第8話 「Bar ル・シュール」
「今日、空いてるか?」
外回りから帰った木下を事務所の入り口でつかまえ、篠田はそう声をかけた。
「…あ、ああ、いいけど」
木下は少し驚いた様子を見せていたが、すぐにそう応えた。
最近では会社中の人間が、木下を腫物に触るように扱い、なるべく接触を避けるようにしていた。そんな折の急な誘いに少し戸惑ったのだろう。それはいたってマトモな反応だと、篠田の目には写った。
「じゃあ『ル・シュール』で待っててくれないか。俺、もう少しかかりそうなんだ」
「ル・シュール」とは、会社から少し離れた場所にあるバーである。同期仲間の知り合いがやっているとかで、2~3度飲んだことのある店だ。会社の人間はほとんど来ることはないだろう。
さすがに篠田も、木下と二人でいるところを会社の人間に見られたくはなかった。
「ああ、わかった」
木下は抑揚のない声でそう言うと、ぶつぶつと口のなかでつぶやきながら席に戻っていった。一瞬、篠田の脳裏に、木下との駅での会話が蘇る。
背中に感じた寒気を打ち消すように、篠田は肩をすくめた。
***
バー「ル・シュール」は、地下にある。
階段の入り口にはタルを模した看板がひっそりと出ているだけで、誰もそこにバーがあるなどとは思わないだろう。まさに大人の隠れ家的な店であった。
その、闇にのびる階段を降りながら、篠田は奇妙な思いに囚われていた。もう一人の自分が、引き返すなら今だぞと、頭の中でささやくのだ。
しかしその言葉とは裏腹に、おかしな責任感が篠田の足を動かし続ける。
さして段数もない階段である。しかし篠田には、バーの入り口に至るまでのその時間、とてつもなく長く感じられた。
木造りのドアを押して、低くジャズの流れる店中に入ると、カウンターの一番奥に木下の姿を見つけた。篠田は隣に座ると、ハイネケンを注文した。
「悪いな、急に」
「いや、大丈夫だよ」
酒が入っているせいか、木下の顔は先ほどの無表情とはうって変わって人間らしさを取り戻していた。それを見て篠田は、ほっと息をついた。
「ところで、今日の目的はなんだよ?」
木下がニヤリと笑いながら、核心をついてくる。篠田は一瞬、見透かされたような気がして動揺したが、語気を強めてこう切り出した。
「お前、病院行ったほうがいいんじゃないか?」
「はっ! あっははははっはっははは…」
それを聞いた瞬間、木下は弾かれたように笑いだした。
その声はとても、落ち着いた雰囲気のバーにふさわしいものではなかった。
「お、おい。大声出すなよ」
篠田は慌てて制止した。店内の客から、容赦のない冷たい視線を浴びせられる。
「ああ、悪い悪い。いや、相変わらず単刀直入だなぁと思って…」
可笑しくてたまらない、といった表情で木下が言う。目には笑いすぎて涙がにじんでいる。
篠田は呆気にとられて木下の顔を眺めるしかなかった。
と、そんな篠田の表情を察してか、木下が急に真顔になる。そして、ひと口ビールで喉を潤すと、こう言った。
「あれは全部、演技なんだよ」
唐突な言葉に、篠田は一瞬、その真意がつかめなかった。木下は構わず続ける。
「みんな、俺が狂ったと思ってるだろ。狙い通りだよ。我ながら迫真の演技だった。俺、演技の才能があるのかもなぁ」
そこまで聞いて、篠田にもようやく飲み込めた。つまり、あの奇行は、全てウソだった。
演技だったということだ。周りに自分を狂人だと思わせるための。
「な、なんで?」
篠田はそれだけ言うのがやっとだった。木下の発する異常な空気に触れ、息が苦しい。
「知ってるか? 刑法第三十九条。『心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス、心神耗弱者ノ行為ハ其刑ヲ減刑ス』。狂ってる人間は何をしたっていいってことだ」
ニヤニヤと笑いを浮かべた木下の目に、幻しい光が宿る。
「つまり会社の人間が俺を狂ってると思う限り、俺は何をしたって罰せられないってことだ。たとえ会社で暴れて誰かに怪我を負わせたとしても、だ。わかるか? 例えば石田課長をブン殴ったとするだろ? いや、刺しちゃってもいいかな。ヒャハッ!そりゃいいや、あんなヤツ死んだって泣くやついねえしなあ。それでも俺はおとがめナシってわけだ。会社だって表ざたにはしたくねえだろうしな。『社員が狂って上司を刺しました』なんて人聞き悪いしなぁ。これは俺の復讐なんだよ、石田への、会社への、会社の人間への…」
木下の興奮は止まることを知らず、もはや篠田の存在など忘れてしゃべり続けている。
こいつ、狂ってる!
篠田は確信した。そしてこんな場所で狂人と一緒にいる自分の軽率さと運命を呪ったのだった。
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