24 向き合って
新太が芙美のストーカー被害疑惑のことを知っていたことは、ここのところ瑞希と話しているところをよく見かけていた透にしても不自然に思うことではなかった。
さらに言えば、透にしてみれば隠すことでもない。ただ、その先にあるストーカー被害の根源となり得る彼女の秘密が芋づる式に明るみに出てしまう恐れはある。本来ならば自分の味方を増やして彼女を説得する勢力を強化した方がいいはずだ。
まだ何も起きていないとはいえ、何も起こらないとも限らない。毎日彼女と一緒に下校をしていても、すべての時において彼女を守れるわけでもないのだ。
だが彼女に断りもなく新太に秘密を打ち明けるつもりも毛頭ない。
透は窮屈な空間に閉じ込められたような気分になって微かな息を吐く。
手元に用意された参考書に目を落としても、何も頭にインプットされる気配がなかった。
二階の談話スペースに一人座る透は吹き抜けを見下ろす。数人の生徒たちが甲高い笑い声とともに正面玄関へ歩いていく姿が見えた。きっとこれから、駅に行って皆で寄り道をするに違いない。
本来なら、透ももうこの校舎から出ていいはずだった。けれど今日もまた、芙美の自習は続いている。
待たなくてもいいと言われていても、勝手に待ってしまうのは自分の我が儘だ。ならば図書室で並んで勉強をしていればいい。新太ならきっとそう言うだろう。しかし、透は事件の日も共にいた二人が今でも一緒にいるところをあまり多くの生徒には見られたくなかった。特に学校の敷地内では。
芙美は恐らく気にしない。それでも透は気になっていた。警察の目が再び校内に向いた今、生徒たちの水面下では彼女が透の共犯者だと囁かれている。そんな意地の悪い話が最も有力な説となっていたからだ。あまり気持ちの良い話ではない。
ここのところ、彼女のサイトへの自身の投稿は頻度を増している。
透が直接見たわけではないが、クラスメイト達が”風鈴”の話題で盛り上がっているところを見かけたのだ。よくバレないものだとむしろ感心してしまう。
口では強気な芙美。奨学金で大学に行くと意気込んでいたが、内面ではやはり自身で大金を稼いで大学に行くしかないと考えているのだろう。投稿の裏に隠した彼女の本意が見え、透はまたしても言葉を失っていた。
大学に行くか行かないか。つい最近まで悩んでいた透にしてみれば、彼女の計り知れない熱意と執念には脱帽するばかりだった。
例え彼女と同じ立場になったとしても、自分は彼女と同じくらいの情熱は持てないことを透はなんとなく想像できた。全く同じなどあり得ない。そのことを、透は嫌と言うほど理解していた。
自分もまた、芙美にしてみればよく分からない人間に見えているはずなのだから。
透が参考書のページをめくると、背後からひたひたと控えめな足音が近づいてくるのが聞こえてきた。この場所に腰を掛けてから、ここを通り過ぎていく生徒の数は極端に少ない。
それは各教室から外に出る道順を考えれば妥当なことで、昼時とは違うその静けさを透は気に入っていたのだ。
どうせすぐに通り過ぎる。そう思っていた透だったが、予想に反して足音は透のすぐ近くで止まった。
もしや足音の主もこの場所で作業でもするのか。
先住民の気持ちになって、先に談話スペースを貸し切っていた透はその顔を見ようと視線を斜め後ろに向かわせる。そこにいたのは、透にじっと目を向けたまま気難しそうな顔をしている一人の男子生徒だった。
前髪はセンターで分かれていて、毛先を遊ばせているのか少し軽い印象を受ける。身長はそこまで高くない。立ち上がれば、恐らく透の方が目線が高くなるはずだ。
眉に葛藤を乗せた複雑な彼の表情は、まるでこれから苦手なジェットコースターに無理矢理乗らなければならないような歯切れの悪いものだった。
黙ったまま透を視界の中央に置く彼が何者か、透は当然のごとく知っている。
「舘山。何か用?」
透が先に声をかけると、
「話があるから、来たんじゃないの?」
参考書を閉じ、机に置いた透は彼の表情を伺いながら訊く。
「…………そうだけど」
ようやく篤の声が聞こえてきた。透は上半身をねじり、篤のいる方面を向く。
