15 かえりみち

 「あーぁあ。先生の話を聞く度、なーんか不思議な気持ちになっていくなぁ」


 アスファルトに転がる小石を蹴り上げ、瑞希は斜め上に顔を向けて天を仰ぐ。


「先生のことを恨むようなやつ、さっぱり予想がつかないもん」


 瑞希が空に向かって独り言を呟くと、新太も同じように言葉をこぼす。


「人望もあったのに、なんでだろうな」


 学校で見てきた教師としての頼成と、鈴巻が語った過去の頼成の姿。そのどちらも大きなズレがなく、新太は瑞希と同じくさっぱり理解できないと主張する。


「分け隔てなく人に接して、困っている人を放っておけない。個人を尊重してくれるし、ちゃんと一人一人に向き合ってくれる。先生に救われた人、少なくないと思うんだけどな」


 些細なこととはいえ、新太も寝癖をポジティブに変換してくれた時には似たような感情を抱いた。透や、隣を歩く瑞希もまた、頼成には助けられたと感謝を述べている。難しい顔をして考え込む新太を横目に、瑞希はやれやれと言った感じで口元で呆れた笑みを描く。


「そんなに深く考えなくても桜守にだって分かるだろ。僕が桜守のことをあんまり好きじゃなかったのと同じだ。人気者だって、誰にとってもそうなるとは限らない」

「同じか?」

「大局を見れば同じだよ。僕は桜守のこと、八方美人の調子のいい奴って思ってたし。桜守が廊下で馬鹿みたいに大笑いしてるのが鬱陶しくてしょうがなかった。君みたいにはなれないって妬んでると言われればそれで終わりだよ。でもそうじゃなくて。僕は君たちがちやほやされてることが面白くなかった。ろくに勉強もせず、学校をただの遊び場だと思ってるように見えちゃってね」

「おいおい。なかなか言うなぁ」


 新太はあっさりとした様子で本音を語る瑞希のことを粘り気のある眼差しで見やる。


「僕は別に、桜守みたいになりたいとは思ってない。でもどうしてか、心のどこかでもやもやする。同じ空間に閉じ込められているからどうしても視界に入ってくるし。無意識のうちに、自分の滲めさが浮き彫りにされていく気がしてさ。自分のこと、惨めだなんて思っちゃいないのに。桜守みたいなのがいると頭が勝手にそう判断するんだ。それが嫌で、僕は君の顔を見るのが好きじゃなかった」


 瑞希は新太にどんな目で見られていようが気にしていないのか、アスファルトのヒビを軽くジャンプして避けた。


「だから先生がもし誰かに嫌われていたとしても。僕はおかしなことではないと思う。だけどやっぱり不思議には思うんだ。もし、そいつが僕みたいなやつなら、直接危害を加えるなんて面倒なことしそうにないのに。流石にさ」

「瑞希は物理攻撃はしない性質だもんな」

「うん。それよりも、じわじわと攻める方が長い時間相手の精神を拘束できるだろ」

「おっかないこと言うなよ。ってか、そういうことはするなって先生に言われたんだろ?」

「分かってる。だからもうやめた。ゴシップネタを校内に撒き散らすのにも飽きたところだし」


 後ろを歩く新太を振り返り、瑞希はニヤリと笑う。


「だから桜守も安心していいよ。いつか桜守の特ダネを掴んでやろうと思ってたけど。例え何かネタを掴んでも、バラすようなことはしないから」

「おう。それは随分と恩情があるな。どうして気が変わったんだ?」


 新太は軽快な調子で訊き返す。根拠などない。だがなんとなく、瑞希との間にあった見えない障壁が消え失せたような気がしたのだ。


「前も言った通り。案外いい奴だから。それに、馬鹿正直すぎてネタを広げたところでたいしてダメージもなさそうだし」

「なんだそれは」


 瑞希の答えに新太は渇いた笑い声を洩らす。


「頼成先生ももういない。僕を叱ってくれる人が去ってしまったんだ。だからこれからは、僕は自分で自分のことを律しなくちゃならない。だから、気を引き締めていきたい。情報はこれからも積極的に集めていく。でも、面白がって噂を流すようなことはもうしないよ。それが、先生が教えてくれたことだから」


