5 満月だった夜に

 目立つ生徒の一人だった新太が透と兄弟になったことはたちまち校内の話題となる。まだ家族四人の生活に慣れていなかった新太は、クラスメイトにからかわれる度にはぐらかす日々が続いた。おかげで、少しはからかわれることにも慣れてしまったものだ。


 しかし、執拗に新太の家族に興味が向けられたのは彼が話題の生徒だからという理由だけではなかった。

 新太とは対照的に、透は成績優秀だが普段はとりわけ目立つことのない生徒だった。交友関係も主に部活動だけ。その割に、透は他の生徒よりも一目置かれる状況に置かれていた。高校一年の春先に起きた事件が、好奇心旺盛な生徒たちの記憶に鮮やかに刻み込まれてしまったせいだ。

 透が別の生徒と一線を画したきっかけとなった事件が、彼のイメージを確立させた。透と兄弟になるまでは、新太もそのイメージでしか透のことを認識していなかったくらいだ。


 新太が学校でそれなりの地位を築く礎となったはじまりは、女子生徒からの熱視線を浴びたことだった。特にインフルエンサーでもある先輩生徒に気に入られたことは大きかった。高校入学前にぐんと伸びた身長と、暇つぶしで鍛えた贅肉のない肉体が功を奏し、持ち前の愛嬌とともに新太は必然的に注目の的となった。

 成績がそこまで優秀というわけではない。けれど身体を動かすことが好きな彼は、その辺りを運動神経で補っていた。だが何よりも人を惹きつけたのは、誰に対しても分け隔てなく接する彼の屈託のない人柄にほかならない。


 順調な学校生活を送ってきた彼も、二年になってからは初っ端から挫いた透との関係に少し不安を抱いていた。引っ越し初日、新太が透に対して向けた眼差しは、謝ったところで記憶が消せるわけでもない。透は気にしていないと言う。だが新太の胸には罪悪感が蔦のように絡まりつき、ぐんぐん蔓延っていった。

 透とのわだかまりがすっきりしないまま、高校生活二回目の夏休みが目前に迫ってきた。

 ある日、新太は試験終わりを祝うために開かれた友人主催のパーティーを抜け出し、一人夜風に当たってのぼせた顔を冷ましていた。もうパーティーに戻る気分にはなれそうもない。けれど家に帰れば透の素っ気無い反応が待っている。それではいずれにせよ気は休まらない。


 透と暮らして一か月以上が経っても、新太は気まずさから彼と顔を合わせることを怖がっていた。

 いくら心を入れ替えても、透に話を聞く気がないのでは意味がない。せっかく家族になれる機会を、自らで棒に振ってしまった気分だ。行き場を見失った新太は頭を抱えて大きなため息を吐いた。すると。


「なんだ。変な酔っ払いでもいるのかと思った」


 涼やかな声が頭上に降ってきた。ブロック塀にもたれてしゃがみ込んでいた新太は顔を上げて声の主を見やる。

 満月の輝きの下で呆れ顔をしていたのは透だった。月の光が明瞭で、夜なのに逆光のようで一瞬誰かは分からなかった。彼は学校帰りなのか、校内で見かける時と同じ風貌で新太のことを見ていた。


「なんだよ。随分遅いな。自習でもしてたのか」

「部活だよ。俺、メディア部に入ってるの知らない?」

「ああ。そういえばそうだった」


 新太は透から顔を逸らして真っ直ぐに前を見据える。まだ顔は熱を持っていた。暗がりとはいえ、近くに街灯があるこの位置では透にその表情を見つけられていたのだろう。


「何? 酒でも飲んだの?」


 明らかな不快を顔に表し、透は眉をひそめた。


「酔っ払いに見えるのか?」

「さっきも言ったけど、見えるから聞いてるんだよ」


 夜風が頬を撫でる。真夏の訪れが近い今は、思ったよりも熱を冷ましてはくれない。


「飲んでないよ。いや、むしろ飲めた方が良かったのかもしれないけどさ」


 頭をくしゃりと掻き、新太は立てた両膝に腕を乗せて空を仰ぎ見る。


「生徒ランク上位軍はもう夏休みのつもりなの? 随分とお気楽だよね」


 透が見ている先には煌々とした明かりを放つ一軒の飲食店があった。どうやら貸し切り営業をしているようで、賑やかな音楽が離れていても漏れて聞こえてくる。透は陽気な店の空気に肩をすくめた。