「で。なに?」
透の声には珍しく惧れが混ざっていた。注意深く篤の表情の変化を眺める。ただ彼は、眉間に皺を寄せて唇の端を口内で噛んだだけだった。
透が篤と言葉を交わしたのは一年以上ぶりのことだ。
最後に彼と会話した時の記憶は忘れるはずがない。けれど反対に、あまり思い出したくもないことだった。
「目白、に、言わなきゃならないことがあって」
去年、二人は同じクラスにいた。入学してすぐの席替えで隣の席同士になった二人は、慣れない高校生活の愚痴を言い合うくらいには打ち解け合っていた。今の二人は近い距離にいるにもかかわらず昔の国際通信の如く会話がままならない。が、当時は今とは全く違い、もっと滑らかな意思疎通が出来ていたものだ。
「言わなきゃならないこと?」
言葉をぶつ切りにしながら話す篤に対し、透は詰まることなく声を通す。篤は透を見たまま小さく頷いた。
「なに?」
透はちらりと近くにある時計を見やる。篤が現れてからまだ五分も経過していないのに、すでに十五分以上は経った感覚だった。
「鍵のこと」
「鍵?」
篤の言葉に透は怪訝な表情を浮かべる。彼の言う「鍵」に思い当たりがない。透が視線を床に落として考え始めたので、篤はごくりとつばを飲み込んだ。
「メディア室の鍵だよ。事件の日、目白、廊下に落としてただろ? サシャが拾った」
「ああ。鍵って、その鍵。でもなんで、舘山がその話を──」
頭の中で篤と鍵を思い浮かべ、二つを整理しながら問いかけようとした透だった。だが喋りながら、透はある可能性に直面する。
「もしかして、鍵、盗ったの舘山?」
参考書の上に乗せた右手の指先が自らの発言にピリリと痺れた。
途端に不快な緊張が足元から喉元まで駆けあがり、透は篤のことを瞬きもせずに見つめる。
「──────────そうだよ」
透と目を合わせたまま篤は静かな声で答えた。透の全身からフッと力が抜けていく。骨の奥にじんわりとした震えが伝わる。
「それ、本当に言ってるのか?」
「ああ」
黒目の奥がぐるぐると回るようだった。透の確認に篤はもう一度頷いて答える。
「あの日。俺、第二言語の授業の時間、気が乗らなくてサボってた。体調が悪いって言って保健室で昼寝して。目が覚めた後は授業に出る気もなかったけどぶらぶら適当に散歩してた。そしたら目に入ったんだ。目白たちのクラスの教室が。教室は空っぽだった。皆、無防備に鞄が出しっぱなしでさ。魔が差したんだ」
篤は透の顔から視線を剥がすこともなく真っ直ぐに見つめていた。悪気の感じない眼差し。透は彼のその瞳に抱かれた自分への憎しみを読み取った。
「目白の鞄もあって。ミントグリーンのキーケースを見つけた。そういや、目白はメディア室の鍵を任されてたって話を思い出して。信頼されて任されてたのに、もし失くしたら大惨事だなって思ったんだ。授業や部活動では滅多に失敗しない目白の大失態。それは面白いと思って拝借した」
「舘山だったのか」
淡白な声だった。篤と同じく、透の声にもまた一切の感情が乗っていない。ただ一つの謎が解明されたことに内心はざわついていた。あの日、鍵を落とした記憶などなかった。そもそも鞄から出す機会もなかったのだ。一体どこでどう落としたのか。透にしてみれば理解が追いつかない出来事だった。
しかし何者かが盗んだというのなら。それがまた、この舘山篤だというのなら。これ以上のシナリオはないほどに納得できる。
「じゃあ、秦野が拾ったって言うのはどうしてだ?」
埋まらない台本の空白を求め、透は続けて篤に問う。
「俺が盗んだってこと、サシャにバレたから。放課後、盗んだはいいけどどうしようかなって考えてたら、鍵を眺めてる俺をサシャが見つけたんだ。で、これは目白のだって言われて、強引に奪われた。あいつ、結構迫力あるからさ。咄嗟のことで。結局俺は、サシャの小言から逃げるためにその場を去った。サシャが目白になんて言ったかなんて知らなかったけど」
篤は微かに目を伏せる。
