23 繰り返して繰り返し

 最初に警察が学校に来た日から、気づけば三週間が経ちそうになっていた。

 数人の容疑者候補が浮かび上がっては消え、捜査は今や振出しに戻りかけている。

 今回の事件で一番の肝となったのは頼成が大の蜘蛛嫌いだったということ。その事実を知る者も少なく、捜査関係者はこちらの線を辿ればおのずと犯人像が見えてくると踏んでいた。


 しかし頼成の弱点を知っていた者の中には目ぼしい者はいなかった。そもそもこの秘密を誰がどこまで知っていたのかが定かでない。雲を掴むような難題が立ちはだかったのだ。

 ただ、ある程度彼と近しい者の犯行であることは確かだと警察たちは予測していた。となれば、やはり彼が最も時間を費やした場所にまつわる人間が怪しい。


 一度は校外に向けられかけていた警察の睨みは、またしても叶山高校内部へ向けられる。

 腕を組み、落ち着きのない様子の新太は左人差し指で右腕を小刻みに叩く。

 彼が用心深い面持ちを向けているのは進路指導室の扉だった。廊下の窓に寄りかかり、背後から聞こえてくるダンス部の陽気な練習曲とはちぐはぐな心模様で時計を見上げる。

 もう何度、この曲を繰り返したのか分からない。そろそろ勝手に口ずさんでしまいそうなほどにリズムを覚えてしまっていた。


 授業が終わってからの時間を、新太はほとんどこの廊下で過ごしている。見えている景色はずっと変わらない。閉ざされた重たい扉が目の前にあるだけ。その向こう側では、警察に呼び出された透がもう一時間近くも聴取を受けていた。

 午後の最後の授業が始まる直前から、新太の脳内にはなんとなく嫌な予感が漂っていた。科目としては第二外国語で、ちょうど教室を移動していたところに警察が校舎に向かってくるところが見えたからだ。


 そこまで前のことでもないのに、独特な空気を放つ彼らの制服を妙に久しぶりに目にしたような気がした。

 だが同時に、彼らがわざわざ出向いてきた理由を簡単に想像できてしまった。

 犯人像がなかなか固まらないことを新太もクラスメイトとの雑談で認識している。頼成と確執がありそうだった加賀も結局のところ犯人ではなかった。つまり、彼らは更なる手掛かりを集めに学校にやってきたのだ。


 新太とは違う言語を選択している透が彼のクラスメイトである女子生徒と会話をしながら新太とすれ違う。

 彼もまた、警察が来たことに勘付いたようだ。

 透の深い瞳と目が合った新太の頭に浮かぶのは、簡単な推理だ。

 恐らく彼らは、あの日一番に鍵を開けた彼のことを被疑者に仕立て上げたいのだろう。




 新太の左人差し指が無意識のうちに背後から聞こえる曲のリズムを刻む。

 あと少しでこの曲一番の盛り上がりをみせる小節に突入する。実際にダンスを目にしたわけではないが、きっと身体の動きも派手なものになるに違いない。見せ場を作るなら必然的にこの箇所だ。素人でもそう考える。

 十分に溜めて、次の瞬間に雷鳴の如く鮮烈な引きをつくるのだ。トン、トン、トン、と、新太の指先にも異様な緊張が走る。────ここだ。

 スポットライトが舞台の中央を照らすその間際、新太の視界を閉ざしていた堅い扉がガチャリと音を立てた。


「では、失礼します」


 低音の男の声が廊下に響き、新太の耳からダンス部の曲が遠ざかる。不意の出来事に新太は思わず姿勢を正し、組んでいた腕を解いた。

 進路指導室から出てきた二人の警官と目が合い、新太はぺこりと軽く頭を下げる。彼らも新太に倣って会釈を返してくれた。そのまま廊下を去っていく二人を見送っていると、開かれた扉からは続けて別の大人の声が聞こえてきた。


「何度も悪いな、目白。断ることも出来なくてさ」


 出てきたのは体育教師だった。前にも透の事情聴取に付き添ってくれた教師だ。


「いえ。断る理由もありませんから。同席、ありがとうございました」


 最後に部屋を出た透は、電気を消してから再び扉を閉める。廊下で待っている新太の姿に気づくと、透は体育教師にお辞儀をしてから肩の力を抜いた。新太とも目を合わせた体育教師は、快活な敬礼を見せて職員室へ向かう。


