第6話 「痒み」

 翌朝の目覚めは爽快だった。ここ何日か見ていた悪夢も、この日は見なかった。

 時計を見ると、5時50分。いつもよりずいぶん早い時間だ。なにしろこの日の木下は、会社に行くのが楽しみだとさえ感じていたのだ。


 まるで遠足の日の小学生だな…。


 木下は心の中で自嘲気味につぶやくと、ごろりと横になって昨日読みかけになっていた本を開いた。

 いつもより早いとはいえ、本来ならばもう出社の準備を始めなければいけないところだが、木下はあえて昼から出社することにした。まるで自分をじらして楽しむように。


 ***


「ざいやーす」


 木下がいつものように挨拶しながら事務所のドアを開けると、昼飯時でそれまでザワついていた事務所の空気が一瞬、固まった。中にいた十人ほどの視線が、いっせいに木下にそそがれる。

 それに気付かないそぶりで、木下は自分の席につく。と、事務所のそこかしこでヒソヒソと話す声が漏れ聞こえてくる。

 おそらく昨日のことは、もはや周知の事実なのだろう。


 やっぱり女子社員の口ってのは効果てきめんだなぁ。


 木下は噂の広まる早さに少々あきれながら、狙い通りの展開にニンマリとして自分の席についた。

 田中洋子の姿はない。どうやら今日は休んでいるようだ。木下は少し残念に思った。


「おおい、木下ぁ」


 木下が上着を脱ぎ、自分の席に落ち着くやいなや、弁当を食べていた石田課長が大声で呼んだ。

 ほらきやがった。そう思いながらも、今日の木下には余裕があった。

 木下が石田のところへ行くと、石田は爪楊枝で奥歯をせせりながら口を開いた。


「お前、体調不良だってなぁ。その割に血色いいじゃねぇか」


 もちろん、心配して言っているわけではない。


「困るんだよなぁ、この時期に」


 この時期もなにもあったもんじゃない。木下は頭の中でそう毒づき、


「電話で連絡はしましたが…」


 と小さな抵抗を試みる。


「そういうことじゃねえんだよ!」


 いきなり石田の口調が怒気を帯びて激しくなる。木下は思わず身をすくめた。


「体調管理もできない奴ぁ売れねえって言ってんだよ」


 プッと、石田はくわえていた爪楊枝を、木下に向かって吐き出す。

 その瞬間、木下は左ヒジにかゆみを感じ、右手で掻きはじめた。


「お前だいたい風邪なんてひいてる場合かぁ? 自分の成績わかってんの?」


 左ヒジを掻く右手に力がこもる。

 ガリッ、ガリッ、ガリッ…。


「俺だって言いたかぁないんだよ。だけどお前が…」


 石田の説教が続くにつれ、木下の左ヒジを掻く勢いが激しくなっていく。


 ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリッ、ガリ、ガリガリガリ…。


 木下の耳に左ヒジを掻く音だけが大きく響き、石田の嫌らしい声を追い出してくれる。木下は執拗に右腕を動かしながら、いつしかうっとりとその音に聞き入っていた。


 ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリッ、ガリ、ガリガリガリ…。


「うわっ!」


 石田の大きな声で、木下はハッと我にかえった。

 見ると、石田が目を見開いて驚愕の表情を浮かべている。その視線は木下の左ヒジにそそがれていた。


 木下のYシャツの袖は、いつしか噴き出した自らの血で、真赤に染まっていた。

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