14 ふたりの距離感

 午後一番の体育の授業は他のどの時間より何倍も憂鬱だった。

 体育館中を包み込む熱気に押され、実際の運動量以上に疲労を感じてしまう。そこが少し前にいた場所と同じとは思えないくらいだ。


 更衣室のロッカーに手をかけ、瑞希は不快な汗が染みた衣服を脱ぐ。

 周りのクラスメイト達は、今日のバスケの試合で逆転ゴールを決めた生徒を崇めるようにからかいながら楽しそうな声を弾ませていた。

 彼らの輪に加わらない瑞希は大人しく制服のシャツに腕を通し、着々と支度を終える。次の授業までそこまで時間の猶予があるわけでもない。この無駄に急かされる時間割を恨みつつ、瑞希はロッカーをぴしゃりと閉じた。他の生徒はまだ支度が進んでいない。今回も一番乗りで更衣室を出られるはずだ。瑞希の胸に微かな余裕と優越感が宿る。

 ロッカーの前で戯れるクラスメイトを尻目に意気揚々と更衣室の扉へ向かう。しかし彼の思惑とは裏腹に、瑞希が扉に手を伸ばす前に目の前には外の世界が開かれた。


「おっ。瑞希、ちょうどいいところに」


 視界の中央を占拠したのは新太だった。更衣室の扉を開けてすぐ前に瑞希が立っていることに気づいた新太は、ラッキー、と笑いながら更衣室に足を踏み入れる。

 突然現れた新太に注がれるのは、瑞希のクラスメイト達からの驚きの視線だった。

 次に更衣室を使うクラスはなかったはず。そのことを認識している彼らにとって、学年で名を馳せている新太が前触れもなくやって来たことが意外だったのだ。おまけに新太の目的が瑞希だと分かれば、それはもう彼らの好奇心を刺激することは間違いない。


「なんだよ桜守。お前、次体育じゃないだろ」

「移動教室だからさ。通り道だし、ちょっと寄ってみた」


 周りからの視線をちらちら気にしつつ、瑞希は新太を廊下へと押しやる。新太は瑞希に押される間も飄々とした顔で笑っていた。


「目立つからやめろよ。僕に話しかけて、変な目で見られても知らないからな」

「別に俺は気にしてないけど」

「僕は気になるの。無駄な注目はもうたくさんだ」


 瑞希は半眼で新太を見上げ、むっと唇を結ぶ。


「それは悪い。でもちょっと確認したかったから。お前連絡先教えてくれねぇし。直接訊きに行くしかないだろ?」

「目白を経由すればいいだろ」

「それじゃ手間なんだよ」


 新太は参ったように笑いながら壁に背を預ける。加賀の一件以来、自分のことを好ましく思っていなかった瑞希との関係性も向上したと思っていた。けれど瑞希にしてみればそうでもないらしい。彼との間にこれまで特に問題を起こしたことはなかったはずなのに。新太はそのことをまだ少し気にしていた。


「今日の放課後、鈴巻さんに会いに行くけど瑞希、大丈夫だよな?」

「それが確認したかったの?」

「そうだよ。鈴巻さんだって仕事があるんだ。今日を逃したら次があるか分からない。だからちゃんと確認しておきたくて」

「ふぅん。うん、問題ないよ。ガーシュインカフェだよね。もちろん行くよ」

「そっか。ならいいんだ。邪魔して悪かったな」

「まぁ、いいけどさ」


 瑞希が肩の力を抜きながら答えると、背後から賑やかな声が溢れてきた。どうやら更衣室にいたクラスメイト達が大勢出てきたようだ。


「じゃあそろそろ僕も戻るね」


 塊になって教室へ戻っていく彼らの背中を見やり、瑞希は親指でいく方向を示す。


「ああ。じゃ、後でよろしくな」

「うん」


 瑞希とは違う方向に向かう新太に向けた視線を、瑞希はゆっくりと剥がしながら背を向けた。



 ガーシュインカフェは、叶山高校の近くにある古風なカフェだった。アメリカの偉大な作曲家であるジョージ・ガーシュインの音楽に惚れ込んだ店主が営む店内は、レコードや楽譜が所々に展示されている。流れる音楽は当然のことながらガーシュインをはじめとした華やかなアメリカン・ミュージック。

 クラシックの中にジャズの側面を持つ風合いの曲に合わせ、店の内装も落ち着いている。洒落た雰囲気に相反するように、気取らない価格で飲食を楽しめるこの店は、叶山高校の生徒にとっても馴染み深い場所でもあった。


 頼成も、よくメディア部の生徒を連れてこの店でともに議論を交わすことがあったという。

 透からその話を聞いた新太は、頼成の友人である鈴巻に少しでも彼の過ごした景色を知ってほしいと思い、待ち合わせ場所にここを選んだ。

 新太と瑞希は先に席を確保し、彼女が来るのを今か今かと待つ。新太のスマートフォンに鈴巻から連絡が来た数分後、彼女は店にやって来た。二人の前に座り、鈴巻は店内に漂う少し前の記憶を辿るようにして感慨深い眼差しで辺りを見回す。


