4 目白と桜守

 講堂を出ていく生徒たちの背中には覇気が欠けていた。

 すっかり気落ちした空気が校舎内に広まっていく中、彼らを気遣うようにカウンセリング案内から変わって洋楽が校内放送から流れてくる。歌詞の意味は、ぱっと聞いただけでは分からない。放送部員か教員か。悲しい曲ではなく明るい曲調のものを流すあたり、どうにか気分を励まそうという気概だけは感じた。


 新太は友人たちの一歩後ろに下がって教室に向かう。全校生徒が校舎内を一斉に蠢き、思うよりものんびりとした足取りが続く。二限目は各クラスで自由時間を設け、三限目から通常の授業が始まる予定になっていた。頼成の代理教師は校長が週末のうちに確保を済ませたようだ。冷酷にも思える迅速な対応は、校長なりの生徒たちへの配慮なのかもしれない。


 ただ、校長や他の教員たちがいくら望んでも、校内を流れる異様な空気は簡単には拭えそうにない。学校で殺人事件が起きてしまったからには警察の調査もまだ続く。教師に混ざって校内を行き来する大人たちの姿に生徒たちが無関心でいることは難しかった。


 新太もまた、教室へ向かう廊下の途中で見かけた見慣れない大人の顔に眉をひそめる。彼の場合は他の生徒とは違い、その瞳には警戒が宿っていた。講堂で聞いた透の鍵の話と、自宅で彼がミントグリーンのキーケースを鞄に入れていた姿が頭の中で交差する。

 事件の日、透は問題ないと言って平常のままだった。しかし透が鍵とメディア室の関連性について知らないはずがない。新太はそう確信し、見事に平静を装ってみせた彼の姿に対して微かな苛立ちを自覚する。


「目白ー。校長先生が呼んでる。ほら」


 いくつもの頭が行き交う廊下で、一際背の高い教師が一人の生徒を呼び止め手招きした。体育教師を務める男教師に名を呼ばれた生徒は立ち止まり、流れに逆らって踵を返す。

 透が一直線に歩く道は、モーゼが手を挙げたかのように見事に人波が割れていく。好奇と不安が混ざった多くの双眼で見つめられてもなお、透は何も気にしない様子で自身の行く先を目指す。

 透よりも前方を歩いていた新太は、目白と呼ばれ去って行った彼の背中を首を長くして捉えた。


 目白透のことを初めて認識したあの時から、周りの生徒たちよりも少し達観した雰囲気を放つ彼の印象に大きな変わりはない。両親が再婚し、兄弟となった翌日もえらく冷静だった。透は体育教師に合流して何かを話している。

 足を止めたままの新太から、彼ら二人の姿はどんどん遠くなっていく。廊下を曲がって透と教師の姿が消えると、時が止まっていた生徒たちもまた、ざわざわとした喧騒を抱えながら再び教室を目指す。


「桜守、さっさと戻ろうぜー」

「ああ」


 なかなか歩き出そうとしない新太に気づいた友人たちが、少し先で彼のことを呼ぶ。来た道を振り返ったまま固まっていた新太は、軽く返事をして視線の向きを戻した。

 開きっぱなしの窓から吹いてきた風が髪を乱せば、新太の脳裏に、ある日の記憶が蘇ってくる。懐かしい日を脳の片隅に追いやり、新太は仲間たちのもとへ足を速め、ふざけた調子で彼らと肩を組んだ。



「目白!」


 数学の教師に呼び止められた透は手に持っていた教科書を脇に抱えて振り返る。


「あ! そうか違うか! 悪い悪い。目白じゃなくて桜守だったか」


 透の目の前まで来た数学教師は、やってしまったとばかりに手の平で額を打つ。しかし透は、懺悔など必要ないと言わんばかりにほのかに口角を持ち上げた。


「いや、いいんですよ先生。俺は目白で」

「えっ? いいのか? でも目白、お前、名前だって変わったんだろ?」


 数学教師は目をぱちくりさせて首を捻る。


「戸籍上は変わりました。まぁでも。戸籍の名前よりも俺だって分かる方が大事でしょう? だから俺は、目白透でいいんです」

「そうか? なら、目白。この後の授業なんだが──」


 職員室のすぐ近くで話している彼らの姿を偶然見かけた体育終わりの新太は、こめかみを流れる汗をタオルで拭きながらそんな会話を耳にした。

 彼、目白透とはつい先日同じ家に住むようになったばかりだった。学校ではあまり関わりのなかった二人だが、透のさっぱりとした態度は自宅でも学校でも同じだった。よく言えば裏表がない。悪く言えば、少し愛想に欠ける。