 振り返っていた顔を正面に戻しながら、瑞希は控えめな声で決意を語る。新太は足を大きく開いて歩き、先を行っていた瑞希の隣に並んだ。すまし顔で歩く彼の顔をじっと見た後で、新太はぼんやりと口を開く。


「瑞希って、悪い奴じゃないのにどうして気味悪がられてるんだろ」

「はぁ?」


 瑞希の怪訝な目が新太のことを捉える。


「桜守。そんなの分かってるくせに。ほら、僕が加賀先生の課金癖のこと知ってるの、どうしてだろうって不気味には思っただろ? 皆は僕の観察眼が気味悪くてしょうがないんだよ。厄介なことに巻き込まれたくないのは当たり前のことだ。ただ、ゴシップは聞く分には楽しいから、外野でやいやい好き勝手言っていたいだけ。自分がターゲットにされるのは、まぁ、普通に考えて嫌だろ。そりゃ、避けられもするって」

「えー。でも、味方にしちゃったほうがよくね?」

「味方こそ、何かあって仲違いした時に余計にこじれるってば」

「そうかぁ?」


 新太が首を捻ると、少し横にずれた視界の先に見覚えのあるシルエットが入り込んできた。


「……ん?」

「桜守? どうしたの?」


 急に黙って一点を見つめはじめた新太につられ、瑞希もまた同じ方面を見やる。


「あれ? あれって、目白?」


 瑞希が思わず口に出した通り、二人の視線の先にいるのは学校帰りの透だった。しかし新太は、ただ透の姿が見えたから眉をひそめたわけではない。

 透の隣で、彼の肩よりも低い位置で長い黒髪が風になびいていたからだ。



 校門を出たところで、芙美は少し前を歩く背中に向かって駆け寄った。


「目白くん。今、帰りなの?」


 芙美に声をかけられ、透は耳につけていたイヤホンを外す。


「そう。生天目も?」

「そうだよ。ちょっと図書室で勉強してたんだ」

「へぇ。偉いじゃん」


 イヤホンをポケットにしまい、透は芙美と歩幅を合わせて歩き出す。


「あれからまた、警察の聴取を受けたりした? わたしは、あの後一回また呼び出されたんだけど」

「いや。指紋の話をしたっきりだ。動機が見つからなくて踏み込めないのかもな」

「そんな優しさ、警察にあるのかな?」

「さぁ?」


 芙美がくすくすと肩を揺らして笑うので、透は肩をすくめてみせた。


「目白くんと先生の間に何か問題はなかったかって訊かれたよ。でも分からないから、知りませんって答えといた」

「ほら。探ってる」

「ふふふ。しょうがないでしょ。鍵を落とした目白くんが悪い」


 芙美のからかいに、透は微かにため息を吐く。すると芙美の手の中でスマートフォンが揺れた。画面を開く芙美の隣で、透は彼女の手に糊付けされたようにいつもそこにあるスマートフォンを見やる。


