19 噂の先輩

 午後下がりの授業がはじまると、さっきまで押し殺していた眠気が反撃と言わんばかりにどっと襲い掛かってくる。あと授業を二コマ受ければいいだけ。新太はその三時間にも満たないたった少しの時間を乗り越えられる自信を失いかけていた。


 気を抜いて瞼を閉じればもう三十秒後には舟を漕いでいるに違いない。今、教室の前方に立っている現代文の教師は居眠りに厳しいことで有名だ。ここでうっかり寝てしまったら、放課後の居残り行き切符を渡されることが確定する。それは避けたい。だから、自分の肌をつねってでも目を覚ましていなければ。


「……いって」


 予想以上の力で自らの手の甲を痛めつけた新太の口からは反射的に声が出ていく。教師が文章を読み上げる声だけが響く教室で、新太の声は近くの生徒たちの視線を集めた。少しの羞恥を覚える新太。しかし何も取り立てて騒ぐようなことではないはず。別に気にすることはない。そう思い直した新太の予測とは裏腹に、彼の方面に顔を向けた生徒のうちの一人が悲鳴のような驚嘆の声をあげた。


「うぎゃっ! ちょっとちょっと、鼻血出てるよ!」

「えっ?」


 こちらを見て目を見開いている隣の席の女子生徒の言葉に、新太は間の抜けた反応をする。女子生徒の方を見やると、彼女は新太を通り越したさらに隣の席に向かって指をさす。


「鈴木くんッ」


 彼女の焦った声に気づいたクラスメイト達が教室の前方に向けていた注意を彼の方へ一斉に向ける。


「うわっ。ほんとじゃん。鈴木、気づいてなかったのかよ?」


 新太も隣の女子生徒と同じく慌てた表情を浮かべて鈴木に声をかけた。


「え? 鼻血?」


 当の本人は自覚がないらしく、皆の注目を浴びていることに対してピンと来ていないようだった。


「鈴木、とりあえず保健室に行って様子を見てもらいなさい」


 自分の唇にまで垂れてきた血を指先で拭う鈴木に現代文の教師は指示を出す。


「桜守、念のため付き添ってくれ。ただの鼻血だといって馬鹿にできないことも多いからな」


 ついでに鈴木の隣の席の新太にも指令を出した教師は、ざわざわし始めた教室を鎮めようと一列目に座っている男子生徒を指差した。


「はい、ここ、一体何が読み取れると思う?」

「ぅえっ⁉ 俺⁉」


 突如として指名された彼は、後方から教室を出ていく新太と鈴木に気を取られていたのか急いで教科書のページをめくる。

 新太は取り急ぎタオルで鼻を抑える鈴木を横目に殺風景になった廊下を歩く。


 多くのクラスが教室の中で授業をしている今の時間、校舎の中には数百名の人間がいるはずなのにその気配を一切感じない。授業を抜け出す機会の少ない新太にとっては少し不思議な光景に思えた。

 保健室についた鈴木は早速止血の手当てを受ける。養護教諭曰く、鼻血が出ている原因に大きな問題はなさそうだが念のためこの時間はベッドで休んでもいいとのことだった。そのことを教室に戻って教師に伝えるまでが新太の役目となった。新太は、休めてラッキー、と笑う鈴木がベッドに寝転ぶまでを見届け、誰もいない廊下を戻っていく。


 今日は天気が良いからか、廊下から見える中庭に降り注ぐ陽の光が白に満ちて見えた。

 のんびりした外の陽気に照らされて、忘れていたはずの眠気が再び蘇ってきそうになる。

 欠伸をし、頭を振って気を取り直そうとする新太だが、眠気に負けそうになったのも束の間だった。視界に入ってきた渡り廊下を歩く猫背気味の人影に、彼の眠気は一気に吹き飛ばされる。


「瀬々倉先輩……?」


 自分に確認するように独り言をつぶやく。

 渡り廊下の向こうに消えていったあの背中。少し髪の長い彼の姿は滅多に目にすることがなくとも間違えるはずがない。三年の瀬々倉青央せせくらあおは、新太が入学したその時にはもう校内の有名人だった。すぐにその仲間入りをした新太とはまた違う。