「とてもいい感じのお店だね」


 正面に顔を戻した鈴巻は、そう言ってほんわかと微笑んだ。


「頼成先生も気に入っていたらしいです」

「らしい、じゃなくて、気に入ってました。よく僕たちにドリンクを奢ってくれたんです。ちょっと豪華なやつを頼むと、メディア室の掃除を頼まれちゃうんですけどね。でも、嫌な顔せずになんでも奢ってくれました」


 新太に補足してカフェでの思い出を話す瑞希に、鈴巻はクスリと笑って「英紀っぽい」と言葉をこぼした。


「彼が東泉さん? 初めまして。鈴巻です。高校で英紀と同じクラスだったの。今はフリーランスでデザインの仕事をしているわ」

「はい! 初めまして。東泉瑞希です」


 鈴巻が挨拶をすると、瑞希はぱぁっと明るい笑顔を見せて軽く会釈をする。


「今日はありがとう。前に学校に行った時に、英紀のことは気持ちに整理がつけられたかなと思ったんだけど。でもやっぱり、まだまだ知りたかったことばかりね」


 天井からぶら下がる花の形をした風情のあるライトを見上げた鈴巻は、情けなさそうに肩をすくめた。


「いいえ! こちらこそありがとうございます。お忙しいのにお時間いただいてしまって」


 新太はすかさず両手を小刻みに振って恐縮の仕草を取る。


「その後どう? 何か事件の犯人探しに進展はあった?」


 ちょうど運ばれてきたカフェラテに視線を移し、鈴巻は過ぎ去っていく店員にお礼を言う。


「少し探りを入れてみたりはしました。でも、やっぱり見当違いだったかもって……結局は堂々巡りです。何もヒントをつかめません」


 新太は目の前にあるアイスコーヒーのグラスを持ち上げて一口飲む。氷がカランと音を立てて唇に当たった。


「警察は校内にいた人物を怪しんでいるんです。あの時間、業者の出入りもなかったし、それに何より、メディア室に鍵をかけることを知っている人。つまりは学校のルールを熟知している人でないと思いつかない犯行だ。そう考える傾向が強いみたいで。実際、いくつかある監視カメラに怪しい人物は映っていなかった。いつもの学校の風景しか記録には残ってないんです」

「だけど僕は、校内の連中で先生の蜘蛛嫌いを知っている人ってそんなにいないと思ってる。とはいえ、先生だって完璧に蜘蛛嫌いを隠せていたかと言うと謎だ。僕だって気づいたんだから。でも、それなりに先生と付き合いがある人じゃないと知る機会はなかったと思ってはいるんですけどね」


 新太と瑞希はそれぞれ鈴巻に現在の状況を伝える。鈴巻はカフェラテを飲みながら真剣な眼差しで二人の声に耳を傾けていた。


「鈴巻さん。誰か先生のことを恨むような人間って心当たりありますか? 先生のこと、俺たちは校内での出来事しか知らない。でももしかしたら、犯人は外部の人間かもしれないと思っているんです。偶然、透が落とした鍵を拾って、頼成先生をメディア室に誘い込んだ、とか」

「そんな無計画なことするかなぁ。鍵が落ちているかなんて分からないのに。タランチュラまで用意する犯人が、そこを運任せにするとは思えないけど」


 すぐに瑞希が横から声を挟む。


「確かにそうだけど。でも最初は上手い具合に保管庫から鍵を調達する予定だったかもしれないだろ? それか、場所なんかどうでもよくて、たまたま頼成先生がメディア室にいたとか?」

「うーん。それもまた行き当たりばったりだな。学校なんてどこに誰が現れるのか予測がつかない場所なのに」


 瑞希は新太の見解に頬杖をついて考え込む。


「学校では、英紀と揉めているような人はいなかったのかな?」


 鈴巻が二人が頭を巡らせている合間に素朴な疑問を投げかける。新太と瑞希は同時に瞬きをし、先日の加賀のことを思い返した。


「いない、こともなかったんですけど……でも、少し微妙なところでして……」


 加賀が警察を断固拒絶していたことはまだ引っ掛かっていた。二人が加賀に接触した二日後、瑞希の読み通り警察が加賀を重要参考人として招集した。内情は明るみになっていないが、もし彼女が犯人であればもう少し動きが見えるはず。その割には、彼らの日常には変化が訪れない。

 新太は申し訳なさそうに視線を下げる。まだ他に怪しい人物はいる。だが学校になかなか姿を現さない彼は普段どこにいるのかも分からない。行き詰った新太は、今できることを探して外部に目を向け始めていたのだ。


「そうなのね。なかなか、尻尾が出て来ないものなのね」


 鈴巻は机の上で腕を組んで悲しげに笑った。


「鈴巻さん。頼成先生って、どんな人でした? 俺ら生徒にしてみたら、結構話しやすくていい先生だったんです。だから、なんで殺されたのかって全然納得できなくて。実際、先生って、恨みを買うようなこと、あったんですか?」


 改めて、新太は鈴巻に訊ねてみる。彼の表情にはもどかしさが垣間見えた。迷宮に迷い込んでしまったような沈んだ瞳。けれど決して、出口を諦めてはいない。鈴巻は新太をじっと見つめ、目元を優しく緩ませた。


「私、三年前に独立してフリーランスになったの。それからは自分のことに精一杯で、英紀と連絡を取る暇もなかなかなかった。とにかく必死だったから。でも英紀は、たまにメッセージを送ってくれた。調子はどうか、無理はするなよ、って。いつも通りのメッセージだったから、直近で彼の交友関係で何かあったのかなんて全く読み取れなかった。だから……ここ最近で何か問題があったというのなら、私はそのことを知らない。力になれなくてごめんなさい」


 鈴巻が瞼を伏せると、新太は慌てて首を横に振る。


「いえいえ! 全然! 気にしないでください。俺たちが勝手に訊いているだけですから……ッ」


 新太の必死な声を聞き、隣に座る瑞希は顔を彼の方に向けた。声と同じく新太の表情は畏まり、懸命さがさらに重なっていた。鈴巻は瞼を上げ、固くなった瓶の蓋を開けるようにゆっくりと口を開いていく。


「でもね。英紀は、人の恨みを買うようなことはしなかったと、私は思うの」

「……え?」


 新太の瞳が照明の光を取り込んだ。


「私と英紀は高校の時に同じクラスだったって、さっきも言った通り。私たちの学校は三年間クラス替えがなくて、一年の時に仲良くなってからは卒業までよく一緒につるんでた。私、生まれつき少し学習障害があったの。当時は自覚がなくて、診断もしてなかったから分からなかったんだけど。人と比べて、文字を書くことがとても苦手だった。板書も満足にできなくて、追いつけないうちに授業が終わる。もちろん成績も良くなくて、親からもお前が怠けているから駄目なんだって呆れられて、この感覚を理解してもらえなかった」


 鈴巻は窓の外に目を向け、通り過ぎていく叶山高校の生徒たちを眺める。


「高校に入ってすぐ、私が上手く文字をかけないことが周りにバレて、よくからかわれてた。小学校から地元で一緒だった中学とは違って、高校では皆が冷たく見えた。でも私も自分が出来ないせいだって思っていたから何も言い返せなかった。ずっと我慢して、勉強も、できない自分のことも嫌いだった。でも、夏休みが終わった頃。ある日突然英紀が前の席に座ってきたの。前の授業のノートが書き終わらなくて机に潰れていた私に向かって、英紀は自分のノートを差し出してきた。俺、結構ノート取るの上手いから参考にしろよ、って」


 当時の心情を思い出したのか、鈴巻は思わずクスリと笑う。


「それから、英紀は休み時間を削って困っている私にずっと付き添って授業の復習を一緒にしてくれた。実際、英紀のノートはやたら綺麗で、すごく分かりやすかった。テスト前にも必ず大事なところを教えてくれて、私は高校に入って初めて赤点から逃れられた。勉強はそこまで好きになれなかったけど、付き合い方もなんとなくつかめてきて。大嫌い、とまでは言わなくなったかな」


 窓の外を向いていた鈴巻の顔が二人に向かう。


「私が学習障害だってことも、英紀が一番に気づいてくれた。診断も受けて、学校側にも事情が伝わってからはぐっと過ごしやすくなった。両親にもようやく分かってもらえたし。だから私は、勉強を教えるのも上手だし、英紀は教師に向いてるよって冗談で言ってみたの。そうしたら英紀は、自分もそう思っていたところだ、って得意気に笑った。本当に教師になるなんて、その時は思いもしなかったけど。でも実際に学校で働き始めた時、英紀はすごく楽しそうだった。だから本当、良かったなって思っていたのだけれど……」


 鈴巻は額に手を当てて具合が悪そうに俯いた。


「まさか、こんなことになるなんて。英紀は学生の頃から人望もあったし、人に嫌われるようなこともなかった。だから……本当に、信じられなくて」


 鈴巻の瞳がじわりと潤む。声には怯えが潜み、彼女は新太たちから隠れるように顔を逸らした。


「少なくとも、私は英紀を殺したいと思うような人物に心当たりがない。学校で、彼がどんな風に過ごしていたのかなんて私には計り知れない。だけど」


 緩みかけていた涙腺に規律を取り戻した鈴巻は、きりっと眉を上げて改めて新太たちに向き合う。


「彼に殺される理由なんてない。それだけは、確信しているの」


 大統領就任宣誓の如く堂々と、確固たる姿勢で鈴巻は話を締めた。

 鈴巻が残りのカフェオレを見つめる中、新太と瑞希は互いに顔を見合わせて自分たちの知らぬ先生の過去に思いを巡らせる。

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