29  欠けたピース


 青央の記憶は多くが朧げなものだった。特に薬に溺れている時の出来事は、決して完成することのないパズルと同じだ。失ったピースが半数を超え、何を描こうとしていたのかすら思い出せない。


 散らかったままのピースたちは、ただ自分の息を止めるだけのために存在している。空気が通るはずの気道を覆い尽くし、呼吸をすることすらままならない。感じるのは絶望だけ。ただ苦しみから逃れたくて、新たなピースを求めてまた自分を破壊することしかできない。

 同じことの繰り返しの中、ただ一人の記憶だけは青央も鮮明に思い出せる。何度壊そうとしても、相手が鬱陶しいくらいのしつこさで這い上がってきたせいだ。


「頼成。俺の鞄を漁ったの、お前だろ」


 夏の暑い日のこと。夏休みを目前としたその日、校舎裏で倉庫の整理をしていた頼成のもとを訪ねたのは見るからに不機嫌な顔をした青央だった。

 頼成は自分を切り裂かんばかりの鋭さで睨みつけてくる彼の眼差しなど気にも留めず、やれやれと笑みをこぼす。


「俺は先生だからな。抜き打ち検査くらいすることもあるって」

「ふざけんな。盗ったもの返せよ」

「あらら。そんな口きいてもいいのかねぇ。約束を破ったのは青央の方だろ」


 青央の苛立った声とは対照的に、頼成は飄々とした様子で軍手を外す。作業をして汗をかいていたらしい。額に張り付いた前髪を搔き上げた頼成はそのまま素手でポケットから小さな袋を取り出した。


「これ。こんなものが学校にあったら物騒だからね。当然、没収させてもらうよ」


 袋をひらひらと揺らし、頼成はわざとらしく青央に見せつける。青央の瞳は袋の中に詰まった細かな粉末に釘付けになる。白の天使が青央を見つけ、助けて、助けて、と呼んでいるようだった。

 瞳孔が開き、微かに覗く歯が牙のごとく尖っていく。荒々しくなっていく青央の息遣いを見つめる頼成は、袋をポケットに戻して軽やかな表情を消した。


「青央。今度やったら警察に突き出すって言っただろ。あれからまだ一週間も経ってない。今回こそは親御さんにも伝えないといけないよな」

「あの人に言っても何も聞かないよ」


 頼成の言葉を青央の堅い声が遮る。


「いいからそれ返せよ。いっそのこと、今、俺が通報してやろうか。高校の教師が薬物を生徒に売ろうとしてますってな。そしたらあんたの人生も終わりだな。せいせいする」

「おお。随分と威勢がいいなぁ。やっぱ、青央にはこんなもの必要ないって」


 袋をしまったポケットを見下ろし、頼成は感心したように笑う。


「まぁ、いくら聞かないって言われてもさ……。やっぱり、家族の問題は知っておくべきだから」


 倉庫の扉を閉めて鍵をかける頼成が独り言を呟く。それが気に食わなかったのか、青央は背中を向けた頼成の肩を強引に掴んで身体を翻させ、そのまま倉庫の扉に彼を叩きつけた。


「あいつのこと、お前だって知ってるだろ? 余計なことすんじゃねぇよ」


 獲物を視界に入れたまま青央の瞳がギラリと光る。頼成は痛めた肩をさすりながら体勢を整えた。


「じゃあやっぱり、青央が約束を守る方が手っ取り早い、ってことかな」


 何事もなかった顔をして眉尻を下げる頼成は、今にもとびかかってきそうな青央の横を通り過ぎる。


「返さねぇつもりか?」

「返すわけないだろ。青央、俺は青央のためにこうしてるんだ。なにも意地悪してるわけじゃない。俺だって本当は青央のことを警察に突き出したりしたくないよ。青央にはまだ未来がある。成績は悪くないだろ? 折角ここまで来たんだから、記念に卒業しておくといい」

