05.「あたしさ、実は――」

       *



 取り込んだファイルが、再生される。


『今度なんかお返ししなあかんなぁ……』


 私の知らない、みおの世界。

 何度ロードしたって、私のいない場所で起きていることは知りようがない。

 未知の世界を観察することにおいて、今の私は恐怖しか感じていなかった。冒険心や楽しさなんてものを感じていたのなら、私はとうとう自分のことを心から嫌っていたことだろう。

 ガサガサと、大きなノイズがしばらく続く。パーティーから帰ってきて、身を落ち着けるまでの空白の時間。少しして、この箱を開けているであろう音が始まった。


『え、嘘やん、なんやこの高そうなペン。こんなん数百円で買えるもんじゃないやろ』


 彼女の目利めききは、一周回って当たっている。そりゃあ、精密な電子機器なんだから。金額が四桁をくだることはないだろう。

 説明書を読んで、ペンを観察しているのだろうか。かなりの時間無言が続き、耳障りなノイズだけが響いていた。


『……あかん、お返しが思いつかへん。え、車でも買う? いや家か?』


 彼女の中でお返しは一万倍とかいうルールでもあるのだろうか。もはやプレゼントの域を超えている。

 また少し無言のノイズがあって、ふいに澪の咳払いと溜め息が入った。ペンを置いて、パソコンを操作する音。

 現代の大学生は、ほぼ全員が押しべて自分のノートパソコンを持っている。大学の課題はほとんどが専用サイト上で実行され、講義によってはオンライン会議ツールを使った形式だけで進めていくこともある。入学時に大学生協による斡旋あっせんもあり、おそらく全員が個人のパソコンを持っているだろう。数年前には見られなかった光景に違いない。

 かち、かち。

 やけに緊張感のあるマウスのクリック音が続き、果たして何か電子音が鳴った。

 一拍して。


『あ、お母さん? 聞こえてる?』


 澪の声。完全に脱力して、余所行よそいきの響きが全くない声音こわね

 これは……家族との通話? それも、パソコンでのビデオ通話?

 その考えを裏付けるように、聞き覚えのない声が入る。不幸にも、パソコンを介しているためか、何を言っているかは聴き取れなかった。前提としてこのボイスレコーダーの音声解像度が高くないのだ。かろうじて女声であることは分かった――澪の呼びかけ通り、母親だろう。


『んーまぁ、ありがとう。やっと二十歳やわ』


 家族に見せる、特有のはにかみの声音こわね

 誕生日にしかできない用事。

 きっと、ビデオ通話を使ってのオンライン家族パーティーだ。音声しか聞こえない私には、具体的に何をしているかは分からないが、確かに二十歳の誕生日を私とだけ過ごすのは心残りだろう。むしろ、そんな特別なときに家族より先に私と盛り上がってくれていた時点で、彼女の思いやりが最大限振るわれていたのだ。

 そこまで気が回らなかった自分を、内心また責めた。


『うん、さっき紬希つむぎと初めてのお酒飲んできてん。……いやいや、めっちゃ弱いやつやで。三パーぐらいのん』


 私の名前に少し、どきりとする。どうやら彼女は、普段から親に私の話をしているようだ。私だって普通に親に澪の名前を出すけれど、いざ自分がされてみると嬉しいものである。


『え? いやいや!』

『分かる分かる。でさぁ――』

『なんでやねん!』


 数十分にわたって、不明瞭ふめいりょうな相手の声と、澪の声とが飛び交い続けた。かすかに聞こえる音声から、父親も会話に入っていることが読み取れる。

 相手も関西人だからか、いつも以上に澪の関西弁が猛威を振るっている。以前に、関西人は関西人とじゃないと本領発揮できひん、なんて澪が言っていたことを思い出した。関西弁はどうしてもきつい印象になるから、それに慣れていない人にはかなり抑えて話さなければならないようで。それを踏まえても紬希が一番やけどな――と付け足してくれていたけれど。