「新太。もしかしてずっとここに?」


 透の呆れ声などどうでもいい新太は、微かに眉をひそめて真剣な表情をする。


「気にならないわけがないだろ。どうしてまた事情聴取を受ける必要があったんだよ」

「そんなの新太も分かってるでしょ。犯人っぽい人が見つからないから、俺にその役を負って欲しいんだろ」

「お前、そんな不謹慎なこと言うなって。やっぱりあれか? 鍵の指紋か?」

「それだけじゃない。第一発見者は、実は誰よりも疑われやすいんだよ」


 新太の隣に並び、窓に向けて後頭部を傾けた透が浅いため息を吐いた。流石に息苦しい部屋に閉じ込められて重たい会話をすることに疲れたようだ。


「大丈夫か?」


 透の表情に疲労の色が見えた新太が訊ねれば、透は静かに首を縦に振る。


「そろそろ事情聴取にも慣れてくるかな」

「慣れるもんじゃないだろ。っていうか、慣れるな」


 透の呟きに半ば本気で突っ込んだ新太は窓の外をちらりと見やる。気づけば音楽が止まっていた。見れば、ダンス部のメンバーは休憩して談笑の時間を過ごしていた。


「新太。どうしてそんなに、俺がやってないって自信があるの?」


 空白の時を埋めるように透がぽつりと声を落とす。


「俺が当日何をしていたか。新太は何も知らないのに」


 ずっと黙ったままの芙美との会話を、彼が気にしていないはずがない。透は窓の外を眺めている新太の横顔に疑問をぶつける。家族なのだから当然だ。間違いなくそんな思考が彼の中にあるのは分かっていた。けれど家族と言っても、血も繋がっていなければ共に過ごした時間も短い。

 兄だからと言われても、二人に庇護関係が生じるほどの差も存在しない。ただ偶然、親同士が惹かれ合っただけ。それだけの関係で、それ以上はない。透には新太と同じ思考を持つことは出来なかった。


「理由なんて簡単に言えるもんじゃないだろ。ただ俺は、透を信じてるだけだ」


 新太の一語一句に嘘はなかった。実際、根拠をレポートに書いてみろと言われたら参ってしまう。だが新太にはそれで十分だった。明確な理由などいらない。彼のことを知ったのは確かについ最近だ。正確には高校入学からだから、もっと前に出会っていた。が、彼と”対面した”と言える期間はごく僅か。

 時の長さは関係なかった。彼と交わした会話や親しくなってからの彼の言動が、新太の考えを裏付けるだけの証拠となり得たのだ。


「そもそも。透を犯人にしたいって言ったって、動機もなぁ」


 新太がまるで独り言のように呟くと、透は彼に向けていた視線を閉ざされた扉へと向けた。


「動機、あるかもしれないだろ」

「はぁ?」


 透の言葉に新太はダンス部の和んだ空気を見ていた目を透に戻す。突飛な発言に、新太の表情は不信に歪む。


「メディア部に入ってすぐの頃。男娼って噂がちょうどピークだった時かな。頼成先生が俺のことを気遣ってくれたのか、二人になった瞬間に話してくれたことがあった」


 過去を振り返り、透は廊下をじっと見つめる。


「錯覚の話。頼成先生曰く、今の現代社会は皆、錯覚の中を生きてるって話だった。自分が何者か、別に無理に探究することもない課題に苛まれて、むやみやたらに自分を追い込んでしまうことがあるって。社会には人が多すぎる。だから、皆、ある程度の型を見つけたがるんだってさ。その方が安心できるから。模範とされることや、誰かと同じであることに沿って生きていければ、怖がる必要もない。不安になることもない。だから皆、気づけば錯覚を過信する。これが正解だって思いたくて」


 透の話に新太は眉根を寄せる。


「先生が何を言いたいのか、俺は最初、分からなかった。その後で先生はこう言った。だから、今、そうだと思っていることが、本当は違うことだってあるんだよ、と。俺が性的指向に悩んでいるんだろうって思ったんだろうな。周りとは明らかに違うことには悩むものって思われがちだから。俺は、自分のことをそう思い込みたくて錯覚しているのかもって。先生なりの励ましだったのかも。けど」


 透は下げていた視線を上げ、瞳に確固たる意志を宿す。


「俺は自分のことを錯覚なんてしていない。思い込んでもいない。先生に出会うずっと前から、俺は長い間自分に向き合ってきた。適当なことを言うな。分かったふりをするな。”普通”を押し付けようとするな。いくらでも怒りが浮かぶ。偽善者のような言葉を恨むのは、立派な動機に成りえない?」


 新太の険しい眼差しと透の温度の低い瞳が交わった。難しい顔をしている新太の第一声に透は耳を澄まして集中する。


「消化が悪い」

「え?」


 透が思わず声を洩らすと新太の頬が力が抜けたように崩れていく。新太は満面の笑みを作って透の肩をバンバン叩く。


「透。そんな話して、俺の考えが変わると思ったかぁ? いやぁ。よく捻り出したとは思うけどな。うん。そこは褒めてやってもいい」


 感心したような語調で感慨深く二度頷いた新太は堪え切れず賑やかに笑いだす。


「はははははっ。いや、実際、頼成先生と透の間柄なんてよく知らないけどさ」

「笑い過ぎなんだけど」


 新太の妙なテンションに引き気味の透の眉が下がっていった。消化が悪いと顔色を悪くしたので、お腹でも壊したのかと思ったが。彼はそんなことはなく、ただ透の言葉に納得がいかなかっただけのようだ。


