18 あこがれの
目覚まし時計の音が自分の身に脅威を与える日が来るなど、つい数日前には思いもよらなかった。
つんざくような音を止める。目覚めたことを誤魔化そうと頭から布団をかぶってもこの世界から消え去ることはできない。残酷な事実が分かっているからこそ、彼女は涙を流しながら身体を起こす。
繰り返す吐き気に抗いつつ、洗面台に向かって顔を洗う。もはやそこに彼女の意志など関係ない。身体が覚えているからだ。次にやるべきことが、思考がいくら拒んでも分かってしまう。
骨の髄まで馴染んでしまった朝の習慣のせいにするしかない。味のしない朝食を口に運び、身支度をして鏡の前に立つ。ここまでまったく、昨日までと同じ。
変化といえば、そこに映る自分の調子が毎朝ほんの少しだけ違うということだけ。すっきりした顔をした日もあれば、疲れが取れなくて目の下に隈が浮かんでいる日もある。
今日はどうだろう。
少しの期待を抱き、加賀は瞳に自分の姿を映す。
顔色は悪く、目つきはどんよりと沈みきっている。整えたはずの髪はしんなりと力がなく、艶も隠れてしまっていた。化粧では隠しきれない彼女の心情が丸見えだ。
鞄に入れたスマートフォンに愛する人からのメッセージが浮かび上がっても、彼女の心を賑やかすことは一切なかった。
玄関を開け、始まってしまった一日に足を踏み出す。
学校に辿り着くまでの通勤の時間も、今の彼女にとっては地獄へのカウントダウンでしかない。
校門をくぐればまた、無邪気なレッテルが加賀真唯に貼り付けられることは避けられないからだ。
校内を囁くいくつもの噂話から離れるため、透は昼食を手に校舎を出る。
外に出れば壁に囲まれていない分、人の会話があまり聞こえてこなくて都合がいい。
それでもまだ、誰かの話し声から逃れることは難しかった。
少しでも静かな場所を求め、透は校舎の周りをぶらぶら歩く。しばらく歩いたところで彼の足はぴたりと止まった。校庭近くに設置されたベンチテーブルに、サンドイッチを片手に雑誌を読んでいる芙美の姿を見つけたのだ。
「生天目、勉強でもしてるの?」
一人しか座っていないベンチテーブルには空席が三つある。透が声をかけると、芙美は雑誌から顔を上げて得意気に笑う。
「勉強っていうか、大学のパンフレットを見ていたの」
「へぇ。志望校、もう決まった?」
芙美は開きっぱなしのパンフレットを机に置き、立ったままの透を促すように空いている席に視線を向けた。
四辺を囲う椅子の一つを跨ぎ、透は昼食を机に置きながら腰を下ろす。
「まだ悩んでるの。目白くんは?」
「俺もまだ」
透が袋からがさがさとパンを取り出す様子を見ながら芙美は食べかけのサンドイッチを頬張った。
「行くにしても、奨学金を狙いたいけど」
「ふふ。目白くんは頭いいし、給付奨学金の枠に入れそうだね」
「どうだかな」
透は渇いた笑い声とともにパンの袋を開ける。
「それをいうなら、生天目も奨学金を狙えるんじゃないの?」
「うーん。それは無理かも」
透の言葉に芙美は小さく肩をすくめた。
「学校で事件が起きちゃったし。わたしは完全に無関係とも言い切れない。もちろん、殺してなんかいないけど」
「それを言うなら俺も同じだよ。やっぱ、勉強してどうにかするしかないかな」
芙美の自虐にクスリと笑い、透は彼女の方を見やる。
「そう言えばそうだったね。ふふ。じゃあ、疑惑の者同士勉強頑張ろうね」
サンドイッチを食べ終えた芙美はパンフレットに目を落としてほのかに笑う。
パンフレットにはキャンパス生活を楽しむ大学生たちの笑顔が並んでいた。それらを見つめる彼女の憧憬の眼差しに気づき、透は思わず言葉を忘れる。