「生天目、いっつもスマホ見てるけど何してんの? ちゃんと授業聞いてる?」


 文字を打ち込む芙美に向かって、透は素朴な質問をした。


「授業中はちゃんと鞄にしまってますー。でも、しょっちゅうメッセージが来るから、早めに返信してあげないと愛想尽かされちゃう」

「なに? 彼氏?」

「違うよ」


 芙美はニーッと柔らかに笑ってメッセージ画面を透に見せつけた。


「ネット上のお友だち。っていうか、ファンかな。わたしのこと応援してくれるから、ちゃんと離れないように掴んでいないと勿体ないでしょう?」

「はぁ……」


 芙美の得意げな顔とは真逆にうんざりとした表情をする透に対し、彼女はむっと頬を膨らませる。


「目白くんもネットで活動してみれば分かるよ。実体がない分、それ以上に答えてあげなくちゃ」

「画面の向こうに実体はいるだろ。互いに」

「そうだけど。そうじゃなくて。ライバルはたくさんいるんだから」


 芙美は素早くメッセージを送り、ぶつぶつと呟いた。


「ほら。この人、最近、すっごく熱心にメッセージをくれるんだよ。洗剤さん、っていうんだけど」


 相手のアカウントのアイコンをタップし、芙美は洗剤さんのプロフィールを表示させる。アイコンは名前通り、市販の洗剤のパッケージを撮影したものを使っているようだ。性別は男、専門職をしているということしか特に記載されていない。


「危なくないの?」


 透は怪訝な声で問う。


「ぜーんぜん大丈夫だよ。相手は皆、わたしが誰かなんて本当のところは知らないし。ちゃんと身バレ対策してますから」

「…………身バレ対策、ね」


 芙美の言い分に半ば呆れた反応をする透を見た彼女はスマートフォンを手中に収めて唇を尖らせる。


「そりゃあ、確かに。うっかりすることもありますけど」

「うっかりで済めばいいけどな」

「分かってるよ。ちゃんと気を付けるもん。目白くんだって、うっかりさん仲間の癖に。あっ。実は、本当に目白くんが犯人だったりしちゃう? それで、わざと鍵を落として捜査を混乱させているとか……⁉」

「何の意味があるんだよ。そんなことして」

「分からないけど。でも、実際、まだ目白くんは捕まってないし」


 芙美は人差し指の先を叩いて自分なりの推理に挑戦した。しかしその推理はすぐに透によって妨げられる。


「それを言うなら、生天目こそ実は犯人だったりしない? 踊り場に行く前に、少しくらいの時間はあっただろ」

「ええ? そんなの、動機がないじゃん」

「そうだなぁ。もし、先生が秘密のことを知っていたとしたら?」

「それなら目白くんのことも殺してる」


 透が流し目で芙美のことを見ると、彼女は両手を下ろしてぴしゃりと言い切った。


「そっか。じゃあ、俺が死んだら生天目のことを疑うようにしようかな」

「もう。つまんないこと言わないで。そういえば、桜守くんの様子はどう? まだわたしたちのこと疑ってる?」

「そりゃもう疑ってる。でも気にしなくていい。新太は口は堅いし」

「……そっか」


 芙美が俯き気味に返事をすると同時に再びスマートフォンが揺れる。透の視線も思わず音のする方向へ向かう。


「あんまり距離感を間違えるなよ。生天目」


 篤実な声で忠告する透に応えるように、メッセージを確認しながら芙美はこくりと頷く。その瞬刻、二人の背後で小石が踏みつぶされる音が響いた。音が聞こえた瞬間、芙美のスマートフォンを握りしめる手に力が入り、肩が小さく跳ね上がる。

 透が後ろを振り返っても、そこには誰の姿も見えない。ぎこちなく固まる芙美に違和感を覚えた透は、スマートフォンを持っていない彼女の右手にそっと手を伸ばした。

 指先に触れた彼女の手は痺れるほどに冷たい。透が柔く握りしめれば、芙美もおずおずとその手を握り返してくる。


「わたしより肌すべすべとか、ちょっと許せない」

「文句は受け付けない」


 透はそう言いながらちらりと背後に視線を向ける。やはり何の影もそこには残っていない。けれど先ほど感じた不審な物音が耳から離れず、透は腕を引いて芙美を少し自分の方に寄せた。