「話を逸らすな。そんな綺麗事聞きたくもねぇ。あんたが盗んだ物さえあれば俺の人生は有意義だ。だから返せ」

「残念だけど、その要望は受け入れられないな」


 頼成が振り返って申し訳なさそうに返事をすると青央の体内で何かが崩れていく音がした。陶器になった身体がハンマーで余すところなく殴られ、すべてが闇に呑まれていく。もはや両足で立っていることすら定かでない。


「いいから‼ 早く寄こせよ! さっき言った通り、お前が警察に捕まるぞ」


 青央の手が小刻みに震えていく。どうにか取り出したスマートフォンの画面をタップし、青央の指先に明かりが反射する。


「ああ。どうぞ通報しろ。だが警察は俺とお前の話、どっちを信じるかな?」


 血走った青央の眼には余裕などなかった。薬物とは関係ないが、つい最近、派手な喧嘩を起こして警察に顔を知られたばかりだ。頼成は限界が近づいてきた青央と対峙して冷静に問いかける。


「青央。お前は将来のことを考えたことがあるか?」

「はぁ?」


 スマートフォンを握りしめたまま、青央の手はまだ発信ボタンを押そうとしない。


「お前の家が大変なのは分かってる。随分苦労してきたはずだ。だがだからといって、その苦悩を永遠に背負う必要はない。青央、お前は親とは違う。青央が生きたい道を開けるはずなんだ。今ならまだ間に合う。一時の快楽で自分の人生を放棄するな」


 生温い風が二人の間に吹く。もう夕方だと言うのに、熱気は尾を引いたままなかなか過ぎ去ろうとはしなかった。


「今はまだ信じられないだろうが、人間って、大抵の場合は大人になってからの方が人生が長い。その時に、学生時代のことなんてすっかり忘れてしまうこともある。なのにふとした瞬間、当時の自分が今の自分のことを見つめているような気がするんだ。奇妙だよ。自分に監視されてるみたいでさ。結局のところ、自分に一番期待してるのは自分で、応えられるのも自分だけなんだ。例え記憶としての思い出を忘れても、過去はずっと自分の中にある。それをどう扱うか、大事なのはそのコツだけだ」


 頼成は真摯な表情を真っ直ぐに青央に向ける。彼の眼差しはまるで、青央の開いた瞳孔ではなくその奥にある彼自身の心に呼び掛けるようだった。


「青央、最後に残る敵も味方も自分だけだ。自分に負けるな。自分を見捨てるんじゃない」


 スマートフォンを持つ手から力が抜けていき、青央の手はだらりと落ちていく。それを見た頼成は、踵を返して静かにその場を去る。

 残されたのは青央の震えた息遣いと近くの木々から聞こえてくるヒグラシの泣き声だけ。

 スマートフォンの画面がぷつりと切れて真っ暗になった。

 開いたままの瞳孔に瞼がかかる。目を伏せ、青央の呼吸は次第にさざ波のように鎮まっていった。

 ただヒグラシの声だけが、永延と青央の身体を蝕んでいく。



 夏休みを迎えた青央は、行き場のない日々に街を彷徨い続けていた。

 母親の顔を見たのはもうずっと前の記憶で止まっている。父親に至っては幼い頃に病室で見た姿が最後だ。殺風景な部屋の中で、あばら骨がくっきりと浮かんだ、やせ細った薄い身体が横たわり、青央のことを今にも飛び出てきそうな眼球でじっと見ていた。


 あの時彼は青央のことを自分の息子だと認識できていたのだろうか。当時は覚えてくれていると信じたかった。けれど十年以上たった今、青央は彼には恐らくそんな判断力が残っていなかった事実を認めることにした。血は争えない。青央は幾度となくそう言って自分の選択を肯定してきた。

 薬に溺れ、自分が何者かも分からなくなったまま命を絶った父親の最期。


 きっと遠くない将来、自分も同じ道を歩む運命が仕組まれているのだと、青央は未来を考えることを諦めた。

 家に帰れば息子の存在をたまにしか思い出さない母が自らの仲間たちと集会をしている。

 青央が声をかけようとも、彼女が青央の顔を見ることは一切なかった。夫を亡くした頃から、母は青央もよく分からない謎の懇親会に熱を入れ、働きに出ながらもそちらの活動に心身を捧げていた。


