23.「紬希の愛は重そうやな」(1/3)

       *



 時が流れるのは早いもので――と、言いたいところだけれど。

 あれから二カ月と少し。六月二十一日、火曜日。

 実際のところは、光陰のあまりの遅さに辟易へきえきとしてきていた頃だった。時間による親密度の上昇とみおの寿命の減少が並行して進む状況下において、友情や愛情の育つ速度の遅さが目について仕方がない。たった二カ月だというのに、体感では五百年を生きているようだった。

 しかし、その長い時の中で、ひとつ確認できたことがある。

 私の真心の見立てが合っていたということだ。おそらくすでに鬱症状にさいなまれているであろう澪は、なるほど無意識にロードを乱発している。突然会話が噛み合わなくなることがあったのが、その証拠である。

 おおかた、二、三個前のログをロードしているのではないだろうか。

 何せ、突然会話が噛み合わなくなる程度で済んでいるのだ。目の前にいたはずの澪が消えたり、逆に突然澪が現われたりはしない。実際、意識していなかったこれまでは大して違和感に思わなかったのだ。言われてみれば分かるほどの、日常であり得る程度の食い違い。

 理屈からも経験からも分かるとおり、ロードするログが古ければ古いほど、ノイズは多く、大きくなる。その程度のノイズしか生まれていないのだから、すぐ近くのログをロードして、ほとんど同じルートを辿たどって戻ってきていると考えられる。

 もちろん、それが積み重なって、そして鬱の悪化とともにさかのぼる期間が延びて、結果あの最期に漂着してしまうのだけれど。


「どうする? もうこんな時間だし、明日も朝から学校だし、お開きにする?」

「うーん、まぁ、そうやな……」


 空になったコップを何気なく遊ばせながら、澪があまり乗り気でなさそうな声で返す。

 いつものように、私の部屋。前から、二人で集まるときは私の部屋が会場になることが多かった。別にこれといった意味はないし、澪の部屋に集まることもそれなりにあるが、成り行きで私の部屋の場合が多い。

 今の私たちは、まだ十九歳だ。お酒の缶なんて、机の上どころか冷蔵庫にも入っていない。一周目もそうしていた通り、澪が部屋に来たときは、ちょっと高めのオレンジジュースをコップに入れて飲んでいる。

 低いセンターテーブルに頬杖をついているせいで、澪の姿勢が最高に悪い。猫背なんてものではなかった。


「明日は一限からだから、あんまり夜更かしできないよ……?」

「うん、それは分かってる……」

「まぁ、澪は絶対寝坊しないだろうけど」


 彼女は絶対に時間を守る。遅刻しないどころか、待ち合わせをすると十分近く前から待ってくれている。それに、生活も恐ろしいほど規則正しくて、こうして私の部屋に来るとき以外は、二十二時には就床しゅうしょうし、休みの日でも六時には目を覚ます。

 私もそういうところは厳しめの家庭で育ったけれど、さすがに澪には勝てない。

 レポートの話のときに言っていた“完璧主義”というやつが、もしかしてそういうところにも出ているのだろうか……。そうともなれば、澪の鬱の原因となり得る要素があまりにも強大すぎる――生き方そのものを相手取らないといけないのだ。彼女の負担を取り除くことは、やはり至難の業だった。

 どの感情ともつかない心持ちで澪を眺めていると、コップから手を離して小さく溜め息をついた。


「……泊まりたい」

「そっ、か……」


 ぼそりと自信なさげに零した言葉を、必死に拾い上げた。

 泊まりたい。それは決まって、に持っていくことのサインだったけれど。

 そのお約束は、無論、お互いの性的指向を打ち明け合って、付き合ってからのことだ。今のこの、ただの友達の関係だと、文字通りに泊まりたいというだけの言葉に過ぎない。

 一周目におけるこの頃の私は――そしてきっと今の澪も、内心では自分の性的指向のままに欲を発散したいという思いにあふれていた。

 ……にしても、これは。

 一周目よりだいぶ早いから、はしていなかったけれど。


「と、とりあえず、もう一杯飲んどく?」

「いらん」

「あ、……うん、」


 機嫌が悪いわけではないのは見ていて分かるけれど、あまりのしおらしい言い草に、私の耳は機嫌が悪いと判断してしまいそうだ。

 一周目も、程度の差はあれど、確かにこんな具合だった気がする。きっと、緊張しているのだろう。

 だったら、本心は“泊まりたい”わけではない。伝えなきゃいけないことが伝えられるまで、ここにいたいのだ。尻込みする自分を、あえてこの場に縛り付けているのだ。

 ……誘導、するか。


「私も、澪と離れたくないから……。明日のことは、明日考えればいいか」

「うん、それがいい。……一緒にいたい」

「そうしよう。でもちょっと待っててね、いつでも寝れるように、支度してくる」

「うん」


 部屋の主がその気になって、澪は少しだけ安心したようだった。

 ただ、どう転ぶにしても、今の雰囲気からでは無理だ。澪が珍しく二の足を踏みまくっている。

 私は二人分のコップを流しに置いて、歯磨きをしに洗面所へと向かった。時間も時間だから寝支度をしたいのも事実だが、部屋に澪を一人にして、一旦気持ちを切り替えさせる算段だ。