「目白くん」

「なに?」

「どうせなら、恋人つなぎ、しちゃう?」

「歩きにくいから却下」


 透が呆れ混じりに答えると、芙美はくすくすと控えめに笑いだす。

 ついさっきよりも温かくなっていく彼女の手の感覚。まるでその熱を冷ますように、二人の間に涼やかな風が通り過ぎて行った。



 視界の向こうへと消えていく二人の姿を茫然と見つめ、新太は神妙な面持ちをする。


「おやまぁ。こりゃあびっくりだ」


 隣で目の上に手をかざす瑞希は、口笛を吹いて彼らの姿を見送った。


「目白と生天目さんか。確か目白、別に女の子を完全に拒んでるわけでもないもんな」


 瑞希が妙に納得したような声で呟くと、新太は空気のような相槌を打つ。


「桜守。僕は心を入れ替えたって言った通り、このことを校内で流すつもりもないから安心して」

「わかってる」

「目白に迷惑かけるのは僕も嫌だしなー」


 そう言うと、瑞希は奇妙なステップを繰り返して道の曲がり角まで進んで行った。新太は止まりかけていた思考を稼働させようとぶるぶると頭を振り、深呼吸で新鮮な空気を取り入れる。


 その日の夕食の味を新太はあまり覚えていなかった。

 早々に食事を切り上げた透が部屋に去ると、新太はソファに座り込んで目についたゲームを手に取る。しかしゲームに対する意欲が湧き出ることもなく、ゲーム機はすぐに元の場所に戻された。


 ぐるぐると頭を巡るのは帰り際に見た透と芙美の姿ばかり。もし、二人が良い関係を築いているのならそれはいい。けれど両者ともに殺人事件に巻き込まれるという非日常を過ごしている最中だ。同じ境遇の者同士、吊り橋理論が発動しているというのならば。それはあまり歓迎の出来ない状況だと新太は考えていた。


 そもそも、事件の関係者として疑われている者同士が一緒にいることすら傍から見れば危険だというのに。

 新太は髪をぐしゃぐしゃと掻き、どうしたものかと頭を抱えた。右手で顔を覆い、思考を妨げる光の侵入を減らそうと試みる。すると。


「新太」


 渦中の透に呼ばれ、新太は迷える子犬のような目で指の隙間から透を見やった。


「え……っと。俺、先に風呂入るけどいい?」


 新太の苦悩の理由が分からない透は、彼の眼差しを見て少し戸惑いながらも風呂場を指差す。


「ああ。いいよ。いいけどさ……」

「けど、なに?」


 新太は開いていた両膝に手をガシッと乗せ、覚悟を決めた様子で透を見上げる。


「透、やっぱり芙美ちゃんと付き合ってる? 今日、帰りに手を繋いでるところを見た。それは別にいいんだけど……お前たち、今、大変だろ? あんまり浮かれたことはするなよ?」


 新太の精悍な姿勢にぽかんとする透は、風呂場を差していた指をへにゃりと下ろす。


「なに。新太、いつから探偵になったわけ?」


 そして呆れた目で新太を見ると、はぁ、と大袈裟に息を吐いた。


「だってさぁ! 透、結構あっさりしてるからさ。もしこれから芙美ちゃんが悲しむようなことがあったら、それは兄として事前に止めたいだろ」

「だから兄じゃないって」

「それはそうとして!」


 新太は膝に置いた手に力を入れて立ち上がった。脳裏に蘇るのは、ある日に見た月を背負う透の横顔だ。あの時も今も、目の前にいる透自身を受け入れる決心に変わりはない。


「とにかく。相手を傷つけるような言動には気をつけろよ? 透、結構無意識だし。それにお前」

「はいはい」

「おい。ちゃんと分かってるのか──」


 新太の追撃を避け、透はそのまま風呂場へ真っ直ぐに歩み出す。扉を閉めると新太の声もくぐもって聞こえなくなった。


「……はぁ」


 洗面台に体重をかけて寄りかかり、透は重いため息を吐きだす。

 瞳を上げれば鏡に映るどんよりとした自分の顔が待ち構えている。

 自分と目を合わせることが億劫になり、透は気持ちを切り替えるために服を脱ぎだした。

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