輪廻の虜
上田かの
輪廻の虜
――その男と会ったのは偶然だった。
神の寵愛を一身に集めた至高の天使。白銀の髪とその瞳を持って、私は天界の寵児と呼ばれていた。
すべてが私の思うまま。神の寵愛は増すばかりのあの頃、私には何も怖いものなどなかった。怖いものがあったとすればこの寵愛がいつか薄れてしまうのだろうか、という漠然とした恐怖のようなものだけ。
「――おまえの、名は?」
天界の花園で、神が所望した花を摘むために部下の天使達と訪れた私は、そこで運命の男に出会ってしまった。運命、そうまさしく皮肉な運命だったとしか思えない。
その男の持つあまりにも異様な空気に、私は後ずさる。
部下の天使達は散り散りに逃げ始めたのに、私は一歩も動けない。まるで足が縫いとめられたように。
翼を広げ、身を隠すようにしても、男はにやりと笑ったままだ。
明らかに天使ではなく、天界に住まう者ではない、男。
どこまでも暗い漆黒の髪と、そして血のように赤い瞳。その黒髪は、私と同じように地をはくほどに長いのに、少しも女々しさを感じさせない。
禍々しいけれど、美しい。
――まるで、人ならざる、者……。
「――おまえの、名は?」
私は決して口を開かないと決めた。人ならざる者、すなわち、魔の者に名前を明け渡すことはすなわち、従属を意味するのだと知っているからだ。
「――まあいい、ゆっくりと口を割らせることにしようか。時間はいくらでもあるのだからな、美しい天使」
男の言葉が終わらないうちに、男は私を翼ごと包み込んでいた。横抱きにされながら、私はそれが終わりではなく始まりなのだと、気づいていた。
寵愛する天使を奪われることを神は決してお許しにはならないだろう、と。
天界と地上を隔てる分厚い雲海を、私を横抱きにしたまま男は突っ切っていく。おそらくは自らの家なり、城なりに、私をさらおうというのだろう。天界の住人は地下の住人にとっては喉から手が出るほどの至上の存在であるから、こういった誘拐は日常茶飯事であるのだ。だが、さらわれた天使がそのまま地下に連れ去られることはほとんどない。無理やり堕天させられることを皆嫌がるのだ。もちろん、私も。
だから私は注意深く男に気づかれぬよう自らの翼に手をかけた。
激痛が走った瞬間、男は驚いて手を放した。突然私が暴れたからだ。
「――翼を!?」
そう。さらわれた天使はそのほとんどが堕天するよりも死を選ぶ。片翼となって私はバランスを失い、落下していく。その速さに男は手を出すことはできないだろう。私は薄れていく意識の中で口を開いていた。
――決して私はおまえのものにはならない、と。
目覚めたとき、私は地上の名もなき女として生まれていた。だが、銀の髪と瞳は変わらなかった。神は特に私の容姿を愛でられていたからこそ、天使としての生が終わった後でも、この容姿を授けたのだろう。
神は依然として私に寵愛を注がれる。
名もない女として生まれた私だが、天使であった頃の容姿を与えられ欲しいものは労せず手に入ることができた。神は天使であった頃の同様の破格の待遇で私を生かした。生を全うしたら再び天界へと連れ戻すための、それは仮の生でしかないのだというように。
天界と現界という違いはあれども、やがて私はその当時の王の後宮にいれられ、そしてその寵愛をほしいままにする。傾国の銀姫などと呼ばれ、そのうち私がもとで国同士の争いへと発展していった。
人は愚かしい、と冷めて眺めている間に、私は自分の目の前まで危険が迫っていることにようやく気づいた。戦争の原因となった女そのものを処分してしまおうという勢力がやってきたのだ。人は愚かしい生き物だ。勝手にのぼせあがって、私を祭り上げては都合が悪いと処分しようとする。戦争に出た王の留守中に、後宮はそういう輩に占拠され、はては火をつけられた。傾国と言われた私を一目見る前に、後宮ごと燃やし尽くそうとしたのだろう。それほどまでに私を怖れたのだ。
――もうすぐ、神のもとへ帰る。
微笑む私の姿はおそらく周囲にはいらぬ誤解を与えたのだろう。いつのまにか一人になっていた。
そして、ふと気づくと、男が立っていた。
そう、燃え上がる後宮の一室で私は、またしてもその男に会ったのだ。
漆黒を身にまとう男はやはり妖しく美しい男だった。私はまたしても一瞬みとれてしまう。それほどまでに……この男は魅力的なのだ。
「――名前を、言え」
私は笑っていた。
再度の生を与えられ、なおかつそれは前世の自分の容姿と寸分違わぬもの。神が私を手放すはずもないことを、男はまだ気づかないのだ。
「名前を、言え。言わぬのならばおまえを永遠に俺は追い続けるだろう」
「――私は、おまえのものにはならぬ」
笑ってやって。私はくるりと背を向けて歩き出す。燃え盛る炎の中へと、一歩一歩。
「――おまえは俺から逃れることはできない」
炎に身をまかれる瞬間の男の言葉だけを残して、私はまたしても意識を失った。
――神は私をそれでもあきらめなかった。
男好みの容姿で生まれさせたからこそ再び男は現れたのだろうと考えたらしい。再度の転生は今度は男だった。
だが容姿はそれでも惜しんだのだろう、かぎりなく見目良かった。そして当然のことながら救国の英雄などと呼ばれ祭り上げられて何不自由なく生を謳歌することができた。だが、またしても私という英雄を各国が欲しがったために争いが起きた。……結局のところ神の寵愛を受けし私は、どうしても争いを起こす火種になってしまうのだろう。