彼女がインターネット上で危険な道を選んでまでも金銭を稼いでいるのは、今まさに彼女の瞳に映る夢を実現させるためのもの。そのことを思い出し、透は何かを言う前にちぎったパンの欠片を静かに口に放り込んだ。
「そうだ。疑惑といえばさ。加賀先生の話、目白くんどう思う?」
芙美はパンフレットにのめり込ませていた瞳を不意に透に向ける。
「先生の課金の話?」
「そうそう。皆、まさか加賀先生が課金狂いだなんて思ってなかったから。びっくりしちゃったのかな。加賀先生がお金遣いが荒いこと、恋人にバラされたくなかったから殺したのかもって噂が飛び交ってるでしょ?」
「加賀先生、まさに清廉潔白って感じのイメージがあったし。それが崩れたから面白がってるだけだろ」
透は誰もいない校庭を眺めながら私見を述べる。
「頼成先生が秘密を言うかもしれないって話も、先生にしてみれば先輩のことを想ってのことだろうし。もしそういう行動をとっても頼成先生を責めるのはちょっと違う。いくら自分を守りたくても加賀先生だってそれくらいは分かるはずだ。逆恨みなんてしなさそうだと思うけど」
じっと話を聞いている芙美の方を見れば、彼女はうんうんと何度も頷いていた。
「そうだよね。わたしもそう思う。だから、授業中も先生の背後で皆がこそこそ話してるのを見るのが辛くて。加賀先生、もうずっと冴えない顔したままだよ。絶望的なオーラが漂いすぎてて、声をかけるのもなんか気が引けちゃうし。大丈夫なのかな」
芙美は加賀のことが気がかりなのか、ぎゅっと心臓の前で拳を握りしめる。
「どちらかと言うと、大丈夫ではなさそうに見えるな」
「ええ……っ。そんなぁ……」
透の素直な感想を聞いた芙美は、がっかりとした様子で机に伏す。
「わたし、事件の犯人かもって疑われるようになってから、あることないこと勝手に言われることの絶望感を改めて知ったような気がするの。結局、誰も他人のことなんてどうでもよくて、知ったかぶりして満足しているだけなんだって思うと悲しかった。それにね」
芙美は机に頭を伏せたまま顔だけを透の方に向ける。
「加賀先生への憶測が広まったことで、みんなは頼成先生のこともよく分かっていなかったんだなぁと思うと、少し寂しい」
「どういうこと?」
芙美の哀しそうに下がった眉を見て、透はポカンと首を傾げた。
「あのね。実は、わたし」
ゆっくりと身体を起こし、芙美は大学のパンフレットを閉じて机の一点を見つめる。
「頼成先生に、裏垢女子のことバレてたの。きっかけは偶然だった。わたし、前に授業中にスマホをいじってたの。ファンからのメッセージに返信したくて。それで、頼成先生にスマホを没収されたことがあるんだ。まだアカウントも登録したてで、気を抜いてたわたしが悪い。通知の設定もデフォルトのままで何も変えてなかった。だから、没収した後に届いた通知が先生には見えちゃったんだよね。わたしが何をしているのか察した。それで、放課後、先生にすごく怒られたよ。スマホは返してくれたけど、今すぐにアカウントを削除しなさいって何度も言われた。でもわたしは言うことを聞かなかった」
「前に、頼成先生とはあんま接点ないって言ってたのに。随分な思い出だな」
透が呆れた声を出すと、芙美は「ごめん」と恥ずかしそうに小さくなる。
「先生にも知られてるってこと、気まずすぎて言えなかった。それに、もし、目白くんに言ったら、余計にわたしが犯人じゃないかって疑われそうで怖くて。本当にごめん、ね……?」
芙美の耳が次第に赤くなっていく。今にも泣きだしてしまいそうな彼女の声に、透は微かに息を吐きだす。
「いいよ。確かに、今じゃないときに聞いてたら俺は生天目を疑ってたかも。変に疑われるのは不快だ。その気持ちは無視できないな」
