ノーベル賞への道
教授が主治医になって、会社は何も言えなくなった。産業医は手を引いた。私の目標は、なぜだか会社に行くことになった。うつで入院した。元北新地のクラブのホステスと知り合い、良い仲になった。入院中に時間差で外出し、二人でラブホに行った。毎日のように。不倫である。
そうこうしているうちに、911事件が起きた。私は現代文明の行き詰まりを感じ、私の知性を世界にという思い上がりから、ホームページを立ち上げた。「アナリストのための1日8分」だ。世界を動かしているのは、アナリスト達だという認識があった。私はアナリスト達に語りかけたかった。
森岡正博教授のホームページに、マンソンジュの名前で投稿した。「21世紀の構図」と「思想の第3領域試論」だ。藤崎達哉氏に呼ばれて、ベイリングポイント(現アクセンチュア)に行った。銀座で寿司をご馳走になった。「超越論的金融哲学論考」という本をもらった。私的ホームページ「デリバティブ・ヴィレジ」にエッセイを書いた。原稿料ももらった。「超アナリストのアナリスト論」と「超アナリストの超アナリスト論」だ。そう、当時の私は、超アナリスト黒崎宣博氏を名乗っていた。東洋経済の高橋亀吉賞にも、3回応募した。賞を取れなかったのは、ペンネームを使ったからだと、今も思っている。
私の使命。それは、文明イノベーションのトリガーを引くことだった。mixiに「対立の哲学」というコミュニティを作った。エッセイとして、カクヨムにも転載している。黒崎玄太郎研究所のサイトには、英訳もある。なんだ、本気じゃないか。そう言えばメールマガジンも発行してえた。「経済統計の嘘・本当・なぞ」と「超アナリストの空飛ぶエッセイ」だ。
しかし、2005年頃に発狂して、ウェブ上のコンテンツをすべて消した。ホームページも消した。また、パソコン内のファイルも消した。バックアップもとらなかった。身の危険を感じたからだ。それが妄想だった。
とっとと会社を辞めて、執筆に専念するべきだったのか。しかし、それには貯金が少な過ぎた。
2000年から2009年の間に、大学病院に4回入院している。最初はうつ、あとの3回は躁状態だ。
いろいろな出会いがあった。何人もの研究者と知り合い、リアルで会った。千葉雅也氏にも会った。
私の知性を世界のために、という妄想は大事にした方が良かったかもしれない。2009年、私の知識が周回遅れだと気が付いた時、私は会社を辞める決断をした。
2009年、再び読書と思索がはじまり、ブログを開設した。再スタートのつもりだった。しかし、迷いが生じた。コンサルタントの方が儲かるな。占い師なら食いっぱぐれえないかも。いろいろなことに手を出し過ぎた。集中する必要があったのだ。タロット占いの学校に行ったのなどは、無駄以上にマイナスだったようだ。混沌の中で、2011年2月に退職。寛解という診断だった。しかし、真相は違った。フリーランスで月300万円は稼げると思っていたのだ。誇大妄想である。
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