当然のごとく再度の転生でも最悪な結末を迎えることになる。
――名前を、言え。
男に生まれ変わろうが、結局男にとっては何の意味もなかったらしい。神の賭けは失敗に終わる。当然のように現れた男は私に再び尋ねるのだ。本当の名を。従属させるために。だが、神の愛は依然としてつきない。
私はその手を拒み、三度目の自害を試みた。男はまたしても「どんな姿になっても、俺はおまえを必ず手に入れる」と呟いていた。
事実、その通りだった。
神は次の生ではついに人であることを諦め、ただの狐にした。白銀の毛が美しいその狐でも、やがて、男はその生が終わる前にはたどりついた。
「――決して、逃さない。おまえは俺の獲物だ」
狐である私はそれでも男を拒んだ。漆黒の魔王――もうその頃にはこの男は魔王なのだと理解していた――は私を捕えようとする。私は逃げて、逃げて、そして力つきた。
あの男に捕まっては駄目だと本能が訴える。捕まれば、私はもう逃げられないことを理解していたのだ。
神の寵愛はつきない。狐で駄目なら、次は、というように、何度も転生を繰り返す。けれど、どこかいつも美しい物として。そのすべてに男はたどりつく。――何度も、何度も。
「――おまえは俺の獲物だと言ったろう」
何度目かの転生を終える頃には、もはや私は生の間際にたどりつく魔王を心待ちにさえしていた。美しい男、漆黒の魔王の訪れを、なによりも強く。
神の寵愛は依然としてある。だがいつも私ばかりが待たされそれを段々とわずらわしくさえ思えてきたのも、強く求められるからなのかもしれない。男は私を求める。何度生まれ変わっても、何に生まれ変わっても。人であろうが、獣であろうが、それが、たとえ添い遂げられぬ形であっても。魂だけを求められている。
「――来い。逃さないと言ったろう」
有無を言わせぬ強い口調。広い花園にひらひらと舞いながら、私は男の広げた掌の上に降り立った。そう、何度目かの転生の後に私は名もなき銀色の蝶へと生まれ変わった。そして、ついに、男の手の上へと文字通り降り立ったのだ。
魅入られたように動けない。男の血のような瞳に射抜かれ、無力な蝶はふるふると震える。
「――必ず俺のものにしてみせよう」
男は唇の端に酷薄な微笑を浮かべると、蝶ごと手を握りつぶした。もげた羽根が零れていき、はらりと花園へと堕ちていった……。
それは神に寵愛された至高の天使の私が、完全に消滅した証だった。
「ミドガルド侯爵令嬢エピーヌ様ご出立!!」
先触れの声に耳を傾けながら、私は王城へと続く道をひた走る馬車に揺られていた。沿道の声援さえ、もはや頭にはない。
「エピーヌ様、ご気分でもお悪いのですか?」
メイドの声に首を振った。
銀色の髪に銀色の瞳、地をはくほどに長くなってしまった髪は今は高く結い上げている。頭上には花嫁の証たる黒い刺繍入りの薄布を被り、胸元の開いた漆黒のドレスには紅い血のような大振りの華が数個飾られている。
天使であった頃のいでたちとは真逆の衣装に身を包み、私はそっと溜息をついた。
男の手によって天使であった輪廻を断絶させられた私が次に目覚めたのは、こともあろうに魔界だったのだ。それもあいかわらず侯爵令嬢という何不自由ない身分で、容姿も天使であった頃と同じ寸分違わぬ姿だった。
魔界にあっては珍しい色素の薄い容姿を、当然周囲は放っておいてはくれず、政略結婚という名の仕組まれた結婚により、私は王城へと向かう羽目になったのだ。
王城へと降り立った瞬間、ざわりとしたのは気のせいではないだろう。漆黒が基本である魔界において私という容姿はどうしても目立ちすぎるのだ。
漆黒のドレスに身を包み、手には胸元を飾る花と同じ花を持ち、王のもとへと歩いていく。
――ああ、私はこの男を知っている。
漆黒を身にまとう傲慢な王の姿は何度も見たことがあった。生を全うする最後の瞬間には必ず現れる、男。
「――ようやく、堕ちてきたか」
おそらく初めて会った、あの瞬間から。私は既にこの男に囚われていたのだろう。神の寵愛すら捨ててしまえるほどに。
男の手に自らの生を委ねてしまったあの瞬間から、私はもうこの男の罠から逃れることはできなくなってしまった。自分から望んでしまった。――神の側に侍ることすら放棄して。
「エピーヌ。今生でのおまえの名が、真の名前なのだな」
私はゆっくりと頷くと男の手をとる。従属を、この男に与えるために。……後悔はしていない。いつのまにか私はこの男に囚われてしまった。神から与えられる優しい愛ではなく、追いつめられる息苦しささえ伴った激しい愛に。
「――決して逃さない。最初に会ったときから、おまえは俺のものだ」
指に口付けながらそう吐いた男の視線は私を射抜く。ああ、だからこそ私は逃れられなかったのだ。この男の視線は私を放さない。燃やし尽くしてしまおうとするかのように、熱く激しいのだと。
「愛している、俺の天使」
――逃げようとするのなら追い続けるだけだ、と。愛おしそうにその指に唇をつけたままうっとりと言う男に、私はまたしても動けなくなる。
だが、それはもはや恐怖ではなかった。
輪廻の虜 上田かの @maanyan
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