「最初、鍵を盗んだのは教師からの目白に対する評判を落としたかったからだ。結果的に、ある意味では目白の評判は落ちた。事件があったから。で、俺、ちょっと興奮して。思った以上の結果に舞い上がったんだ。それで、ポスターも作った。桜守に破られたけど」
「容疑者の投票のやつか? あれも舘山が?」
「ああ。あの時俺は、とにかく目白のことを貶めたくてそのことしか考えてなかった。頼成先生のこととか、生天目さんとか、サシャのこととか、あんまり考えてなくて。ただ面白ければいいやって思ってたんだ」
「あれ、面白かったか?」
「少なくともあの時の俺には最高だった。──けど」
篤は更に目を伏せ、項垂れるように頭を下げる。鈍い重しが彼の上にのしかかっているようにも見えた。
「今思えば、何も面白くない。ただ悪趣味なだけだ。目白はともかくとしても、他の人間にも迷惑をかけたし」
篤はそのまま頭を下げ続け、九十度よりも深く礼をする。
「目白、悪かった。鍵を盗んだことも、ポスターのことも。何もかも。俺、ちょっと狂ってた」
深々と頭を下げたまま、篤は一向に起き上がってこようとしない。透は思わず立ち上がり、見事に折れ曲がった彼の姿を瞳に映す。透もまた、どう反応していいのか答えが見えてこなかった。
「いいよ。もうそんなこと今更。舘山、頭を上げてくれよ」
しかし透の言葉にも篤は首を横に振る。
「俺、本当に反省してるんだ。取り返しのつかないことをしたと思ってる。あの日、俺が鍵を盗まなければ、違う結果が待っていたかも」
「舘山のやったことは関係ないだろ。犯人がどうして鍵をかけられたのか、まだ分かっていないんだから。秦野が俺に直接渡しに来てくれたんだから、あの鍵が使われたはずがない。秦野が先生を殺したわけでもない。ただ偶然、すべてが重なっただけだ。舘山の責任はないだろ」
透が落ち着いた語調で篤と事件が無関係であることを述べると、彼は少しだけ頭を持ち上げた。
「どっちかというと、あのポスターの方が問題だ。俺はいい。けど、秦野はあれで随分傷ついたみたいだし」
「ああ。分かってる。サシャにも、前に謝った」
「何か言われた?」
「ただ睨まれただけ。何も言われないのもそれはそれで怖かった」
「秦野らしいな」
透の口から渇いた笑い声が洩れると、篤はようやく身体を真っ直ぐに戻した。再び目が合った二人。するとまた、互いに口を閉ざしてしまう。面と向かうと何を言っていいのか分からないのだ。透の瞳に困惑の色が見え、今度は篤が先手を切る。
「ごめん、目白。俺、目白のこと目の敵にしすぎた。目白を潰しても、俺がモテるようになるわけでもないのにな」
「なんだよそれ」
篤の発言に思わず透の表情が崩れる。透の緊張が和らいだのを見て、篤もつい一緒になって笑い出す。
「そのまんまだよ。俺、未だにキスしたのは目白だけだよ。彼女なんて出来やしない。それもこれも、目白との変な噂のせいだって人のせいにしてた。でも違う。噂があろうとなかろうと関係なく、ただ俺に縁がないだけなんだって、ようやく気付いた」
「きっかけでもあったの?」
「最近、好きだった子に告白してフラれた。気になって理由を訊いてみたんだ。そしたら、目白とのうわさは関係なかった。むしろ、そんな昔のことを気にしてるの? って呆れられたくらい。不甲斐ないよな」
篤は苦虫を潰したような顔をして肩をすくめる。
「ようやく目が覚めた。目白のことをいつまでも引きずってるのは俺の方だったんだって。自分が目白の提案に乗っかっただけなのにな。これからは情けない笑い話として考えるようにしようって決めたんだ」
「……そう」
「目白、最後にもう一回言う。本当に悪かった」
篤の何かが吹っ切れた眼差しに目を向け、透は微かに首を横に振った。
「いいや。俺の方こそ…………悪かった」
「どうして目白が謝るんだよ」
「え? いや……流れ、で?」
「ははっ。律儀な奴」
息を弾ませ、篤は何のしがらみもない様子で笑顔を見せる。
「ここらで仲直りしようぜ」
「……ああ」
篤に差し出された右手を左手で受け取れば、彼は透の手を固く握りしめた。
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