「悪い悪い。でもさ、透だって変に思わない? そりゃ事件が起きたのは学校だけどさ。生徒か教師だけを怪しまれるのも、ちょっとなぁ。別に、外部の人間が入れないわけでもないんだし」


 気を取り直したのか、新太は笑いながらも自身の持つ疑問を口にする。


「監視カメラに怪しい人物が映ってなかったって話だけど。別に、カメラなんて場所を知ってれば避けられるしな。当日来てた業者とか、来訪者のこともちゃんと調べてるもんなのかな」

「業者に聞き込みはしたらしいよ。あの日来てたのは、植栽管理の造園業者と仕出し関係の業者だけ。来訪者は特にいなかったみたいだし、一応、学校関係者以外も調べたって聞いた」


 透は先ほど体育教師に聞いた話を透に伝える。


「へぇ。でもなんか。しっくりこないよな」

「新太が勘ぐりすぎなんじゃない?」

「そうかぁ?」


 あまり腑に落ちずに新太が首をひねると、透がスマートフォンを取り出した。


「新太。俺、そろそろ行くけど」

「おう」


 スマートフォンに何やらメッセージを返す透を見て、新太の勘がピンと冴えわたる。


「もしかして芙美ちゃん?」


 何かを考える前に訊ねていた。さっき大笑いをしたからか、新太の気が大きくなっていたこともある。これまで喉の嫌なところにつっかえていた言葉があっさり外に出ていった。


「そう。なんで?」


 透がスマートフォンをしまってこちらを見るので、新太は今だ、と言わんばかりに息をのみ込む。


「いや、さ。芙美ちゃんがストーカーされてるって、本当?」


 新太の問いに透がぱちくりと瞬きをする。


「多分、そう」


 えらく簡単な答え合わせ。新太が返事を用意する間もなかった。


「知らないふりなんか無理だからさ」


 もたれていた身体を起こし、透はそう言って新太を見やる。


「俺は大丈夫だから」

「透は平気でも、芙美ちゃんは?」

「分からない。だから、今日も一緒に帰るよ」

「……そっか」


 新太も勢いをつけて姿勢を正す。しっかりと廊下に二本の脚を立て、先ほど見た体育教師の真似をしてみる。


「じゃ、また後でな」


 かっちりと敬礼をする新太の姿がやけにしっくりときて、透はささやかな笑みを隠してこくりと頷いた。




 芙美が待っているのは図書室だった。彼女は奨学金制度利用のためにここのところかなり学業にも力を入れているようだ。透も彼女に触発され、机に向かう機会が増えた。しかしいくら勉強に励んだところで無駄になるかもという思いが拭いきれない。芙美はともかく、特に自分は。


 殺人事件の容疑者として警察に睨まれている自分を色眼鏡で見ない大学などあるのだろうか。

 図書室に向かう途中で、透は通りがかった美術室に意識を向ける。

 メディア部に入って間もない頃、コンクールに入賞した美術部部員の取材をしたある日のこと。この場所で、頼成にかけられた言葉を思い出す。



「だから目白。人は錯覚に陥ったら、なかなか戻っては来られないんだ。世の中は錯覚で成り立っているようなものだしな」


 窓から差し込む夕陽が頼成の表情をくっきりと照らし出していた。嫌味のない笑顔で透のことを優しい眼差しで見ていたことをよく覚えている。


「錯覚に浸り続けるのも決して悪いことではないし、俺は否定しない。まぁある意味、自分も理想の教師像ってやつがあるものだって思い込んでるし」


 軽やかに笑う頼成の横で、透はノートパソコンを閉じて目の前に展示された油絵に目を向けた。ツンとした香りが鼻を通る。


「先生は、俺も錯覚してると思いますか?」


 透の問いはどこまでも真っ直ぐだった。迷いがない分、反対に哀しくも聞こえる。頼成は首を横に振り、潔い笑みを浮かべた。


「いいや。目白、お前はどっちかといえば錯覚が利かないタイプだ。お前にそんなものは必要ない。目白、少しは自分を信じてやれよ? 周りに流される必要なんかない」


 ポンッと透の肩に手を置き、頼成はコンクールに入賞した作品を透とともに眺める。


「立派な絵だよな」


 誇らしげに呟いた彼の声に連動するように、窓の外では野球のバットが威勢よくボールを打つ音が響く。



 今日は美術部の活動日ではない。中途半端に開かれた扉の隙間から見えるのは、あの日から変わらず展示されたままの油絵だった。小さなテディベアを抱きしめる少女の絵だ。

 ただあの時とは違い、交流試合に出かけている野球部の勇み声は聞こえてこない。

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