「あそこ小笠原先輩の知り合いの店だよね、確か」

「そう。先輩主催のパーティーだ。断れるわけないだろう」

「断る気もないんでしょ?」

「そうだけど。でも、やっぱ……」


 空を見上げていた顔を一気に胸元まで下げ、新太は盛大に息を吐く。


「ダメだあ……! やっぱり俺、できないよ」

「は?」


 突然項垂れて弱音を吐きだした新太のことを、透は不審者を見るような目で眺める。


「俺、酒とか飲めないんだ。アルコールに弱くてさ。でもパーティーでは当たり前のように皆飲めるんだ。チャレンジしてみたこともあるけど、どうしてもすぐに吐きたくなる。それに、女子にも幻滅されるし」

「話が見えない。どういうこと?」


 情けない声で嘆く新太に対し、透は疑問符ばかりを頭に浮かべる。


「だから! 俺は酒が飲めないの。そのことを皆バカにしてくるんだよ。もちろんふざけてるのは分かるけど。酒が飲めることの何が偉いんだよ」

「そもそも二十歳じゃないけど、俺たち」


 透は渇いた相槌を打つ。


「で。女子に幻滅されるって、何?」


 しかし話の続きは気になったようだ。


「そのままだよ。俺、恋愛関係についてはだいぶ疎いんだよ。っていうか、ちょっと怖い」

「怖い?」


 透が先を急ぐと、新太が恨めし気な視線を送ってくる。透は微かにため息を吐き、新太の隣に並んで座り込む。


「怖いってなんだよ。新太、いっつも女子に追いかけられてるのにさ。それに新太も笑顔で楽しそうじゃん」

「それは、相手に嫌な思いをして欲しくないからだよ」

「気遣いできる余裕まであるのに、何が怖いの?」


 透の顔が新太の方へ向く。新太は前を向いたまま、もごもごと唇を結んだ。


「…………俺、昔、ちょっとあって」

「うん」

「もちろん、女子のことは好きだし、可愛いなって思う。ドキドキするし緊張だってする。もっと親しくなりたいとも思うよ。でもさ。昔のトラウマが蘇って、なかなか前に進む勇気が出ないんだ」

「勇気……ってなに?」

「さっき、女子にキスされた。酔っぱらってキスしてきたんだ。でも、過去のことがフラッシュバックした。それで俺、逃げ出したんだ。これが初めてじゃない。お前、またかよって仲間にもからかわれて。ちょっとパニックになった。まぁ、失礼なことをしたとは思ってるけど」


 新太は微かに乱れた髪を指先でつまんで睨みつける。透の表情にじわりと驚きが広がっていく。やはりこいつは察しがいい。そう思った新太はほっとしたような妙な気分に包まれる。


「え。新太、もしかして……」

「ああ。そうだよ。小学生の頃、父さんは忙しくてなかなか俺の世話が出来ないからってお手伝いさんを雇った。シッターって言うの? 俺、勉強苦手だったし、それを心配してたんだろう。塾に行くのもいいけど、家のこともまとめて頼めるシッターを雇う方が合理的だと父は判断した。来てくれたのは二十代くらいの女の人だ。料理もおいしくて、家も綺麗になるから俺も最初は嬉しかった。でもある冬の日、俺が昼寝をしてた時だ。目が覚めたら毛布をかぶってて、シッターさんが掛けてくれたんだと思った。横を見たら彼女がいて、彼女も疲れてるだろうし、寒いから一緒にくるまってるのかと思ってた。だけどよく見たら、あの人の手は俺の下半身を触ってた。俺は怖くて、そのまま眠ったふりをしたよ。結局、寝たふりはバレたけど」


 新太は一点を見つめたまま感情のない声を繋ぐ。


「そのことをまだ引きずってる。何も分からなくて、ただ怖くてうずくまることすらできなかった気持ちが忘れられない。こんなこと、父さん以外に話したことないけどな。父さんは怒ってすぐに彼女を解雇した。大事にしたくなかったけど、父さんは通報した。俺も大人しく塾に通うことになったよ」

「父親の対応は間違ってないと思うけど」

「分かってる」


 新太が微かに笑い声を洩らした。爽やかな彼の横顔に、透は再び眉根を寄せる。


「誰にも話してないのに、なんで話してくれたの?」

「そんなの。お前も家族だからに決まってるだろ。母さんにも話した。でも、ほかには内緒だからな。絶対に誰にも言うなよ? 言ってもどうせ自慢話かとからかわれる」

「言わないよ。手に入れた情報にはそれなりの責任があるからね。メディア部の顧問の頼成先生がいつも言ってる。凶器と常に共にあることを忘れるなって。頭の中だけに隠した思想も記憶も知識も。油断すれば他人だけじゃなく自分にとっても危険となる。情報の公開には、自由意志だけじゃ許されないこともあるんだってさ」

