25 未来の生徒会長
参考書を脇に抱え、透はある場所を目指した。向かうのは行き慣れた図書室ではない。階段を上った透は三階の角にあるこじんまりとした部屋の扉を叩く。
少しの間を置いて開かれた扉の内側にいたのはサシャだった。透を見上げ、少し驚いた顔をする。
「透くん?」
「悪い、秦野。ちょっと話せる?」
「いいけど?」
部屋にいる友人に目配せをし、サシャは透に言われるままに廊下に出て扉を閉めた。
「どうしたの」
透が訪ねたのは生徒会室だった。次の生徒会長の選挙がもうまもなく始まる今、会長に立候補した彼女はこの部屋で仲間とともに作戦を練っているようだ。副会長を務め、現生徒会長からも背中を押されている彼女の立場は正直に言って強力だ。改めてそんな対策をする必要があるのかと、透は少し頭をひねる。
「さっき舘山と話した。鍵のこと聞いたよ」
しかし今は寄り道をしている暇はない。透は素早く本題に入った。透の話を聞いたサシャは、アッと声を出して居心地が悪そうに目を逸らす。
「えっと……そのー」
彼女が嘘をついたことはもう明白だった。正義感が強く、普段は正直者の彼女がわざわざ嘘をついた理由。透はそれが気になったのだ。
「どうして拾ったなんて言ったんだ? 秦野が舘山から取り返してくれたんだろ?」
「取り返しただなんて、そんな大袈裟なー」
サシャは力なく笑って誤魔化そうとする。が、透の眼差しは陳腐な小細工を許そうとはしなかった。
「うう……バレちゃあしょうがない。透くんも貴重な有権者だし」
彼女の脳内は今や生徒会選挙のことでいっぱいなようだ。彼女が事件のことで嘆いていたのが遠い昔のことに思えた。サシャには誰よりも立派なアリバイがあった。だからこそ立ち直るのも早いのかもしれない。今、彼女にとって一番大事なのは彼女の名を生徒会長として書いてくれる一人でも多くの生徒の存在だ。
透も勿論例外ではない。腕を組んで覚悟を決めた姿勢を見せるサシャの仰々しさに透は瞬きをする。彼女の貫禄はすでに会長の器に相応しく思えた。
「あのね。トイレに行った時、廊下でぶつぶつ呟いてる篤くんを見かけたの。よくよく見たら、透くんのキーケースを持ってた。大事なもののはずなのにって思って、篤くんと問い詰めたの。そしたら、勝手に取ったって言うからさ。それ、立派な盗難だよって諭したら逃げられて。篤くんと透くんの関係が、今、どうなってるのかちょっと分からなかったし、なんか余計なこと言いたくなくて……拾ったふりをして渡したの」
サシャは今度は背中で指を組んでお茶目な表情で本当のことを告げる。
「嘘ついてごめんね。まさか、メディア室があんなことになってるなんて思わなかったの」
ぱんっと両手を顔の前で合わせ、サシャは片目をつぶって透に許しを請う。彼女が篤のことを伏せていた理由が二人の関係を気遣ってのことだと言われれば、透は何も反論することができない。
「面倒かけたな」
むしろ一瞬とはいえサシャにも事件の容疑が降りかかりそうになったことが今度は申し訳なくなってくる。透が声のトーンを落とすと、サシャは力強く首を横に振った。
「ううん。全然いいの。それよりも透くんは大丈夫? 篤くん、完全な逆恨みでしょ?」
サシャは透のことを気遣うように彼の表情を覗く。
「この前、私の友だちが篤くんに告白されたんだって。彼女は違う人が好きだからお断りしたんだけど……まだ、透くんとのキスのこと気にしてる様子だったみたいだからさ。多分、鍵を盗んだのもそうじゃないかなぁって」
「流石は秦野。勘が冴えてる」
「ふふ。でしょー? そんなキレものの私に、是非投票してよね」
「分かってるって」
すかさず織り込まれたアピールに透はクスリと笑って頷く。
「でも、本当言えばね。理由はそれだけじゃないんだ。篤くんとの関係を憂慮しただけじゃない。透くんに、煩わしい思いもさせたくなかったってのもあるの」
サシャはちろりと舌を覗かせ、恥じらいながら肩をすくめた。
「そんなに気を遣わなくてもいいのに」
透が首を傾げると、サシャはゆっくりと頭を振る。
「ううん。私が、勝手に透くんのことを尊敬してるだけなんだ」
「は?」
「あっ。尊敬、っていうか、一目置いてるっていうか……とにかく、篤くんが透くんのことを未だに恨んでるのもちょっと分からなかったの。私は、透くんに勇気をもらった人間の一人だから」