 私が回想にふけっている間も、澪たちの会話は続いていた。

 親子の会話だから言ってみれば当たり前だが――澪がとても楽しそうだ。屈託くったくなく、会話のテンポにつまづくこともなく。ただただ楽しそうに、声高こわだかに。普段よりいくらか強めの突っ込みを入れたり、快活に笑ったり。

 思わず嫉妬してしまうくらいに、無邪気な澪の声。そして――彼女の最期が嘘に思えてしまうような、活気に満ちた声。

 真実を追っていたつもりが、迷宮に向かっているように感じた。


『うわ、気づいたらこんな時間やん』


 シークバーの脇に目を落とすと、開始から一時間以上が経過していた。上機嫌な澪の声に聞き入って、私も時間を忘れていた。私とのパーティーは確か二十時あたりにお開きだったから、これはだいたい二十一時を超えた頃の記録ということになる。

 と、そこで。

 私の意識を叩き起こす変化。


『……なぁ、お母さん、お父さん』


 突然、思わず震え上がるほどに真剣な声。少なくとも私に向けて放ったことのない声音こわねだ。

 何か、言う。核心に触れる。

 その直感を、スピーカーから流れる音声が拾った。


『ちょうど節目やしさ、ちょっと言いたいことがあんねん』


 私の中で渦巻いていた恐怖が、一気に湧き上がった。言葉にならない刺激による、言葉にならない恐怖。音声の停止を求め意思に反してマウスに伸びる右手を、決死の想いで押さえ付けた。

 ここだけは逃げられない。いい加減向き合え、馬鹿。

 私が息をむのと、澪が固唾かたずむのが、画面越し――時間越しにリンクしたように感じた。今、私の心は、澪のもとにある。


『あたしさ、実は――』


 泣き出しそうなくらいに、震えを帯びた声。不安に抗って。



『レズビアン……やねんか……』



 耳は、……沈黙しか、拾わない。

 空気が、凍った――。

 私の周囲の空気? 違う、澪の周囲の空気だ。あるいは、音声を越えて、画面を越えた、澪の話し相手の周囲。

 空気の質量をはらで感じ取っているように錯覚する、あまりにも重苦しい雰囲気。嫌われ者が全校生徒の前で恥をかくくらいでは歯が立たない、人間が立たされていいレベルを遥かに超えた地獄。澪の必死の覚悟が伝わっていたがために、その責め苦が自分のことのように襲い来る。

 私は――泣いていた。

 耐えられなかった。音声と時間を越えて、その場にいない第三者の立場で。いつの間にか止まっていた呼吸が、生命の危機を察知して暴発する。そのまま嗚咽おえつに変わって、吐き気を生む。これを、勇気を振り絞った当事者の立場で体験した澪の心中は、察することさえ許されなかった。

 レズビアン。私の――私たちの間では馴染みの深い言葉。

 東仙とうせん家では、何を言うにも比較的気さくな空気に満ちている。実際私は、自分がレズビアンであることに気づいた時にはもう打ち明けていた。家族側も、多少驚きはしたものの、拒絶するどころか応援してくれた。

 他人の家庭の雰囲気なんて知れないけれど――きっと私は恵まれた環境にいたのだ。愚かな私はその恵みに気づくことなく、ぬくぬくと、箱の中で育った。

 澪は。


『いや、やっぱ、嘘、なんでも……ない……』


 喉をくびられているような声をあげていた。

 彼女の両親がどんな反応をしたのかは分からない。泣いてしゃくり上げながらも耳を澄ましていたつもりだったが、肝心の相手の言葉が聞こえなかった。

 ――聞こえなかったのが、答え、だ。

 澪がカミングアウトした直後の空気の凍結。不自然なほどにいだ沈黙。この世の終わりにも出さないような澪の後悔の声音こわね。そもそも、言い出すときの聞くにえない声の震え。

 いくらカミングアウトが大成功した私とて、自分の性的指向が、世間の注意を引いている話題であることは理解している。もちろん、それに対する世間の目が、一般的にどういうものなのかも。

 ……もう、推察するまでもない。



 彼女の両親は、そろって不快な顔をした。



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