「へぇ。メディア部ってゴシップ記者の真似事でもしてるのかと思ってたけど、意外とまともなんだな」


 新太は透と目を合わせて感心したように表情を明るくした。


「でも意外。新太って人気者の癖に繊細なところがあったんだ。ちょっとは見直したよ」

「なんだそれ」

「それに俺は、酒を飲みたいとも思わないけど。だから新太も気にしなくていいんじゃない? 酒くらいで悩むなよ」

「…………おう」


 透はつまらないことを話すように肩をすくめる。新太から視線を外し、今度は透が月を見上げた。そこで新太は彼の父親の話を思い出す。再婚前、彼の母親から聞いた話だった。透の父親は彼が幼い頃にアルコール依存症になって人格が変わってしまったらしい。それがきっかけで離婚に至り、今では養育費の繋がりすらないという。


「ごめん。透」

「ん? なにが?」


 透が酒に冷めた態度をとるのも必然だった。申し訳なさを感じた新太は子犬のように眉尻を下げて謝る。透は突如として表情を変えた新太のことを不思議そうに見やった。新太は気を取り直して咳払いをする。


「透は意外だと思うかもしれないけどさ。俺は皆が思う理想像をなぞることなんてできないんだよ」

「そう」


 二人は指し示したかの如く同時に空を見上げる。ちょうど飛行機が走っていく光が視界に入ってきたからだ。


「早く、好きだと思う子に触れたいよ。怖がらずに。何の不安もなく、ただ普通に」


 新太の声が空まで昇る。少しだけ恥ずかしそうな彼の声は、決してふざけているようには聞こえなかった。


「ワンコインでキスするお前にしてみたら、くだらない望みかもしれないけどな」


 歯を見せ、ニヤリと笑う新太。ニヤニヤとした顔がこちらを向いていることに気づき、透は遠慮なく眉を歪ませる。


「透のこと、噂くらいでしか知らなかったけどさ。案外いい奴なんだな。俺のコンプレックスをあっさり受け入れちゃって」

「はぁ。やっぱり気にしてたな。ようやく白状した」


 自分の弱みを話してスッキリした顔をしている新太に対し、透はやれやれと頭を振る。


「気にしてたわけじゃねぇよ。でもやっぱ、入学直後で右も左も分からなかった俺たちにしてみりゃかなり衝撃的な話だったからな。そりゃ印象に残って当然だ。事の真相が知りたくなるものだろ?」

「そっちの方がよっぽどくだらない。噂話の真相が知りたいなら、とっくに俺は答えてるってのに」


 透は呆れた眼差しを新太に向けた。くっきりとした瞼が半分落ち、心底鬱陶しそうだ。


「舘山とキスしたのは、あいつが経験がないことを大げさに喚いてたからだよ。じゃあ、五百円くれればキスの練習台になってやろうかってふざけて言ったらあいつが乗っただけ。五百円は寄付するから、チャリティになっていいだろって言葉にまんまと乗ってきたんだよ」


 あっさりとした口調で当時のことを話す透のことを新太は静かに見守る。学校で聞いた噂と大部分は同じ。けれどやはり、一部は脚色されていた。新太が聞いた話では、透は金さえ渡せばなんでもするというものだった。

 ただし、彼は同性のことを好むから異性の料金は倍になる。見た目だけは完璧なただの男娼。舘山が男子生徒だったこともあり、生徒たちの関心はあらぬ方向まで飛躍した。

 この話題に皆が飽きるまでにはかなりの時間を要した。ようやく落ち着いた頃、新太と透は家族になることを告げられたのだ。


「なんでそんなことしたんだよ」


 新太は透の肩を小突いて笑う。


「生き急ぐ奴は金になる。ただそれだけだ。隣の席でいつも嘆いてる舘山の話を聞くのも面倒だったし。まだ高校だって始まったばかりだったのに。これで黙ってくれたらいいなと思ったんだよ」


 透は新太に小突かれた箇所を払った。


「それに隠すつもりもなかったし」

「お?」


 もっと話が聞きたいと、身体を近づける新太のことを透は横目で煩わしそうに見やる。


「俺は性別問わず人を好きになる可能性があるし、どちらかといえば同性寄りだ。……というか、本心はそっちだ。とっくに自覚してるし、それが自分だから誤魔化すことなんてしない。別に誰彼構わず理解だって求めてない。誰もが分かり得ることでもないだろうし。ただ、変にこそこそするのは嫌だ。認めてもらえる人にちゃんと伝わればいい。そのために俺はメディア部に入った。何かを訴えかけたくなった時に、やっぱり一番思考に届くのは言葉だと思って。人間の内側から、少しずつ変わっていけるきっかけを作っていきたいと思ってさ」