「ちょっと意味が分からないけど」
ぺらぺらと話すサシャのペースについていけなくなり、透は手を挙げて彼女を制止する。
「まぁ、そりゃあそうだよねぇ」
意味深に笑うサシャは、ぽかんとする透の様子を楽しんでいるようだった。
「前に桜守くんが”少数派”って言ったこと、覚えてる? 私を犯人だと思う人なんてほとんどいないよって、励ましてくれた時のこと」
「ああ。覚えてる」
覚えてはいるが、その話と今の話がどうつながるのか透にはまだ結び目が見えてこなかった。
「本当はね、”少数派”、は私なの」
「え?」
サシャはぴたりと両足を揃え、背中で組んだ片腕を下へ伸ばす。斜め下へ視線を向けたまま、サシャは言い難そうに顔をしかめた。
「私、人に対してあまり好意を抱けないの。っていうか、友だちは好きだし、家族も大好きだし、”好き”って気持ちはわかる。けど、それ以上の感情が、分からないの。簡単に言えば、恋愛感情が抱けないのかな。前に調べたらね。私、無性愛者、に当てはまるのかもしれないなって」
彼女の告白に透の目が微かに見開かれた。
「友だちが好きな人の話とかをしててもね、本当に何も思えないの。ドラマを見て、素敵な関係だなって思うこともある。でも、だからと言って自分がそうなりたいかっていうと、全然想像もつかないの。というか、想像できないの。そうなりたいって、思わないから。興味が持てないの。私、おかしいのかなって思って、怖くなって、何回も皆と同じになろうってトライしてみた。だけど、その度に苦しくて、逃げ出したくなる。自分がバラバラに壊れていきそうになる。誰かに肉体も精神も引き千切られている気分になるの。だからね、ずっと変な気持ちだったの。皆と同じ感情を抱けなくて。どうして皆と違うんだろうって、自分を責めてばっかりで」
サシャの頬がほのかに赤く色づいていく。本当ならばまだ誰かに言いたいことではなかったのだろう。声を発するたび、彼女は棘を飲み込んだように苦しそうな表情をする。
「高校に入ってますます孤立していく気がした。こんな自分、引き取ってくれた両親に知れたらきっと失望されるだろうって、将来まで怖くなってきた。両親は、サシャに恋人が出来たら相手に嫉妬しちゃいそう、って嬉しそうに言うの。でもそんなの、当分……もしかしたら、ずっと、ない。両親は無性愛者とか、そういう、自分には理解できない人間のことを極端に嫌うの。恋愛感情がないなんて、なんて薄情で冷たい人間。感情が欠落してるから、欠陥品で、ただの自己中、必要のない存在だって、前に雑誌の記事を読んで嘆いていたから。余計に、こわくなった」
透は以前に見た彼女の切羽詰まった表情を思い出す。
「恋愛感情が分からなくても、愛情くらい私だって分かるのに。私だって、感情を持っているのに。分かりもしないくせにどうしてそんなことを言えるんだろうって。もちろん、隠しているから両親が知るはずもないけど。私、その言葉を聞いてね、私は価値がない、必要がない人間なんだぁって、ずっと悲しかった。誰にも分かってもらえないし、話す勇気すらない。まだ、自信もなくて。ネットは跡が残っちゃって怖いから、どこにも本音を曝け出せなくて。でも、透くんを見ていたら、少しだけ希望を持てたの。私とは、正確には違うけど。透くんは、例えマイノリティと言われようと自分のこと、ちゃんと受け入れてる。堂々としていて、すごく眩しかった。周りにとやかく言われても素知らぬふり。すごい、って思った。かっこいいなぁって」
サシャは透に向けてきらきらとした瞳を上げる。
「それでいて、人には優しいし。たまに何を考えてるのか分からないこともあるけど、でも、基本は変わらない。もしかしたらいつか、私も透くんみたいに自分に自信を持つことが出来るかもって憧れるの。密かに勇気をもらってた。だから、諦めていた夢をもう一度見ることができた。自分が、夢を実現できる価値のある人間なのかって、それは分からないけど」
ふふ、とサシャは眉尻を下げて自嘲するように笑う。黙って聞いていた透は、彼女のその様子を見かねて眉根を寄せる。
「決めつけんなよ」
「え?」
透のよく通る声にサシャは瞬きをする。
「自分に価値がないとかさ。自分を決めつけることからやめたら、もっと楽になるんじゃない?」
