21 枯れ葉の海
生徒たちが口にする噂とは真逆に、警察からの加賀への容疑は早々に晴れていた。
加賀が頼成を殺した犯人ではないことはとっくに生徒たちの間でも周知の事実となっているはず。にもかかわらず、教壇に立つ加賀の表情が以前のような涼やかさを見せることはない。
どんよりした空気を纏い続ける彼女に対し、生徒たちは別の意味で不安を覚えるようになる。まるで人が変わってしまったような彼女の振る舞い。かつて生徒に向けていた誠実な眼差しは、今やすっかり薄ぼけてしまっていた。
瑞希によれば、加賀は重要参考人となった彼女のことを心配してくれた恋人とも喧嘩してしまったとのこと。
擦り減った彼女の心のキャパシティでは、彼の心からの思い遣りすらも受け止めきれなかったようだ。
環境の変化に我慢の限界を迎えた加賀は、ついに自身のギャンブル趣向を告白し、その時から彼との関係がぎくしゃくしているという。
何故瑞希がそんなことを知っているのか。
話を聞いた新太は、もはやその点を気にすることはなくなっていた。
彼もまた、自身の心の余裕があまりないということもある。加賀の鬱々とした背中を見る度、少しの罪悪感が頭をよぎることもあった。けれどそれよりも気がかりなことが彼のすぐそばに渦巻いているからだ。
芙美がストーカー被害にあっているという情報が気になって仕方ない。ストーカーという言葉だけでも虫唾が走ると言うのに、加えて透にまで危害が及ぶ恐れがある。もしや、透は彼女の懸念を知ったうえで一緒にいるのかもしれない。ならば自分が口走った勘違いについて彼らはどう思うのか。
事件の容疑者となってもなお彼女と当日に何をしていたのか頑なに言わない彼を思えば、どんな事実があろうと自分に相談してくれることはないだろう。そんな予測は簡単にできた。
だが新太は透のその態度をあまり良くは思っていなかった。
一人で抱え込みすぎることが最善の手段だとは限らない。新太は閉じられた自分の部屋の扉を見やる。
ストーカーの事実確認をしたくとも、勉強中だからと断られて家でも透は話を聞いてくれない。無理やりにでも聞こうものなら新太も勉強しないと後悔するよと反対に説教されて追い返される。
するとまた、透の言葉に重なり青央と会話した時のことが脳裏に蘇った。
「はぁ……なんだよ。つれない奴」
手に持ったストレスボールをぐにゃりと潰せば、ゆるい顔をしたクジラが愛らしい顔に似合わないニヒルな笑みを浮かべた。
先日の大雨の影響で学校の敷地内を彩っていた枯れ葉の多くが地に落ちた。
悶々とする脳内を少しでもスッキリさせようと、新太は赤茶色の絨毯を踏みしめ放課後の校内を散策する。
とりあえず校舎の周りを一周すれば多少のリフレッシュはできるはずだ。普段は用事がなければあまり歩くことのない道を進みながら、新太は異邦人のつもりになって気を取り直す。
毎日通っているはずの学校なのに、改めて振り返ってみればまだ知らない景色があるものだ。
些細な発見に新太の心がほんの僅かに持ちあがる。気持ちが緩み、凝り固まった思考を解そうと両手を左右に広げて伸びをしてみた。身体が伸びると同時に気の抜けた声も口から出ていく。周りには他に誰もいないのだから、どれだけ間抜けな声だろうと気にする必要もない。
人の目がない気楽さにすっかり大らかな気分に浸っていた新太がストレッチを終えて近くの倉庫に目を向ければ、もそもそと何かが蠢く姿が見えてきた。
この場にいるのは一人だけだと思っていたのに。その姿が人間のものだと分かるや否や、新太は急激な緊張に覆われた。
倉庫の近くでいくつものゴミ袋をリヤカーに積んでいるのは加賀だった。避けることが出来ない授業以外ではあまり顔を合わせないようにしていた彼女が数メートル先にいる。
新太は咄嗟に身なりを整え、今いる場所から彼女の動向を探ることにした。手にしていた箒を倉庫の壁に預け、加賀は赤茶色の葉が詰まったゴミ袋を順番に手に取る。