「………………ありがとう」
ちらりと芙美の瞳が透を捉える。呆れてはいるものの、透の表情に怒りは見えなかった。彼の落ち着いた様子に安堵を覚え、力んでいた芙美の目頭からは力が抜けていく。
「その時、わたしも、先生が誰かに告げ口するんじゃないかってハラハラしてた。でも、先生はわたし個人を気にかけてはくれたけど、誰にも言うことはなかった。カウンセリングを紹介されたり、バイトを一緒に探してやるって言ってくれたりもしたけど。だけど先生は、口が裂けてもわたしの秘密を守り抜いた。だから、先生は安易に人の秘密を広めるような人じゃないと思ってる。わたしはそのことを知っているけど、他の皆は……」
「そこまでは思ってない。だから、頼成先生が加賀先生の秘密をバラそうとするから恨まれたんだ、って仮説が見事に成立する」
「うん。先生は、すごくわたしに親身になってくれたから。だから、そんな噂が簡単に信じ込まれちゃうのが実は一番悔しいのかも」
芙美は目を伏せ、きゅっと口内を噛みしめた。
「もちろん、加賀先生のメンタルも心配だけどね」
顔を上げ、芙美は慌てて付け足すように弱弱しく笑ってみせた。
「確かに。これまでの学校生活とはがらりと変わって、加賀先生も参ってるだろうな。でも、自分の方は大丈夫なのか?」
「へ?」
突如として自分に話題を振られ、芙美は目を丸くして透と目を合わせる。透は真顔で芙美の表情を窺う。
「ストーカーにつけられてるんだろ? もしかしたら、ネットで生天目のことを知った奴かも。正体を突き止めて、生天目のことをつけてるんじゃないのか?」
透の真面目な口調に対し、芙美はピンポン玉のごとく軽やかに笑い返す。
「ああ。そのことね。大丈夫だよ! 問題ないって。ここ最近、ちょっと背後に違和感があることもないわけじゃないけど……でもっ、学校の近くだけでのことだし、家の付近では何もない。それに、わたし、護身術を習ってるんだよ。身体が弱かったから強くなりたくて。だからだいじょうぶ」
あっけらかんとした笑顔で気合いを入れる芙美。しかし透は納得がいかない顔で芙美をじーっと見つめ続けた。
「わたしのファンのこと疑ってたりする? それならなおさら問題ないよ。前に”洗剤さん”の話をしたこと覚えてる? あの人はね、過激な要求もなく純粋にわたしの活動を応援してくれてるの。風鈴さんに元気をもらえます、明日も頑張れそうです、って言ってくれるんだよ。わたしのファンは、そういう人ばっかりなの。アイドルを脅迫するような事件も世間にはあるにはある。でもね、まともなファンもいるの。わたしを応援してくれる人たちもそう」
「ただの金づるだろ」
「あっ! なんてこというの目白くんっ」
透が吐き捨てた言葉に敏感に反応した芙美は、身を乗り出して透に詰め寄る。
「わたし、目白くんにバレてからはすーっごく用心してるんだから。わたしのファンに濡れ衣を着せないで」
「それは失礼しました」
「なんでちょっと笑ってるの? 心配してくれてるのかばかにしてるのかどっちなの?」
「どっちも」
透がきっぱり答えると、芙美は机に置いていたパンフレットを手に取り大事そうに握りしめる。
「目白くんには分からなくてもいい。でも、わたしにとっては、大事な人たちなの」
芙美がぽつりと呟くと、彼女のポケットの中でスマートフォンが鳴った。
けれど彼女はスマートフォンに手を伸ばそうとはせず、数秒の間透に目を向け続けた。
控えめな様子でこちらを見つめる彼女の瞳の中に、透はあの日に見たステンドグラスの輝きが蘇ったような気がした。
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