17 つやつや、ビタミン
*
「あ」
ショーケースの中央に一つだけ残ったビタミンドリンク。オレンジ色のペットボトルの前で、二つの手がぴたりと止まる。
「なーんだ。ドラマとかならここで運命の出会いになるのに。がっかりだなぁ」
艶やかな爪先をゆっくりと引っ込め、芙美が少し残念そうな笑みを向けてくる。
「それはこっちもなんですけど」
伸ばした手を下ろし、透は芙美を見やって淡白に言葉を吐く。
「ふははっ。嘘だよ目白くん。だけど、一瞬だけちょっと期待したのが本音です」
芙美は背中で指を組んで前のめりになって透の顔を見上げる。彼女の笑い声でショーケースから漏れる冷気が微かに揺れた。
「休日なのに偶然だね。どこかお出かけ?」
「母さんに今度の職場のパーティーで何を着ればいいのかアドバイスが欲しいって言われて。買い物の付き添いの帰り」
「お母さまは?」
「仕事で呼び出された」
透は肩にかけた大きな紙袋を視線で示す。今日の戦利品を預けられたというところだろう。芙美は袋に描かれたブランドのロゴを見て「おおー」と目を輝かせる。
「生天目は?」
「お散歩だよ。今日はずっと部屋で作業してたの。疲れちゃったから気分転換しようと思って。目白くんもこういうジュース飲むんだね」
冷気の中に佇むオレンジの小さな塔を横目で見て、芙美は興味深そうな声を出す。
「夏期講習でも無糖のアイスティーばっか飲んでたからさ。甘いものは好きじゃないのかと思ってた。そんなもん、おこちゃまの飲み物だーって目の敵にしてそうというか」
「どんなイメージだよ」
芙美の勝手な言い分に透はたくましさすら感じて力なく笑う。
「カカオ八十二パーセントって感じ」
「意味わかんないけど」
透が思わず笑い声を洩らすと、芙美は姿勢を真っ直ぐに戻して改めてショーケースに向き直る。
「でもわたしもこのジュースが好きなんだよねぇ。今日一日はこれを買うんだって自分に言い聞かせて乗り越えてきたから。これ、他のジュースより少し値段が高いでしょう? だから、頑張ってる自分へのご褒美にって思ってたんだぁ。ほら、今日土曜日だし」
芙美は身体を左右に揺らしながらオレンジの輝きを見つめ続ける。
「じゃ、俺はこっちでいいよ」
芙美のドリンクへの意気込みを聞いた透は、その隣に並ぶパープルのドリンクを手に取った。
「えっ⁉ いいのっ?」
芙美の肩がぴょこん、と跳ねる。
「こっちの味は飲んだことがないし、お試しのいい機会ってことにするよ」
透がペットボトルのラベルを見ながら答えると、芙美は音を出さずに拍手をしてみせた。
「ありがとう目白くんっ。ふふ。これ、なかなか飲めないから、すっごく楽しみにしてたんだぁ」
「そんなに?」
「うんっ。わたしにとっての贅沢品。いいことがあった時にしか買わないの」
「へぇ。じゃあ、なにかいいことあった?」
「ふふふ。少しだけ、ね」
芙美は嬉しそうに頬を綻ばせながら魅惑のオレンジに手を伸ばす。透の視界に再び彼女の指先が映りこんできた。艶やかな爪を彩る華やぐ装飾にショーケースの照明が降り注ぐ。こだわりが見える愛らしい模様は、透の脳にやけに鮮明に印象づいた。
「その爪、自分でしたの?」
「えっ? これ? そうだよ。よく気づいてくれたね」
芙美は自分の爪を見下ろしてから透に瞳を向ける。嬉しかったのか、声が少し高くなったように聞こえた。
「気づくだろ。よくできてるな」
「関心した? 今度目白くんにもやってあげよっか?」
「自分でやりたいわけではないから」
透ははっきりと断りながら芙美とともにレジへ向かう。
「そっか。でも、気が変わったら、わたしはいつでも準備万端だからね」
「お気遣いどうも」
セルフレジにバーコードをかざす透の返事に、芙美はくすくすと愉快そうに笑った。彼女の笑みと、その手に散らばるビタミンな色彩を見やり、透の口元も微かに弧を描く。
*
つい先週見たばかりの芙美のネイル。
記憶に強く残った彼女の爪先を、透は忘れているはずがなかった。
今日の放課後に見た画像に写っていた女性の指先の煌びやかな模様。
こちらもまた印象的で、彼の脳裏に繊細に残っていた。