 ふと鏡の自分を見ると、どこか浮かない顔だった。私も私で、関係が進展したらやるべきことがある――それを考えていたがためだろう。

 いつもより少し長めに歯を磨いて、水で軽く顔も洗う。

 これから澪は、告白する。想定だが、確信だ。

 それも、ただの告白ではなく、同性愛者であることのカミングアウトから始めなければならない。最悪の場合、私に引かれて友達の関係すら崩れ去ってしまう――そのリスクを噛み殺して。

 こちらもしゃっきりとして臨まなければならない。


「――お待たせ」

「ううん」

「そろそろ眠くなってきたんじゃない?」

「そやな……眠い」


 言って、澪はおもむろに立ち上がり、ベッドへと腰を下ろした。私も、気持ち近めに、並んで腰を下ろす。物理的距離が遠いほど、精神的距離を縮めるのも難しい。無駄な障害は私が取り払わないと。

 二人寝転んでも案外余裕のあるベッドに腰かけて、少しの間、静寂を過ごした。

 私たちの行く末について二回り以上も知識と経験のある私と違って、人生最大級のチャレンジを控えている澪にとっては、この沈黙はかなりの負担だろう。告白される立場で言えたことではないが、私が彼女の背中を押すべきだ。


「なんか、私、しんみりしてきちゃった」

「しんみり? ……どんな感じで?」

「なんかね、澪と出会えてよかったなぁって、思ってさ……」

「え、」

「私さ、友達いなかったんだよね、まぁ分かると思うけど」

「いや、そんなことはないけど」


 きちんとフォローを入れてくれる澪。

 優しさへのときめきをエネルギーとして使わせてもらって、私は言葉をつむぐ。


「今でこそ落ち着いたけど、前までは本当に自分のことばかりに気を取られて、友達に割いてる時間も余裕もなかった。生き方が下手だった、っていうのかな」

「…………」


 気配だけで、澪の様子をうかがう。

 私の狙いどおりすっかり聞き入ってくれているようで、無言ながらも感情のこもった眼差しを感じる。私の過去について嘘は話していないけれど、あえて、澪の心に触れやすい話題や言い回しを選んでいるつもりだ。

 ただ、鬱病患者への接し方として、「自分もそうだったよ」と共感するのは実は逆効果だ。こちらは共感を示して安心させようと思っていても、患者にとっては「それくらい誰にでもあって、みんな乗り越えてるよ」と受け止められてしまうことさえあるからだ。

 幸い私は、澪が鬱病であることを知らないていになっている。

 あくまで澪を追い詰めないように。あくまで、澪の存在価値を訴えるためのジャンプ台として。


「でも、生き方が下手かどうかなんて、周りは加味してくれない。誰もが社会的な立場を勝ち取ろうとしている戦場だと、表面的な印象で一気にふるいにかけて、残った人しかその中身を見ない。私は、必ずと言っていいほど、そのふるいに引っかかる。……私、自覚してるんだよ。どうしようもなく面倒くさい奴だって」


 想定通り言葉を挟もうとした澪を、彼女の足に手を置いて制す。私の自虐を見過ごせないのは知っている。


「物を言い切るのが苦手だから、話し方もおどおどしててウザいだろうし。ごめんなさいの口癖だって、きっと言うたびに相手を不快にさせてる。それに加えて、少し前までだと、いつも余裕がなくて愛想なんて微塵もないとまできた。私だって、私みたいな奴と仲良くなりたくないよ」


 自分をこき下ろす言葉は無限に出てくる。全く自慢にならないが、自己嫌悪はかなりの得意分野なのだ。

 でも。

 今回は、それで感情が引きずられることはない。私自身と交わした覚悟と約束が、心を真っ直ぐに立たせて折らせない。


「澪はさ、そんな私と一緒にいてくれてるんだよ。澪のコミュりょくがあれば、他にいくらでも友達なんて作れるはずなのに――講義で席が隣になった人と仲良くなるくらい造作もないはずなのに。それなのに、友達作りにあたって貴重なこの時期を、全部私に捧げてくれた。澪が好意を向けてくれるから、私も私を好きになり始めてる――少しずつだけどね」






※近況ノートとpixivにて、今話の挿絵を投稿しております。

 https://www.pixiv.net/artworks/109511621

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