丁寧にリヤカーに積んでいくものの、積載量が多いためかすべてを積むのは困難なようにも見えた。彼女の意に反し、載せたはずのゴミ袋が地面に着地してしまう。
そのやり取りを三回繰り返したところで、新太は意を決して足を前に踏み出す。
「先生。運ぶの手伝いますよ」
新太に声をかけられたことに気づき、加賀はゴミ袋に向けていた視線をゆっくり彼の方へ上げた。
「いいのよ。生徒にやらせるのは悪いわ」
「そんなことないですよ。そもそも、これも先生の仕事なんでしたっけ?」
地面に残るゴミ袋は残り三つ。これなら両手で持てるはず。新太はそれらの袋をひょいっと軽々しく拾う。
「いいえ。用務員さんがいつもはやってくれるわ。でも、身体を動かしていないと落ち着かないから。だから落ち葉拾いをやらせてもらったの」
膨れ上がった三つの袋をすべて手にした新太を気まずそうに見た後で、加賀はリヤカーのストッパーを外す。
やはり彼女の声は沈んだまま。あまり目を合わせようとしない加賀の瞳は、ここのところずっと充血している。
「ゴミの回収場所まで運ぶから。そんなに遠くないはずよ」
加賀がリヤカーを押せば、積み上がっていた袋たちが微かに揺れた。
目的地に向かって歩く二人。あまり早足で歩くとゴミ袋が落ちてしまう可能性もあり、二人の進む速度はかなりのスローペースだった。無言で前だけを見据える加賀の斜め後ろで、新太は気道が細くなっていく感覚を覚えた。
加賀と直接口を聞いたのは前に瑞希と一緒に進路指導室へ行った時が最後だった。その後で、彼女は警察の取り調べを受けて以前の華やかさをなくした。
責任を感じていないと言えば嘘になる。もちろん、彼女が真犯人ではないことを心では望んでいた。ただ正直に話して欲しかっただけ。生徒に向けられた疑惑の眼差しを見て見ぬふりして欲しくなかっただけだ。
実際、警察が彼女と頼成の関係を突き止めたことも、当日職員室に彼女がいなかったことも新太は何の関与もしていない。しかし彼女にしてみれば、生徒二人に知られたくない秘密を握られて脅されたも同然だろう。
ひどく疲弊してボロボロになってしまった彼女の姿を見ると、新太は自分の行いが無関係などとは到底思うことが出来なかった。教師として、新太は加賀のことを尊敬していた。その気持ちは微塵も変わらない。
だがそんなことを伝えても今の彼女にしてみれば余計な慰め、下手すれば嫌がらせにすら聞こえるかもしれない。
新太が言いかけた言葉を唾とともに飲み込んだ瞬間、二人の行く先に制服を着た一人の人間が佇んでいるのが見えてきた。
「透? なにしてんだこんなところで」
近くに聳え立つやせ細った木を見上げる彼に対し、新太は驚きの声をあげる。丸くなった新太の目を見やり、透はその前にいる加賀に軽く会釈をした。
「暇つぶし。新太は何してんの?」
リヤカーに積まれた袋の山と新太の両手に携えられた袋を順に見つめ、透はきょとんと瞬きをする。
「先生が落ち葉拾いしてたから。その手伝い」
新太は近づいてきた透に軽く説明した。新太の前に立つ透のことも、加賀はあまり見ようとはしなかった。
「俺も手伝うよ。どうせ暇だから」
「いいのか? 助かるぜ、透」
手を伸ばしてきた透に新太は自分が持っていた袋を一つ渡した。
「すごい量。これ、よく集めましたね」
透は傍にいる加賀を称えるように呟く。加賀は小さく首を横に振って「別に」と答えただけだった。
回収場所までは校舎裏のゆるやかな傾斜を下ればあと少し。三人は歪な沈黙を保ちながら残りの道のりを行く。
隣を歩く透のことを新太はちらりと横目で見やる。部活動も休みっぱなしの透が放課後に残っているのは珍しい。
何か用事でもあったのだろうか。気にはなるが、加賀に対する罪悪感が先立って新太は透に問いかけるタイミングを見失っていた。
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