業務開始

第4話 入社初日:業務準備

 仕事というのはすぐに辞められるものではない。

 うちの社内規定では退職は一ヶ月前に申し出れば良いとされているが、俺の場合は後任の選定から準備が必要だったので、それよりも前に申し出ておかなければスムーズな退職が難しい。

 そういった事情からテラサプライズへの入社は面接の日から一月半ほど待ってもらうことで蟹川様――もとい代表と合意した。

 それから引き継ぎなどに日々奔走してきた結果、ようやく今日、無事に合同会社テラサプライズへの入社を迎えたのだった。





「――よく来たな。ようこそ我が社へ」



 入社初日。

 雑居ビル2階にあるオフィスに出社すると、蟹川代表が面接の日に見たときと同じ格好・姿勢で出迎えてくれた。そのポーズとセリフが気に入ってるかどうなのかはわからないが、とりあえずは歓迎してくれていると捉えよう。



「今日からお世話になります」

「相変わらず固いな……まぁいい。そこが風戸くんの机だ。好きに使うといい」

「ありがとうございます」



 代表の机からは離れた位置にある2つの机のうち1つが俺の席らしい。向かい側にある席にはデスクトップパソコンとモニタが設置されているが、俺の席には何も置かれていない。とりあえず鞄を机の上に置いておこう。

 するとそのタイミングを見計らっていたのか――。



「ではこっちに来てくれ。渡すものがあるのでな」

「はい」



 代表の元へ歩いて近付く。



「ほら、プレゼントだ」



 そう言って手渡されたのは、名刺の束だった。

 この厚さだと100枚といったところか。業者に発注して作ってくれたらしくビニールで包装されている。



「営業と社外調整もしっかりやって貰うつもりだからな。それが無くては話にならんだろう」

「ええそうですね。ありがとうございます」



 営業にとって名刺の力は非常に大きい。とにかく手早く手軽、そして形に残るので渡してさえおけば例え細くても繋がりをもつことが出来る。今の時代デジタル名刺を導入しているところもあるが、やはり紙の名刺がまだまだ主流だ。



「では早速名刺入れに何枚か入れておきま――あれ?」



 名刺のビニール包装を剥がそうとしたところ、記載ミスに気がついた。



「ん、名前でも間違っていたか?」

「ああ、いえ。電話番号が私の番号になってるんですよ」

「? 何を言っているんだ? 風戸くんの名刺なのだから風戸くんの電話番号が載っているのは当たり前だろう?」



 心底不思議そうな表情をして俺を見る代表。どうやら俺の言いたいことは全く伝わっていないようだ。



「この番号は私用スマホの番号なんですよ。だから名刺には社用スマホの番号を載せておかないと」



 そこまで説明すると、代表は「ああ、そういうことか」と理解した様子を見せた後。




「社用スマホなんかないぞ。自分のものを使ってくれ」




 とんでもないことを言い出した。

 業務でスマホを利用することが多い営業職等には業務用のスマホが支給されるのが一般的だ。個人端末では会社側でのセキュリティ対策が取れないからだ。

 会社側で管理しているスマホであれば紛失時の遠隔ロックや、特定のアプリ以外のインストールを禁止するなどの措置が会社主体で取れるので情報漏洩のリスクが抑えられるが、個人スマホではそうもいかないため必然的にリスクが高まる。

 それに私用と業務を1つの端末で行うので、着信や通知が私用なのか業務に関するものかの判断が付きづらいというのが個人的には大きい。

 色々と覚悟して入社したつもりではあるが……とりあえず料金プランを通話料無料のやつに変えておかないとなぁ……。



「まぁそうがっかりするな。ほら、私の番号とRINEを教えてやる。暇なとき連絡するから構ってくれ」



 凄い。どこから突っ込んで良いのかわからない。

 とはいえ連絡先は必要なので教えてもらっておく。



「スマホは無理だがパソコンはちゃんと貸与するぞ」



 そう言って代表からノートパソコンを渡される。しかもちゃんとマウス付きだ。



「ふふ、キャストはみんな自分のパソコンを使っているからな。それに比べて特別待遇だと思わないか?」



 凄くドヤ顔だ。

 キャストはみんなBYODなのか。まぁゲーム配信とかパソコンのスペックが要求されることも考えると自分たちのものを使って貰うのは確かに合理的に思える。



「うちで使っているソフトも入れてもらわなくてはならんし、特別に私も設定を手伝ってやろう」

「ありがとうございます」



 作業スペースを確保するため自席に戻り、貸与されたパソコンの電源を入れる。

 その間に代表も自分の席からキャスター付きの椅子を座ったまま滑らせて俺の隣へと移動してくる。

 そうして起動を終えるとログイン画面が表示された。

 そして何故かアカウントユーザー名が「tanaka」となっている。……誰だ。



「……これもしかして前任者のデータ残ってます?」

「あー……そういえば消すの忘れていたな」

「なるほど。じゃあこのアカウントを消すところからですかね」

「いや待て。今後の参考になりそうなファイルが残っている可能性がある。消すのはそれを確認してからだ」



 確かに代表の言うことは最もだ。引き継ぎを受けられていない以上、俺としても残ったファイル等から情報を集めておきたい。ただ――。



「パスワードってわかりますか?」



 田中さんとやらが設定しているパスワード。それがわからなければログインが出来ない。



「どうせあいつのことだから”123456”とかそんな感じだな」

「えぇ……?」



 さすがにそれはないだろう、と思いつつも入力してみる。



「……通った」

「ふっ。私は代表だからな、従業員の考えることなどお見通しなのだよ」



 俺としてはセキュリティ意識の低さに驚きだが……あまり気にしないようにしつつ、アイコンで殆ど埋まってしまっているデスクトップ画面を見ながらどれを開くべきかを思案する。そして見つけたのが――。



「”後任者へ”っていうテキストファイルがありますね」



 代表にもわかりやすいようにマウスカーソルを”後任者へ.txt”のアイコンに合わせる。



「なんだアイツめ……なんだかんだ言って気にかけているではないか」



 どこか感傷気味に呟く代表。

 きっと代表と田中さんという方の間には新参の俺にはわからない何かがあったのだろう。



「よし開いてみろ」

「わかりました」



 ちゃんと引き継ぎ用のファイルも残してくれている辺り、少なくともトラブル的な感じの退職ではなかったのだと思う。ありがとうございます顔も知らない田中さん。あなたの作ってくれた引き継ぎ資料は俺が大事に使わさせて頂きます。

 そう思いながらファイルを開くと。





『ここはやばい。もう限界。あなたも早く逃げて』





 それだけが書かれていた中身を見て固まる俺と代表。

 そして少しだけ復帰の早かった代表が。



「失礼」



 とだけ言って、ノートパソコンの蓋を閉じ、電源アダプタとマウスをササッと抜き、そのままパソコンを持って代表の席に戻って。



「パソコンの準備ぐらいは私の方でやっておこう。考え直してみたところ風戸くんには先入観なく業務を遂行して欲しいと思ってね。いやなに礼には及ばない、代表としては従業員を大切にしないとなのでな。気にしないでくれ。するな」



 と早口で捲し立てるように言った。

 あのひらひらした服であそこまで機敏に動けるのか……。

 最早気になることしかないが、それを口にするべきかどうか迷っていると。



「この間に風戸くんは挨拶でも考えておくと良い」

「挨拶……なるほど。わかりました」



 その指示内容で次にやることというのは簡単に予想出来た。



「パソコンの準備が終わり次第――キャストたちとご対面といこうではないか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る