 生活費と学費は遠く離れた場所に暮らす祖母も協力して出してくれている。だが実の母親から送られてくるお金の多くを彼女が使ってしまうため、青央の生活は苦しいものだった。これで救われる。母が封筒にお金を入れるときに言う口癖が、青央の胸を切り裂き続けた。

 祖母に現状を伝えるべきだと青央も理解している。

 それでも真実を告げることが出来ないのは、年老いた祖母に精神的負荷をかけてしまうことに抵抗感があるからだった。


 家にいても、また知らない人間たちが母のもとに集うだけ。

 気味の悪い空間に身を沈めていると、どうにも耐えられないほどの孤独が襲ってくる。

 青央はそれを嫌い、特に逃げ場のない長期休暇の今は家に帰ることが出来なかったのだ。

 炎天下、無意味に動き回るのは危険な程のうだる暑さが身を包む。蜃気楼の中で青央は虚ろな目を下げる。

 頭上に聳え立つ赤い光は、強烈な太陽の熱線に照らされて不鮮明な警鐘を鳴らしていた。


「青央!」


 迫りくるクラクションと悲鳴にも似たブレーキの嘶きが耳を刺す。不快な協和音の合間をすり抜け、精悍な声が空までつんざめいた。


「何してるんだ! 赤信号が見えないのか⁉」


 腕がもげるほどの力で青央の身体を歩道へ引っ張り叱責するのは頼成だった。青央が振り返れば、頼成の汗がこめかみから顎まで流れていくのが見えた。


「頼成。どうしてここに……」


 青央が呆けた反応を見せる間にも、頼成の説教は続く。


「信号を待ちましょうってのは、幼稚園よりも前に習うことだろ⁉ 青央、大人になったからといってルールを破っていいなんて都合のいい話はない。もし気が緩んだって傲慢なことを言うんだったら、その緩んだネジをもう一回締め直すべきだ」


 青央は背後から聞こえてくる車の走行音にちらりと目を向ける。


「おい青央、聞いてるのか? お前、まさかまた──」


 頼成の顔が更に険しさを増す。青央は彼に視線を戻して軽く睨みつけた。


「やってねぇよ」


 もちろん嘘だった。夏休み前に頼成と対峙した時から青央の生活は何も変わっていない。一度、休みが始まってすぐに仲間伝手で警察に捕まったこともある。仲間の家族によって運よく釈放されたが、青央が保護観察の対象になったことを頼成が知らないはずがない。

 青央は自分が置かれた立場などどうでもよかった。もしまた捕まりそうになれば逃げればいい。それは頼成も同じこと。青央はとにかく頼成の視界から逃れたくて彼の手を払う。


「これからバイトだ。遅れるからさっさと失せろ」

「青央」


 道順を変えようと信号の前を左に曲がって立ち去ろうとする青央のことを頼成の通る声が引き留めた。その声のあまりの透明感に、酸素すら彼の言葉のために道を開けているように思えた。


「逃げ切れると思うなよ」


 頼成の強い一言に振り返ることもなく、青央は乱雑な足取りでバイト先に向かう。道を変えたせいで遠回りになってしまった。お節介な人間を避けられるのならそれもやむなし。青央はそうやって自分を正当化した。


 しかし青央が思ったよりも頼成は手強かった。

 信号で頼成と鉢合わせてから数日後、彼は性懲りもなく青央の前に姿を現した。バイト先の店を訪ねて来られては青央も避け通すことはできない。

 やけに上機嫌な雰囲気を纏った頼成の顔を見た途端、青央は即座に嫌な気配を察した。シフトの時間が終わるまで待つという頼成に気を遣ったのか、気のいい店長が青央の終わり時間を早めてくれた。


 青央にとってはいい迷惑だった。それでも店長に逆らうこともできず、青央は言われるがまま頼成とともに店を後にする。

 頼成は車を近くの駐車場に止めていた。青央が目的地に着く前に逃げだしたら大変だから。頼成は笑いながらそう言って青央を後部座席へと押し込んだ。

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