 背後でくぐもっていたパーティー会場の音楽が一瞬だけ輪郭を帯びて耳を通り抜けていく。どうやら誰かが扉から出てきたようだ。新太は店の方を確認した後で透へ視線を戻す。


「なんだ。透って、結構立派じゃん」


 そう言って新太は懲りずに透の肩を小突いた。透の上半身は力を加えられたままに傾く。今度は小突かれた跡を払うこともなく、彼は瞼を閉じてため息を吐いた。


「そう思えるようになったのも、頼成先生のおかげだけどね。メディア部に入った俺に、先生は普通に接してくれたし、噂のことも気にすんなって励ましてくれた。学校はくだらないことばっかりだけど、それだけじゃないって教えてくれたよ。それに」

「ん?」

「俺も新太のこと言えないや。勝手なイメージで決めつけてたのは俺も同じだし。もし新太が酔ってんなら、父親に言いつけてやろうと思ってたけど。そんな必要もなさそうだな」


 透は残念そうに肩を落とした後で、地面に手をついて立ち上がる。


「パーティーに戻るの? なら、遅くなりそうだって家に伝えておくけど」


 服についた汚れを払いながら、透は自分を見上げてくる新太に問う。ちょうど街灯と月明りが低いところにいる彼の瞳を照らしていた。


「いや。今日はもういいや。どうせ戻っても皆酔ってるだけだし」

「そう」

「帰ろうぜ、透」

「うん」


 勢いをつけて立ち上がった新太は大きく一歩足を前に出して透よりも道の先に出た。

 意気揚々と歩き出す新太の後ろを、透は悠々とした足取りで辿っていく。



 三限目の授業は英語だった。新太は開いた教科書に書かれた文字を瞳に映しつつも、その意味を読もうとはしていなかった。頭の中では体育教師に呼ばれた透の姿が繰り返されていく。

 透と親しくなってからまだ歴は浅い。しかし新太は他の生徒と同じように透を怪しむことができなかった。彼のすべてを理解できているわけではないことも当然分かっている。それでも、新太は僅かにでも透を犯人だと疑うことをしなかった。頼成が率いるメディア部に入ったことで学校生活が少しでも好転したことを彼自身の口から直接聞いたのだ。学校生活のことだけではなく、先生の情報の扱いや報道に対する姿勢に透は共感していたはず。そんな人を殺す理由が見つからない。


 もしかしたら透が嘘を話しているのかもしれない。思ってもないことを話すのは容易だ。けれど新太はその線も薄いと踏んでいた。透が発端となった有料キス事件が例となるように、彼は自身のことを包み隠そうなどしない。自らの性的指向を正直に話してくれた相手だ。彼は嘘をつくことを嫌うと新太は知っていた。


 廊下で話し声が聞こえ、新太は顔を上げる。ちょうど教室の前を通り過ぎていく教員と警察官の姿が見えた。

 どんなに否定しようとも、状況証拠から恐らく透は容疑者の一人があがっているだろう。

 以前聞いた透の言葉を思い出し、新太は指先でペンを握りしめる。


 ──あいつは暴力なんてあり得ない。どちらかといえば人を思考で操る方だ


 内側から人を変えたいと言っていた透。新太はその言葉に偽りがないことを確信していた。


 ──それに、人を傷つける度胸なんかないだろう。口は悪いけど……


 一瞬の迷いが頭をよぎる。すかさず新太は首を横に振った。隣の生徒がぎょっとした目で新太を見やる。


 ──確かに口は悪い。悪い、が、正直者でもある。あいつは無実だ


 新太の瞳に熱が宿る。教科書を燃やしそうなほどの熱意に満ちた眼差しは、次第に彼の心全体を包みこむ。


「じゃあ、桜守、ここ、訳してみろ」


 教室の前方に立つ目鼻立ちのはっきりとした教師が教科書の一部を指差した。


「イエッサー‼」


 あまりの威勢の良さに教室全体がびくりと跳ねた。

 立ち上がった新太の表情には意気込みが滲み、ギラギラと明るい。


 ──透。俺が絶対に無実を証明してやるからな!


 教科書を手に持った新太は、ハッとして先生に丸い目を向ける。


「えっと、何でしたっけ……?」


 立ち上がった時の勢いからは打って変わり、恥ずかしそうに頬を掻く新太の発言に教室中が笑いに揺れた。

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