 見かけだけで言えば青央はモデルのようで独特の魅力がある。一見すればクールな外見のせいか、人を引きつける力もあった。が、彼の評判は、どちらかといえばあまり聞こえのいいものではなかったからだ。あいつは喧嘩っ早い上に強いから厄介だ。あいつに勝負を仕掛けて勝ったやつは見たことがない。あいつはやばい薬を使っている。あいつに目をつけられたら終わりだ。


 新太自身も彼と直接話したことはなかった。向こうも新太のことを知っているとは思っていない。けれど初対面だろうとなんだろうと、新太は青央の背中を追いかけることに迷いはなかった。

 今や彼は、頼成の事件で透と同じく疑われている人間なのだから。


「瀬々倉先輩!」


 渡り廊下を途中で抜けたところにあるベンチに座る青央を見つけ、新太は凛々しい声をあげる。


「だれ?」


 案の定、気怠い表情をした青央は新太を見るなりそう答えた。


「二年の桜守新太です。あの、瀬々倉先輩、ですよね?」

「違うと思って声をかける?」

「いやっ。かけないです」


 開いた両膝にもたれかかっていた上半身を起こし、青央は鬱陶しそうに前髪をかきあげる仕草をした。新太の返事などさほど興味がないようだ。青央が髪を染めていることは明らかだった。彼は髪の毛とは違う色の、雄々しく上がった眉毛をひそめて新太のことを見る。


「俺に何か用?」


 近くで見るとやはり大人びた顔つきをしている。が、大学生に見間違える容姿から受ける印象とは異なり、彼の声は意外にも爽やかさの残る若い発声をしていた。


「あの……えっと。突然、こんなことを聞くのは失礼だと重々承知しているのですが」


 新太は彼の神経を逆なですることがないように慎重に言葉を選ぶ。

 青央は三年になってからは特に、あまり学校には顔を出していないと聞く。二年までは授業をサボることはあれど留年を免れる程度には学校に通っていた。卒業を控えた今の時期、彼が無事に卒業出来る条件を満たしているのかは後輩である新太にも謎だった。試験の成績自体は窮地に陥るほど悪いわけではないらしい。新太が青央に関して知っていることは、彼の素行があまり良くないということだけ。

 端的に言えば不良生徒に分別される。しかし実際に青央を目の前にすると、そんな一言で片づけてしまってもいいものかと迷いが生じる。


「頼成先生の事件、ご存知ですよね?」


 ぐっと覚悟を飲み込み、新太は本題を切り出す。

 青央の表情が若干険しくなったように見えた。新太は怯んでいる場合ではないと、彼に見えないところで拳を握って自らを鼓舞する。

 切れ長の瞳から発せられる視線は、そこに薪があれば一刀両断されてしまいそうなほどに鋭い。彼にまつわる噂話が脳裏に浮かび、新太は負けじと目に力を入れていく。


 瀬々倉青央は売人の息子な上に家族全員が薬漬けで、完全に狂っているから関わっちゃいけないよ。

 ある日校内に流れたセンセーショナルなゴシップは、新太が彼への警戒を高める理由としては十分だった。噂が広がる発端となった情報源は瑞希だ。彼の情報を誇張して噂が作られたことは承知しているが、瑞希はデマを流すことを一番嫌う。つまりは、どこまでが本当かは分からないにせよ、どこかの側面ではあながち間違いでもない話しなのだろう。