ベッドに座り込み壁にもたれかかる透は、手元にあるスマートフォンの暗い画面を眼球だけで見下ろす。
画面を点ければ、瞳孔に飛び込んでくるのはやはり見覚えのある爪。何度見ても変わりはない。恥じらいながらも下着を露出し、まるで見る者を煽るかのような姿勢をとっている女性の写真見つめ、透は瞼を伏せた。
彼女のアカウントに投稿されたその他の写真も、はっきりとは顔は写っていない。恐らく修正技も駆使している。中にはマスクをしたものもあるが、目元が髪で隠れて旨い具合に顔の判断がつかなかった。動画に至っては再生する気にもなれない。
「嘘だろ」
壁に預けた頭が鈍い音を立てる。頭と同じくらい重くなった透の心は鉛のように沈んでいく。
考えているだけではどうにもならない。
頭では分かっていてもなお、胸の内では歪な感情が渦巻いていた。
校内でも異質を放つ妖艶なステンドグラスの下で、芙美は自分を呼び出した透を見上げて首を傾げる。滅多に見る機会のないステンドグラスを眺める透の横顔は、光に照らされ長い睫が透けているように見えた。
「目白くん、用事ってなに?」
いつもとは様子の違う彼の雰囲気に耐え切れず、芙美は恐る恐る口を開く。妙な緊張感が全身を走った。
「生天目。俺さ……」
透の黒目がゆっくりと芙美のことを映していく。彼の瞳に映るいくつもの光彩に魅せられ、芙美は反射的に息をのみ込んだ。少しだけ体温が上昇する。
「これ。見つけたんだ。生天目。風鈴、って、生天目のことだよな?」
「え?」
手に持ったスマートフォンをそっと差し出し、透は画面に浮かび上がる画像を芙美に見せた。予想外の話題に、芙美は目を丸くして透のスマートフォンを奪い取る。食い入るように画面を見つめる芙美の身体が、次第にわなわなと震え出す。
「どうして……? 目白くん……だって……目白くんは、こういうの……」
「興味ないよ。特に今は。自分のことを認められるようになってきたところだから」
芙美の微かな声を塗り替え、透は強く肯定する。しかしそのことが余計に芙美の混乱を招いたようだ。
「だったら…………どうして?」
もはや彼女の眼には精気を感じなかった。小刻みに震える指先と連動して、彼女の唇は力なく開く。
「クラスメイトの奴に見せられた。裏垢系女子。ようは成人向けの投稿サイトだろ? こういうのを見れば、お前も目を覚ますだろうって」
「そんな。そんなの、ひどい、ね……」
芙美の唇の端が微かに持ちあがる。すでに彼女の中では何種もの感情が入り乱れ、どういう顔をしていいのか判断がつかないのだろう。透は芙美の手からスマートフォンを取り上げ、強固な眼差しを彼女に向ける。
「生天目。風鈴って名前で、投稿アカウントに登録してるんだろ? この爪、前にコンビニで見たのと同じだ。投稿日も同じ。生天目がデザインしたネイルを別人が同じ日にしてるなんて偶然、あり得ないよな?」
透の見解に芙美は黙って俯く。
「幸い、クラスメイトも今のところ生天目には気づいてなかった。俺もネイルがなかったら気づかなかったと思う。そもそも、投稿アカウントって未成年は登録禁止だろ。なんでそんなことしてるんだよ」
透の声は厳しかった。言葉の端々にやるせない怒りの感情が滲んでいる。
「登録は、従姉がしてくれた。……っていうか、頼んだの。登録したいから協力してって。従姉が地下アイドルにハマって大金を注いでること、おばさんたちには黙っておくって条件で」
俯いたままの芙美の声が静かに床に落ちていく。
「なんでそこまでしてやるんだよ」
従姉との事情を聞いたところで芙美が成人向けサイトできわどい投稿をしていることの理由にはならなかった。透は毅然とした表情を装って芙美の答えを待つ。本当のところ、気道が詰まって息苦しかった。けれど自分が取り乱してはいけない。透はそのことだけは忘れぬよう踏みとどまった。
「わたし、小さい頃に大病したの。お医者さんには長く生きられないと言われた。わたしは、薄っすらとそのことを知ってはいたけど、漫画とかドラマとか見て……もう少しだけ大きくなるまで生きていたいなって密かに願っていた。憧れてたんだ。きらきらした学校生活に。だから、もし治るのなら、絶対に高校は行きたいって思ってたの。当時は、叶うかなんてわからなかった。でも、どうにか退院できるようになって……」