力が抜けたのか、サシャの両腕がぱさりと体側に落ちる。透はサシャの瞳を見つめながら過去の自分のことを思い返す。
まだ新太と兄弟になったばかりの頃だ。
彼がどういう人間か、新太は無意識のうちに勝手な人間像を脳内で作り上げて決めつけていた。
パーティーから抜け出して月の下でうずくまっていた新太を見るあの時まで、透は本当の彼のことを見ようともしていなかった。自分が同じことをされた時は、心底不快な思いをしたというのに。
「決めつける方が楽に思えるけどさ。多分、それは気のせいなんだと思うよ」
透の唇が微かに三日月を描く。サシャは熱のこもった瞳で透のことを見上げた。
「俺は、秦野が思うほどかっこいい人間でもないしさ」
「そうかな?」
「ああ。舘山のこと、利用したのは俺の方だから」
「どういうこと?」
サシャが興味を示したので、透は今まで誰にも言わなかった心の内を少しだけ話すことにした。いや、どちらかと言えば、透の方が話したくなったのだ。
「舘山からお金をもらってキスした時。きっかけは舘山の愚痴のせいだってことになってる。それは半分事実で、半分は別の理由があった。俺、当時はまだ自分の指向を確信出来てなかった。ただ、中学の時に告白されて一か月だけ女子と付き合った時に抱いた違和感にいい加減決着をつけたかったんだ。それで舘山とキスした。そうすれば、自分のことが分かるかもしれないって思って。もう、考えるのが嫌になってたんだ」
「………………それで、分かったの?」
「はっきりと。ただその分、舘山に申し訳なくなって転校したくもなった。舘山に貰った五百円と一緒に、俺が持っていた金は財布をひっくり返して全部寄付した。罪悪感から少しでも逃れたかったんだな。意味ないけど」
透は細い息を吐いて情けなさそうに笑う。
「だから、俺は舘山に恨まれて当然なんだよ。キスの件のせいで舘山はすっかりいじられキャラだし。そんなの、舘山は望んでなかったはずだ。俺も責任がある。あいつがやったこと、非難する資格はない」
「盗みは駄目だと思うけど」
「ああ。普通はそうだ」
透の返事にサシャは頬を緩ませる。
「ねぇ透くん。私、まだ本当の自分を見つけられた気がしない。でも、自分のことを考えるのも嫌になってたところなの。だって、いくら考えたって自分は自分だもの。これ、いつか解放される、のかな?」
サシャの期待に満ちた眼差しに透が気づかないはずがなかった。だからこそ、透の方も嘘はつけない。
「悩みから解放されることは、多分ない。けど、少しずつ、心の余裕はできるかもしれない。時間がかかってもいい。必ず、自分が誰だか分かるようになるはずだ。少なくとも、秦野は一人じゃない。それは保証する。もう何もかも放り投げたくなったときは俺を思い出せばいい。一言でいいからなんか送ってくれ。俺も孤独じゃないって思い出せるから。そうしてくれると助かる」
「ふふふ」
顔を両手で包み、サシャは温かな声で笑った。
「ま。こんな噂まみれの俺を頼る必要なんて、次期生徒会長にはないと思うけど」
部屋に掲げられた生徒会長室の札を見上げて肩を上げた透に対し、サシャは人差し指を振る。
「透くん。私、透くんが犯人じゃないって信じてるよ。鍵の真相を知ってるからとか、そういうのも抜きにして、ね」
「そんなこと言うの、全校生徒の中で新太と秦野だけだ」
「はははっ。ここでも私、少数派かぁー」
思わず吹き出したサシャは、つられて飛び出た涙を指先で拭いながらくすくすと笑う。張りつめていた神経が不意に緩んだようだ。
「なんか悪いな」
「ううん。そんなことない。少数派だけど、これはすっごく自信があるから」
サシャは楽しそうに笑いながら誇らしげな顔をする。
「透くん、もしよかったら、私の選挙活動手伝ってくれない?」
「いいけど。大丈夫?」
「当たり前。透くんがいたら、桜守ファンの票も呼び込めちゃうかも」
「そうきたか。秦野は目の付け所がいい」
「ふふ。でしょー?」
透の手を引き、サシャは生徒会室まで彼を誘う。
芙美の自習が終わるまでにはまだ時間がある。
透は参考書を机に置き、慈愛に溢れた彼女のスピーチ原稿に目を通した。
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