 瑞希と話す機会が増えた新太は、その重みを今になって思い知る。自分は今、彼のことをどのような目で見ているのか。客観視など難しかった。


「頼成が殺されたってこと? ああ。知ってるよ」


 青央はぴりぴりした新太の空気など気にする素振りもなく、あっさりとした態度で答える。


「二年の誰かが犯人なんだって?」


 学校に来ずとも校内の噂は彼の耳にまで届いているようだ。

 青央の悪気のない言いぶりが余計に新太の胸に突き刺さり、怒りの感情を刺激した。


「犯人じゃありません。っというか、まだ警察も捜査中ですし」


 どうにか冷静さを装う。それでも声には微かなざらつきが混じる。


「へぇ。早く犯人が見つかるといいな。警察なんてあてにならないけど」


 ため息の間を縫うように青央はかろうじて新太と会話をしてくれた。あまりにも感情のない態度を見せる青央は、頼成が殺されたというのにまるで興味がなさそうだ。透の話によれば、青央は頼成と話す機会が度々あったらしいのに。新太の気持ちが更にぐらついてくる。


「先輩、何か知らないですかね? 事件の日、先輩が職員室にいたっていう目撃情報があるんですけど。滅多に学校に来なくなってた先輩が、どうしてあの日だけは職員室にいたんですか? 偶然すぎません? まるで、事件が起こることを知っていたみたいだ」

「どうしてそう思う?」


 青央はぐつぐつと煮立ってきた新太の感情に気づき、せせら笑うように口角を上げる。


「職員室には保管庫がある。ロックはかかってるけど、先輩ならそんなのどうにでもなりそうだ。先輩は頼成先生と関わりもあった。だから、蜘蛛が弱点だってことも知っていたのも。人の弱みなんて手段を問わなければいくらでも分かる。先輩が先生と喧嘩しているような光景を見た生徒だって少なくない。暴言を吐いたことだってあるだろ? 理性が利かなくなるって、言うし。もしかしたら」

「俺が殺した?」


 青央が結論を急ぎ、新太は黙って頷く。薬物使用についての知識は新太も基礎的な物しか持ち合わせていない。だがその知識の中で思い描かれるのは、崩壊したダムが暴走するのと同じさまだった。


「保管庫の鍵には教師たちの指紋しか残ってなかっただろ。俺がわざわざ手袋してそんな面倒なことするかよ。そもそも、二年の奴が疑われてるのも鍵を失くしたのが悪いんだろ。例えそいつがやってなくとも、拾った誰かに使われる。共犯と何が違う?」

「透は違う‼」


 青央の蛇が這い寄るような淡々とした口ぶりに耐え切れなくなった新太は声を荒げた。


「確かに鍵を落としたのは迂闊だし、悪い。だがだからといって、あいつが共犯になるなんてことはない! 悪いのは犯人だ。論点を逸らすなよ」

「そうか? 頼成が死んだのは無関係だと思うのか?」

「ああ」

「へぇ。それならそう思ってればいい。頼成が殺されたのは必然だった、ってな」

「お前……」


 飄々とした青央の声色に新太の血管はちくちく痛みだす。


「頼成先生が殺されたこと、悲しくないのかよ。喧嘩する仲とはいえ、まったくの無関係な人間じゃなかっただろ? むしろせいせいしてるのか? 煩わしく言ってくる大人が一人消えたことを」


 新太の表情には憎悪が滲んでいた。ベンチに座ってこちらを見る彼の様子が腑に落ちない。頼成の事件は他人事にほかならない。そう言いたいような、我関せずの態度を貫こうとする姿勢に腹が立ったのだ。

 すると青央が、落ち着きを欠いた眼差しで新太のことを一直線に睨みつける。新太の嫌悪を読み取ったのだろう。


「あんた、未来について考えたことがあるか?」

「は?」


 すっくと立ち上がり、青央は長い脚を新太の方面に向けてつかつかと歩く。彼の質問の意図が分からず、新太は近づいてくる青央に対して困惑で歪んだ表情を浮かべる。


「俺に構ってる暇、あるわけ?」


 新太を鋭く睨んだまま、青央はそれだけ言い残して校舎の中へ消えていった。

 三年の教室がある方へ去っていく彼の背中を瞬きもせずに見つめる新太。

 青央の言葉が妙に耳に纏わりついてくる。新太はしばらくの間茫然としたままその場に立ち尽くした。

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