする方面を振り返ると、そこには警察署から出てきた芙美がいた。きょとんとした顔で、遠くなっていった青央のことを見つける。


「瀬々倉先輩? 二人、先輩と話してたの?」

「あ。ああ、まぁ……な。それより、芙美ちゃんの方はどうだった? ってか、ロビーで待ってるって言ってたのに席外しててごめん」

「ううん。いいんだよ。えっと……一応、話は聞いてくれて……巡回も強化するって言ってた。でも今のところ実害もなくて、手掛かりも少ないからできることは限られてるって。だから、引き続き警戒し続けてくださいって言われた。ストーカーの心当たりがあれば、それも言うようにって」

「そっか。大変だったよな。疲れてない? いや、疲れるよな」

「ふふ。ありがとう桜守くん。大丈夫だから。ついてきてくれてありがとうね。すごく心強かった」


 芙美がすっきりした表情で笑うので、新太もほっとして頬を和らげる。


「目白くんも、ありがとうね」

「ん。いいよ。気にしないで」


 透の視線が芙美を捉えると、彼女は安堵したように肩の力を抜いた。


「それより。ストーカーの心当たりって、誰かいないのか? 学校の奴とか? 芙美ちゃんのことが好きなら正々堂々とすればいいのに。それか嫌がらせ? でも芙美ちゃんのこと恨むようなやつ、いるかなぁ?」


 三人で並んで信号を待つ間、新太は芙美のストーカーについての推測を巡らせた。


「さぁ。分かればいいんだけどなぁ。困っちゃうよね」


 芙美は難しい顔をする新太に向かってくすくすと笑いかけた。

 透はそんな芙美のことを横目で眺める。

 彼女がストーカーの心当たりについてはぐらかし続けていることにはとっくに気が付いていた。


 彼女が抱える重大な秘密。新太はまだそのことを知らない。すっかり探偵気分で芙美とともに見当違いの方向へと話を広げているが、それが的外れだと言うことを一番自覚しているのは芙美なはずだ。


 信号が再び青に変わりゆく。

 透は二人からは一歩遅れて歩き出し、彼女の見事な仮面の横顔に感心したように細い息を吐く。

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