第7話 「虫」
「っしゃいませ~!」
扉を開けると、店員の威勢のいい声で迎えてくれる。
篠田浩司は店員の案内も待たずに、勝手知った様子で店の奥に入っていく。
居酒屋「
ここは、室谷コーポレーションの社員の多くが行きつけにしている店だ。
名前の通り信州の郷土料理と地酒を出す店で、値段が良心的なこともあり、会社帰りに一杯やるのにうってつけなのだ。篠田も週2回は来ている。
篠田がザワついた店内をきょろきょろ見回していると、
「おーい、こっちこっち」
と、少し離れたテーブルから声がかかった。見やると、赤い顔をした男が手招きしている。同じ営業三課で篠田の一年先輩にあたる、嶋だ。その向かいには同じく先輩の伊勢も座っている。
「あ、スイマセン先輩、遅くなっちゃって」
篠田が恐縮するでもなく席に着く。と、すぐに店員がオーダーを取りに来る。
「生ひとつね」
とりあえず生ビールを注文してひと心地ついた篠田にメニューを渡しながら、さっそく嶋が口を開く。嶋は酔うと、饒舌になるクセがあった。
「木下のやつ、まだ居たか?」
「いや、もう帰ったみたいですよ」
そう答えながら、やっぱりその話題か、と篠田は思った。室谷コーポレーションで今、一番の話題といえば、木下の奇行のことだった。
「あいつ、どーしちゃったのかねぇ」
伊勢も乗ってくる。
木下がおかしな行動を取るようになったのは、今から一ヵ月ほど前だ。篠田は事務の野田恵里から話を聞いた。
彼女の言葉を借りれば、「木下さんが、動物になった」と。その様子を目撃して倒れた田中洋子は、すでに退職していた。
篠田のビールが来て軽く乾杯した後も、その話題は続いた。
「俺もさぁ、見ちゃったんだよ」
嶋が嬉しそうに言う。
「え、なに見たんスか?」
篠田は一応、相槌を打つ。これも後輩の務めだ。
「あのなぁ、こないだ俺、木下と二人で残業してたんだけどさ、あいつ自分の肩のあたりを何回もハタいたりしてんの。んで俺、聞いたんだよ、どうかしたのかって」
そこまで言うと嶋は、ぐびっと喉を鳴らしてビールを飲んだ。そしていかにもイヤなものを見た、という表情で続ける。
「そしたらあいつ、『なんか、ちっちゃい虫が上ってくるんです』って…」
嶋は、いたずらっぽくニヤリと笑った。
それを聞いて篠田はゾッとした。実は篠田も似たような光景を見たことがあった。
その日の朝、篠田はたまたま木下と同じ時間に外回りに出た。駅までの道すがら、並んで歩く木下がやたらとソワソワして落ち着きがないので、「どうかしたのか?」と聞いてみたのだ。
しかし木下は「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと背中が…」と苦々しい顔で言ったきり黙ってしまった。
その後駅のホームで電車を待つ間も、木下は背中を気にしている様子だった。そして、たまりかねたように振り向くと、こう言った。
「篠田さ、悪いんだけど背中にいる虫、取ってくんない?」
***
「そういや篠田はアイツと同期だったっけ」
という伊勢の言葉で、篠田は記憶の世界から舞い戻った。
「仲いいんだっけ?」
伊勢が興味津々、という感じで聞いてくる。
「いや、仲がいいってわけでもないスけどね」
篠田がそっけなく答えると、伊勢はつまらなそうに鼻を鳴らして引き下がった。
正直、篠田はこの話題が好きではなかった。木下とは同時期に入社した転職組ということもあり、当時はよく一緒に酒を飲んだものである。その仲間意識ゆえ、現在会社の人間にオモチャにされている木下を見るのは忍びなかった。
それにもし仮に木下がおかしくなっていたとしても、その原因が石田課長のパワハラにあるのは明白だ。
「ま、でもあれだ。明日は我が身ってね」
イヤな空気を感じた嶋がその場をそうまとめ、話題は次第に仕事のことに移っていった。
篠田は先輩たちの話を受け流しながら、明日、木下と話してみよう、と密かに決意を固めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます