13 先生と先生

 化学の授業を受け持つ加賀真唯かがまいは、二十代後半のまだ若い教師だ。

 成人女性の平均以上の身長の彼女は、骨格が華奢なのか適正体重よりも細く見えた。肩より上で切られた薄茶色の髪は、毛先が微かに外側に跳ねているのが特徴的だった。


 担任を持つこともなく、部活の顧問もしていない彼女は、生徒たちにしてみても少しミステリアスな存在となっていた。清流を連想させる落ち着いた声は彼女に対する清楚なイメージを強調させ、独特の威厳を醸し出す。

 授業中も淑やかな佇まいを崩さない彼女の姿は、典型的な理想の大人の女性を思わせる。他の教師とは一線を画し、多少の厳しい指導をしたとしても生徒たちからの反発を生むことはなかった。


 それも、彼女が歩んできた経歴を皆が心得ているからかもしれない。

 難関の国立大学を卒業し、剣道での国際大会出場の経歴も持つ加賀に対し、受験を控えた生徒たちは気づけば尊敬の目を向けはじめる。

 困難に直面した時こそ、目の前にいる輝かしい存在の光がよりいっそう強く見えるものだ。

しかし多くの生徒から憧れられる加賀は、決してその立場に甘えることはなかった。常に謙虚で、自らの経歴を自慢したことなど一度たりともない。

 生徒のことを大事に想い、進路に迷った時や授業で分からないことがある時、彼女に相談すれば親身になって答えてくれた。


 生徒たちはそんな彼女のことを女神のように扱い、加賀の授業の時間を楽しみに待つ生徒も少なくはない。

 新太もその生徒の一人だった。

 得意科目の少ない新太ではあるが、加賀の教える化学はすんなりと頭に入ってくる。まるで自分の頭が良くなったような気分になれて、机に向かうことが苦に感じないのだ。

 だからこそ、瑞希から加賀の名前が出たことに新太は驚いていた。

 頼成とは歳も近いせいかよく一緒に話している場面を見かけることはあった。けれど亡くなる前の頼成と揉めるようなことがあったとは想像もつかなかった。

 瑞希の知る加賀の話を、実のところ新太はまだ完全に信用してはいない。


 職員室の扉を叩く瑞希の後ろ姿を見やり、新太はごくりとつばを飲み込んだ。

 瑞希に呼ばれて廊下に出てきた加賀は、いつもと変わらず艶やかな唇で優しく微笑んでいる。

 真実を知るのは本人だけ。

 信用ならないこともすべて、心を振り切るには真実を語る声に耳を向けなくては決着がつかない。


「少しお時間いいですか?」


 妙に軽快な調子で加賀に声をかける瑞希の言葉が、新太の緊張感を昂らせた。


「今日は残業はご免だから、あまり時間はないの。それでも大丈夫?」

「問題ないです! すぐに終わるはずですから」


 加賀の返事にぴしっと敬礼する瑞希の無邪気な笑顔を見た彼女は職員室の扉を閉める。


「何か分からないことがあったかしら?」


 通行の妨げになることを避け、加賀は細い黒縁の眼鏡をかけ直してから職員室の扉を離れて廊下の壁際に寄る。眼鏡をつけている日といない日があるが、加賀曰く、これはブルーライトカットのためのものらしい。


「はい。ちょっと気になる点がありまして、先生に訊かないと分からないんです」


 瑞希は臆することもなく話を進めていく。やけに生き生きとした彼の瞳に新太は若干たじろいだ。ジャーナリストが夢だと言っていたが、どうやらその想いは強いようだ。


「あら。何でしょう? 東泉くん、化学は選択していなかったはずだけど」


 加賀は前のめりな瑞希に少し戸惑いながらも頬に手を当てる。


「頼成先生の話です!」


 すると瑞希がわざとらしく語気を強める。偶然通り過ぎた別の教師が、瑞希の声が聞こえたのか不思議そうな顔をしてこちらを見た。


「頼成先生? 彼がどうかしたの?」


 一瞬の隙も見せず、加賀は流れるように会話を受け取る。


「加賀先生、もしかしたら事件のこと、何か知ってるんじゃないかと思いまして」


 彼女に負けず劣らず、瑞希も一切引くことなく本題を切り出した。加賀の笑顔が微かに歪んだことに新太は気づく。


「何か、ってなにかな? 東泉くん、記者の真似事をするのもいいけど、根拠もないのにそんなこと人に言っちゃ失礼よ?」

「根拠はあります。でも、自信がないから、先生に直接訊きたいんです」


 瑞希がハッキリそう言うと、加賀は辺りの様子を気にして目をちらつかせた。幸い、人の往来は少ない。


「きっとまた、勝手な憶測か何かじゃないの? 東泉くん、そういうことばかりしているから周りから浮いちゃうことがあるのよ?」

「浮いててもいいんです。その方が、色んなことが見えますから」

「はぁ、まったく」


 大きなため息を吐いた加賀は、やれやれと首を回す。


「とにかく、ここでは話せなさそうね。こっちにいらっしゃい」


 くるりと踵を返した加賀に手招きされ、新太と瑞希は目を見合わせる。彼らの返事を聞くこともなく歩き始めた加賀が向かった先は進路指導室だった。前にここで透が聴取を受けたことを知っている新太は、少し苦い顔をして部屋に入る。


「それで? 東泉くんの言う根拠って?」


 部屋に入るなり、加賀は腕を組んで二人を振り返った。扉を閉めた新太は、彼女の眼鏡の奥に見える瞳の色が濃くなっているように錯覚する。


「加賀先生、頼成先生が殺される少し前にちょっと揉めてましたよね?」

「なんのこと? いいがかりは勘弁してよね」


 加賀の声がどこか冷たく感じる。だが瑞希が引くはずもなく、むしろ彼の闘志には火がついたようだ。


「言いがかりじゃありません。僕、見かけたんです。前に部活で遅くなって、頼成先生に鍵を返しに行った時。職員室には先生たちしかいなかった。そこで、話してましたよね」


 すらすらと、つい昨日見た出来事を語るように瑞希は饒舌になっていった。


「加賀先生はゲームにハマっていて、課金に費やすお金が凄いって話。いわゆる廃課金ってやつですか? そのことを頼成先生にギャンブル依存症だと窘められて、加賀先生はかなり怒っていた。そんなわけない。人の財布事情に口出しするなって。少しずつ控えた方がいいっていう先生のアドバイスも頑なに認めなかった。でも、その時はきっと、ただ同僚に金遣いを注意されただけのことって、加賀先生もそこまで気にしていなかったはず」


 瑞希の話を加賀も新太も黙って聞いていた。新太はすでに瑞希から聞いた話だったが、やはり加賀の反応が気になった。けれど加賀は、瑞希のことを真っ直ぐに見つめたまま表情一つ変えずに唇を結んでいる。


「先生も、どこかで課金をしすぎているかもって心では思っていたはず。だから頼成先生に改めて言われるのが嫌だった。もし気にしていないなら、そこまで怒ることもないですもんね」

「ええ。確かに頼成先生は私のことを気にかけてくれた。あの時は私も機嫌が悪かったから、少し言い合いになってしまったけど。でも、だからといって私が先生のことを殺したと思ってる? よくある喧嘩一つで人を殺すほど、私は冷静さに欠ける人間ではないけれど」


 加賀は腕を組んだまま鼻先で息を吐く。瑞希の推理に少し呆れているようにも見えた。しかし瑞希は唇の端を持ち上げ、待ってましたとばかりに口を開く。


「それくらいでは殺しに至らないと、もちろん思っています。でも僕が確認したいのはこの先ですから」

「先?」

「はい!」


 一体何を言っているのかと、加賀は眉間に皺を寄せる。


「加賀先生が今お付き合いされている人。外資系に務めるエリートで、確か実家も裕福な方でしたよね」

「はい?」


 瑞希の言葉に、加賀は明らかな不快を示した声を出す。


「ついこの間、海外勤務から休暇で一時帰国されていたはず。もちろん先生もご存知ですよね? その時、先生は思わぬ事実を知ることになった。その人が、頼成先生の大学の先輩だってことを」


 光を取り込まなくなった加賀の瞳が刹那に新太を見る。新太は隠した拳で彼女に抱く疑惑を握りしめた。


「先生はその人との将来を考えている。だけど、お相手は実家の教えもあってか金銭感覚をとても大事にされている方みたいですね。先生の課金事情をその方は今のところご存知ない。だけど、大学で親しかった後輩である頼成先生とその方の間にはまだ縁がある。もし、頼成先生が加賀先生の秘密をお相手にバラシでもしたら……。それは、加賀先生にとって好ましくないことですよね?」


 瑞希のことを見る加賀の表情は険しかった。勢いで瑞希の胸元を掴んでもおかしくはないくらいに加賀の眼差しには余裕がない。新太は思わず一歩前に出る。


「先生。先生は教師だから、当然鍵を自由に持ち出せますよね? それに、先生は部活も委員会も見ていないから、放課後のアリバイがない。他の先生に確認したんですけど、加賀先生がどこにいたのかは知らないって言っていました。その、俺たちだって、先生を疑いたいわけじゃない。でも、少しのきっかけでも掴みたくて。もし、先生が何か知っているならと──」


 思いが高まるあまり、新太は気づけば瑞希よりも前に出てきていた。目の前に対峙する加賀は、近づく新太を牽制するように澱んだ声を上げる。


「警察には言わないで‼」

「え?」


 新太に詰め寄り返す形になった加賀はそのまま扉まで新太を追い詰めた。後ずさり、扉に頭を打った新太。眼下に見える加賀の憤怒の形相に思わず喉仏が波打つ。


「頼成先生とは確かに厄介な縁があった。でも、だからと言って人間として彼のことが嫌いなわけじゃない。課金のことをバラされるのは勿論避けたい。だけど頼成先生はそんなことはしないって私だって分かってる。ただの一同僚として、先生は私の課金癖を心配しただけ。それ以上の干渉をするような人じゃないって、これまでの付き合いで把握できるわ。ただの同僚を殺す必要なんてないでしょう」

「それなら、どうしてそんなに」


 警察に揉めていたことを知られたくないのか。

 新太は加賀の心理が理解できずに表情に困惑を滲ませる。


「警察が新たな容疑者を求めてるって、知ってます?」


 瑞希が加賀の背後から意味深な声をかける。加賀は、ゆっくりと瑞希の方を振り返った。続けて新太が口を開く。


「今のところ、状況から言われている有力な容疑者は生徒たちだけ。だけど教員の中で唯一、アリバイが取れてないのは加賀先生だけです。他の教師も皆、それは証言しています。先生がどこにいたのか分からないって。恋人まで頼成先生とゆかりがあるのであればなおさら、疑惑の目からは逃げられないと思います」


 瑞希の方を向いたままの加賀の頭が微かに下へ傾いていった。


「僕は、頼成先生が蜘蛛嫌いだったことを知っていたと警察に白状しました。深入りされて、変な先入観が入る前に。もし、先生も犯人ではないのであれば、正直にすべてのことを話した方がいいと思います。先生のアリバイがないことは知られてる。じき、先生にも警察から連絡がいくはずです」


 瑞希は声のトーンを落として加賀を諭すように静かに告げる。彼の瞳は少し寂しそうだった。瑞希が口を閉じたのを見て、新太は微かに息を吸い込む。


「加賀先生。潔白なら、逃げるのを止めた方がいいと、俺は思います」


 頭に浮かぶのは透の姿だった。彼は堂々とし過ぎているほどに落ち着いている。もう少し慌ててもいいと思うくらいに。が、だからこそ新太は透のことを疑う余地などなかったのだ。恐れはあれど、逃げの姿勢など一斉見せない彼の態度が新太の疑念を刈っていく。


「真実は、他人には語れません」


 新太の切なる呟きが加賀のつむじにぽとりと落ちた。

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