 新居に引っ越した時もそうだ。幼い頃に母を亡くしてから父親と二人暮らしでやってきた新太は、ボランティア活動で知り合ったという女性と父が再婚することを心から喜んでいた。

 交際している時から透が相手の女性の息子だということは知っていた。だからといって学校で話をすることもそこまでなかったが、接点のなかった二人にしてみれば思いがけない共通点となった。

 親同士の仲に干渉するつもりもなかった。当時の透と新太の関係の変化も、せいぜい挨拶くらいはしておこうという認識になったくらいだ。

 まさか本当に再婚まで漕ぎつけるとは思わなかったが、その時の二人の表情がとても幸せそうだったことを思えば、喜び以外の感情など湧いてこなかった。隣に座っていた透が何を思っていたのかは分からない。透の表情など一切確認せず、飛び上がって二人に抱きついたことしか覚えていないからだ。


「うわ。ほんとにいる」


 新居に越した春の終わり。都合上、先に引っ越しを済ませていた新太の姿を居間で見るなり透が言い放った言葉は冷ややかなものだった。

 顔を上げれば、私服姿でゲームをしていた新太を見下ろす透が顔をしかめていた。恐らく、両親が再婚して同級生と同居することになる実感がまだ湧いていなかったのだ。

 新太自身もそれは同じで、頭の中だけで想像していたことが現実となり、制服姿しか知らなかった彼が段ボールを持って目の前に立っている事実をなかなか受け入れられなかった。


「桜守。俺たちの部屋って隣なの?」

「いや。隣は物置があるから、そういうわけじゃない」

「そっか」


 淡々とした調子の透は、階段を見上げたまま黙ってしまった。後になってから思えば、段ボールに入った物が重くて運ぶのが億劫に感じていただけだったのかもしれない。しかしその時、新太の胸の中で透に関するある疑惑がざわついた。

 手に持っていたコントローラーに汗が滲み、思わずごくりとつばを飲み込んでしまう。

 一瞬にして新太の全身を包み込んだ妙な緊張感が、背を向けかけていた透にまで波及する。


「なに?」


 怪訝な眼差しで新太を振り返る透。新太は崩していた姿勢を慌てて正してソファに座り直す。


「べっ。別に……なんでもねぇよ」

「嘘が下手すぎなんだけど。逆に馬鹿にしてんの?」

「ちげぇよ。ちょっとその、ゲームがミスってばっかなだけだよ」


 ぎこちない声の新太に対し、透は肩を落として大袈裟なため息を吐く。


「言い訳も下手とか。馬鹿正直なところが桜守の長所なんじゃないの? 無理して嘘つくなよ」

「はぁっ⁉」


 思わずゲーム画面から目を離し、瞳を見開いて透を見上げる。次の瞬間にはゲームオーバーを告げる音が流れてくる。これまでの数時間が無駄になった。が、新太はそんなことは気にも留めなかった。


「動揺して当たり前だろ⁉ そりゃ父さんと目白の母さんの再婚は歓迎してるよ⁉ でもだからと言ってさぁ! まさか目白と同居するとは思わないじゃん⁉」

「俺たちまだ高校生なんだから予想ぐらいできるだろ。昨日今日で決まったことでもないし」

「そうだけどさ。お前、だって……」

「何? もしかしてあのこと気にしてんの?」


 言葉を濁す新太のことを、透は冷めた瞳で見下ろす。


「言っとくけど、俺にだって友情と別の感情を使い分けすることくらいできるから。もしかして、そんな分別もつかないと思ってる? こっちにだって選ぶ権利があるんだけど」

「いやっ。そういうわけじゃないけど」

「そういうことでしょ。でも、まぁ、安心して。気になるなら風呂場とかで顔を合わせないように気を付けるから」

「えっ? いや、違う違う。ほんとに違うって!」

「いいよ。無理に慣れて欲しいわけじゃないし」


 立ち上がって透を止めようとする新太を横目に、透は段ボールを抱えたまま階段を上っていく。


「なぁ! 誤解だって! 悪かったよ! おい! 目白、本当に悪かった……‼」


 すかさず階段の下から大声で呼びかける新太。しかし透は足を止めることなく部屋に消えてしまった。追いかけようとしたところ、父に家具の配置換えに駆り出され、新太は悶々とした気持ちのまま台所へと向かう。


 直前に見た透の、すべてを諦めたような瞳が頭をちらつく。

 透と同居するようになったその日、新太は彼に勝手な印象を抱いていた自らの愚かさを省みて彼と正々堂々とした兄弟関係を築くことを決意した。

 一人でいる時間の長かった新太は、本当のところ兄弟が出来ることに密かな期待を抱いていたのだ。

 忘れかけていた希望を思い出し、新太は心を入れ替えていくよう気合いを入れ直した。

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