もっと!もっと!もっと頂戴よ!!大量大量!!大量祭りでもっと頂戴よ!!②


「うんじゃあ、ありがとうね」


「はい、失礼します」


鯉川は応接室の扉の前で丁寧に腰を曲げた。頭を上げると同時に所長の禿げ頭が見えぬよう、鯉川は視線を靴元に落としながら、扉を閉めた。


「はぁ」


不意にため息が漏れた。ドアノブを握りしめていた手の平の力が抜けていく。やはり人と話すのは苦手だ。特に一対一の対面なんてもってのほかである。鯉川は冒険者候補生入試のさいに受けた集団面接を思い出した。そして口を開いて溜息を吐く気力もないのか、鯉川は鼻から重たい息を漏らす。そんな事を思い出したところで特に意味はない。あるとすれば気分が落ち込むことだけだ。そしてそれに意味はない。そのため鯉川は一旦思考を停止すると、ドアノブから手を放して、早歩きで受付の方へ歩いていった。


そして廊下を歩いている途中で彼の頭にはなぜか、あの所長の禿げ頭がフラッシュバックした。焼野原のような焦燥感と虚無。そして男の自分でも引いてしまいそうな汚さ。せめて禿げるのであれば綺麗に禿げたいものだ。鯉川はまだ見ぬ祖父の頭皮に思いをはせながら、佐々木が座る受付の方へたどり着いた。


彼女の座る椅子に背もたれはない。その小さな肩に垂れるつやのある髪色に、その小さな椅子に両脇を食い込ませる彼女の大きなお尻を見つめながら、少しタイミングを見計らって鯉川は佐々木の背中に声をかけた。


「次の方どうぞー」


「あっあの」


「あっ、鯉川さん。お時間のほう取らせていただいてすみませんでした」


そう佐々木は席を立って鯉川に頭を下げると、受付カウンターの下にある荷物置き場から紙袋を取り出した。


「すみません、お時間を取らせてもらったお礼と言ってはなんですが…」


「あ、いや、あの……すみません」


鯉川は差し出された紙袋を受け取りながら、軽く頭を下げた。すると佐々木は微笑みながら目を軽く細める。そして振り返ると同時に、カウンターの扉をあけるため、腰をかがめて横に突き出された佐々木の尻を、鯉川はやはり自然と凝視してしまう。


「どうぞ」


「あ、すみません」


「鯉川さん」


カウンターの扉を抜けると同時に後ろから佐々木の声がかかった。あとはいつも通り振り返って、軽い会釈をし、家に帰る。そう思っていた鯉川は表裏をつかれたように一瞬だけ下唇を突き出し、肩に力が入り、目を見開いた。鯉川はまるで辺りの様子を伺うような顔をしながら、佐々木の方を振り向いた。


「鯉川さんはこれから迷宮の方に行かれますか?」


「え……あの…いや…家に…」


「あっ失礼しました、それではお気をつけてお帰りください」


笑みを浮かべながらそう言って、頭を下げた佐々木の顔を、彼は何とも言えない表情を浮かべながら、首を前に倒すように小さくうなずいた。そしてその表情のまま振り返った彼はギルドの自動ドアを通り抜ける。


青空の上に立った彼は少しづつ移動していく大きな影を見つめながら息を吐いた。雲の下を通り過ぎて、太陽の光が視界の上部を真っ白に染めていく。鯉川は一瞬だけ目を細めながら、目の前の横断歩道に向かって歩き出した。


そして最後に自分に言った彼女の言葉を鯉川は思い出した。それが何の意味もないことであることは鯉川にも分かっていた。十中八九ただの社交辞令、ビジネスマナーにすぎない。だからこんなことで一々、一喜一憂すること自体に意味がないのだ。だがそれでも、この愚かな自分の足取りは、いつもよりどこか軽く、空も澄んで見えた。

信号機が青になると同時に、鳥の鳴き声が聞こえて来た。目に障害を抱えている人でも信号を渡れるようにするアナウンスだろうか。鯉川は何て自分は現金なんだと思った。女性が自分に気を使ってくれた。同情ではない、純粋な気遣い。たとえそれがビジネスマナーの域を出ないものであったとしても、女性に優しくされたとたんに視界が一気に明るく、広がった自分に彼はどこか嫌悪感と羞恥心に似た感情を抱いていた。だがそれ以上に、やはり彼の足取りは軽く、今では目の前で肩を寄せ合いながら歩くカップルの背中を見つめても、なんら心が締め付けられることもない。