芙美はそっと顔を上げ、透の胸元に目を向ける。それより上を見る覚悟はまだなかった。
「憧れてた高校に、行けるかもって希望が持てた。だけど、助かった分、医療費も凄くてね。両親は必死になって捻出してくれたんだ。だから、本当なら、わたし、学校に行ってる場合じゃない。働いて、家族に恩返ししないといけないの。でもね、みんなわたしのこと応援してくれて、大学にも行ってもいいんだよ、って言ってくれるの。でもそんなの、申し訳なくて……」
芙美はスカートを握りしめて悔しそうに頬を歪める。
「両親はわたしのために生活を切り詰めて、自分たちのことなんて後回し。わたしは二人の自由を奪ってばかり。わたしだって、学費を稼がなくちゃ、生活費を稼がなくちゃ、って思ってるの。だから、簡単にお金を稼ぎたかったの。それも、まとまったお金を。なら、自分を売るのが手っ取り早い。でも、そういう系のお店で働くのは、ちょっと危険かなって思って。正直、怖いし。それで、色々調べたら、成人向けの投げ銭サイトならそこまでリスクなく稼げるって知って……。記録には残っちゃうかもだけど、ネットなら身元もいくらでも偽れるし、加工も編集もできるからどうにかなるかもって思ったから……。投稿を始めてみたら思いのほか反応も良くて。びっくりするぐらいのお金が手に入った。意外とわたし、才能あるかもって。なんだか嬉しくなっちゃって……」
「だから続けてるの?」
「…………うん」
透の鋭い声に、芙美はこくりと頷いた。
「俺が男娼って噂されてたこと、知ってるよな?」
「……うん」
「俺のやつはただのくだらない噂だ。でも生天目がやってることは、ネット上とはいえ同じことだ。それ、分かってんのか?」
「…………………………うん」
「親や学校にバレたらどうするんだよ。現に、クラスの奴だって見るかもしれない。っていうか生天目と知らずに見てる。俺の噂やそれに対するあいつらの反応を知っていながら、どうしてこんな危険な道を選ぶんだよ。大金を稼ぐのは大変だ。でも、働く術はほかにもいくらでもあるだろ?」
透はできるだけ冷静に芙美を窘めようとする。だが、芙美はきゅっと唇を嚙んでから真っ直ぐに透の瞳を見上げてきた。
「だめなの‼ わたしにはもうこれしかない‼ ファンも出来て、ようやく軌道に乗ってきたところなの! 今更やめられない。やめられっこないよ‼」
芙美の表情に宿るのはあまりにも切ない覚悟だった。
「お願い目白くん。このこと、誰にも言わないで‼ 秘密にするって、約束して? わたし、もう引き下がれない。ここまできたんだもの。何と思われようと構わない。馬鹿だ、愚かだって罵ってくれてもいい。そんなの分かってる。分かってるけど、こうするしかないの‼ お願い。目白くん、お願い。これは、わたしの命綱なの。心配してくれるのは嬉しい。でも、もう、始めてしまったことだから……」
彼女の瞳が悲痛にもぐらりと揺れる。
「だから……っ! お願いします……!」
熱の上がった彼女の眼差し。そこに見える彼女の逃げ場を失った決意と寂寥に、透は何も答えられなかった。
次の瞬間、階下からけたたましく扉を叩く音が響く。
駆け出した自分を追いかける彼女の切羽詰まった声は、今でも耳にこびりついたままだ。
*
*
ドライヤーを止め、おおよそ渇いた髪に手櫛を通す。
何も整えていない髪は、量のせいか余計にぼさぼさして野暮ったく見えた。
鏡に映るひどく情けない自分の姿。
風呂に入る前に芙美との関係を危惧していた新太の顔が頭に浮かぶ。
彼の主張はおおむね正しい。
彼女のためを思ってした忠告が結局は彼女を苦しめることになった。事件の影響でうやむやになったままなのも、彼女にしてみればいい迷惑だ。
ドライヤーのコンセントを抜き、透は無造作に目を覆う前髪の下から自分を睨みつけた。
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