太陽の光を反射したアスファルトを見つめながら、彼は時折ビルの一階に建てられた商店街を眺める。家族連れやカップルが楽しそうに談笑しながら、ショッピングを楽しむ様子を、彼はどこか口元を緩めながら、余裕を持って眺める事が出来た。その姿はまるで大学入試に合格した受験生が、道端で下校している高校生たちを見ている姿にそっくりであった。


お昼ご飯を食べていなかった鯉川は、ふと思い出したかのように、商店街の一角にあった大衆レストランの扉を開いた。


「はーい、いらっしゃいませー」


ベルが鳴る音と共に店員の声が店内に響き渡る。鯉川はどこか不慣れな様子で店内を見渡した。


「お一人様で宜しいでしょうか?」


「あ、はい」


「それでしたらこちらえどうぞー」


運よく席が空いていたのか、鯉川はすぐに店員に誘導される形で個人用の小さなテーブル席に案内された。その間にキョロキョロと店内を見渡せば、やはり鯉川のような独り身は少なかった。本来ならこのような場所にはいかない。それは経済的な意味でも、精神的な意味でもだ。だが今の鯉川にはその両方において、自信と余裕が見て取れた。そのうちの半分は大分早とちりで根拠のないモノであったが、これまでの鯉川の人生のなかにおいては、限りなく確固たるモノであった。


「それではメニューの方お決まりになりましたら、お呼びください」


そういって深くお辞儀をした女性店員に彼はどこか笑みを浮かべながら会釈をした。

後ろを振り返った女性店員のお尻は、確かにそう悪くはなかったが、やはり彼女を見た後では物足りなさを強く感じた。そしてそう感じた自分を彼はなぞに誇らしくさえ思っていた。今の彼の状態を出来るだけ分かりやすく説明するのであれば、他の女性に鼻を伸ばさずに、たった一人の女性を愛する真摯で誠実な男だと、勝手に思っている勘違い男だろうか。ただやはり恋とは盲目である。彼は今この瞬間、自らの座右の銘である「己を知り、敵を知れる」を完璧に忘れていた。鯉川はどうも、佐々木ゆりなが絡むと自身を客観的に見れなくなるようであった。当然、本人がそれを知ることはない。鯉川のメニューを開く両手はどこか震えていた。まるで宝箱を開ける時のような興奮を身を包まれながら、メニューを開いた彼の両手はまた別の理由で震え出した。


人情デミグラス・ハンバーグ:100グラム4980円。一番最初に目に映ったこの文字に、鯉川は流石に三回も確認したが、数字は変わっていなかった。彼はレストランの天井につけられた照明を見つめる。外食がとても高いことは知っていた。様々な問題のせいで食糧価格が高騰していることも。それ自体はスーパーに買い出しに行けば痛いほど実感できる。だがそのせいで、10年前の中学一年生を最後に外食に行ったことがなかった彼は、今の大衆レストランが、彼の子供時代でいう所のミシュランレベルにまで高騰していることは予想すらしていなかった。


鯉川は呼び出しボタンを押すと、店員に5980円のデミグラス・ハンバーグセットを注文した。メニューには他にも多くの品が乗っていたが、鯉川はそれを読む気はなかった。しばしまって、小さな可愛らしいデミグラスハンバーグと、握りこぶし程のパン、汁気がやたら多く、色の薄いコーンスープが彼の手前に運ばれてきた。これでも鯉川がこれまで食べてきた料理の中では最高級の部類になるのだから、今の日本の食糧事情が、70年ほど前の北朝鮮三歩手前ぐらいにまで追い込まれていることは、想像に難くない。


やけに味の濃いデミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグを口に運ぶ。うまい。と鯉川は思った。これが廃棄寸前の屑肉や、大豆と混ぜ合わせた合成肉、もしくは人口肉であるか、それともメニューの文字通り100%牛肉であるかは鯉川には分からない。だが少なくともやたら味の濃いデミグラスソースの味がする肉の触感に、鯉川は満足げであった。普通に生きていたら、時間を忘れ、優雅に外食を楽しむこともできなかっただろう。それが今の自分であれば毎日のように外食三昧でもおつりがくる。鯉川は初めて冒険者になってよかったと実感できた。


「ありがとうございましたー」


店を後にした鯉川はなんとなくスマホの画面を開いた。ひび割れた画面には15時20分の文字。それを確認した鯉川はスマホをズボンのポケットにしまうと、口の中でデミグラスソースを探しながら、駅に向かって歩き出した。









◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「ああ、立川さんお忙しい所すみません」


「いえ、所長、それでどうでしたか?」


「…やっぱダメでしたよ」


「じゃあいつも通りやっときます?」


「うん、お願い。こっちでも出来ること色々やっとくから」


「わかりました」

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