💔19 蹂躙

「ソトツ……!」


 屋上のとうの上をあおぎ、潘尼バンニと呼ばれた長身でそうの男が見とれるようにつぶやいた。


 屋上の塔屋の上に浮かんでいたシグも、潘尼の側を見おろしていた。見ていたのは潘尼の足もとに横たわる青い衣装の魔法少女と、そのそばに広がる、白金の布地となにかの肉の混ざりあう血だまりのほうだが。


……そうせい明日瑠あする……」


 機械的にふたつの名を口にすると、シグの目は目下の魔法陣へと向かった。まぶたのないはずの黒い目が、こころなしか細まる。


「なるほど。魔法を完成させてしまったんだね。きみたちを信じていなかったよ、八木豆磨理」

「お初にお目にかかります」


 突然、潘尼が声を張った。慇懃いんぎんに、しかし、あくまで自分たちに視線を当てないシグに対し、ややじれたようでもあった。


「ごきげんよう、ソトツヒの。わたしは潘尼。あちらの黒いのは魚卑似オビニと申します。急かすようでおそれいりますが、ひとつ確認を……」


 シグは問い返さないが、視線が向いたのを悟って、潘尼はたずねた。


「残りはいくつですか?」

「……答える義理はないね」


 抑揚よくようなく、にべもなくシグは返す。

 潘尼はしかし、むしろ気をよくしたように、薄く相好そうごうを崩した。


「それはそうでしょう。義理があるようならとうにわれわれは接触できている。われわれは新参ですが、聞く限りで百年余り、実質には千年、つけ入る隙は万にひとつとありえなかった。いまも確かなことといえば精々せいぜい……ふたつ減らせたこと」

「きみたちをほふるには十分だ」


 潘尼の口ぶりを牽制けんせいと取り、シグは即座に一蹴する。

 潘尼はますます興奮気味に、抑揚のきいた声で応えた。


「それもそうでしょう。が、あなたが真に万全であるなら、わたしも魚卑似もとうにみそがれているはず。そうなっていないのは、あなたが大マガツヒ二体を相手に、劣らずとも勝りかねると案じているため。空間転移、音速移動、高精度全域走そう、そして反物質光線無限連射。ほかにもいまできないことが?」

「たぁぁのしそぉだねぇ、潘尼」

ぐうどう! シグ!」


 半ば呆れたようないないようなニュアンスで、異形の喪服女、魚卑似が相方へ水を差した――そのとき、階段側から誰か飛びだしてきた。


 出てすぐ、目の前の汚れた魔法陣と血みどろの惨状に気がつき、また見知らぬ僧衣の男がたたずんでいるのを見て、その学生服は言葉をうしなったのだろう。足を止めた彼の頭上に大きな影が差したのは、間髪入れない直後だった。


ぇぇぇがぁぁぁぁ……」


 みにく間延まのびした声とともに、黒く巨大な五指が空に広がる。


「すぅぅぅべったぁぁあアアアアッッッ!!」


 人体を一瞬で輪切りに変えるその一撃を、人の動体視力でとらえられたのも奇跡だろう。

 目を閉じ顔をかばった少年の髪に触れかけたところで、魚卑似の黒爪はすさまじい衝撃音とともに食いとめられた。割って入った小さな白い影によって。


「やらせないよ、朱鐘は」

「ほう」


 ヒトの赤子より小さなシグの手が、大人も包めそうな五指を押しかえす。それでほとんど吹きとばされるように跳びすさった魚卑似を見て、相方の潘尼のほうが感心したように息をついた。


「やはり速い……だが、遅い」


 潘尼が言い終える前に、尻もちをついた朱鐘の真上に浮かんでいたシグを、濁った水塊が真横から襲った。潘尼がひそかに袖をまくっていた片腕が、溶けたように消え、断面から灰色の水が垂れている。


 水塊は潘尼の意思で動き、獲物を宙へ拘束する。それを見た魚卑似が歓喜の奇声をあげ、再び飛びかかっていった。


「とぉぉぉったぁぁあああああああ!!」


 黒がねの両手のひらが、濁った水塊ごと中身を叩きつぶす。

 飛び散った灰色の水が、朱鐘のがく然とした顔を、そして魚卑似の髪の隙間からのぞくいろの目をしとど汚した。


「言ったじゃないか」


 その、魚卑似の背後から、幼い声がする。


「きみたちをほふるには十分だって」


 魚卑似が笑みを消し、口の裂けているほうへ振りかえろうとした。

 その横顔を、白い光の槍が貫いた。


 魚卑似は振り向きざま身をよじったようにも見えた。だが光の槍は魚卑似の輪郭を追うようにふくらみ、光弾となって魚卑似の半身を飲みこんだ。

 あとに残ったのは、頭部と肩周りを大きく欠いた体。光弾に触れた部分はちりも残さずかき消え、背後の塔屋の屋根までスプーンですくわれたようにえぐれている。


 その断面から黒い砂のようなものを噴きながら、魚卑似の体は枯れ木のようにかしいでいった。飛び散った灰色の水がそれを抱きとめ、押し流すようにしてシグたちから遠ざかる。

 流れながら集まり量を増やした水は、やがてその一部をどす黒く濁らせた。ちょうどそこが粘土のように形を変え、法衣をまとう長髪の男の上半身をかたどる。



「その速さ……」男はシグを見てつぶやいた。

「ふたつ減らしてなお? いや……まさか、予備?」


 潘尼の額に浮かぶ水滴は、あやつる水のためか、はたまた焦りの相か。潘尼の顔は平静なままだが、気配には警戒がにじむ。


貪食どんしょくとは、悪趣味ですね。ですが、魚卑似を一撃でみそぎきれなかったこと、同時にわたしにまで手がまわらないことを見るに、万全でないことに変わりはない様子。すなわち、予備はひとつきり。それもいま使ってしまった、と――」

「きみには聞きたいことがあるだけだよ」

「答える義理はありませんが?」

「それでもいいけど」

「よくはありません」


 潘尼は明白に嘲笑ちょうしょうした。


「ふたりがかりで押されたうえに片方落とされては、当然のように分が悪すぎます。ここは退かせていただきましょう」

「逃がす義理もないんだけど」

「善処いたします」


 潘尼が再び水に還りながら、魚卑似を巻きこむ水柱となって立ちのぼる。


 間髪入れず光弾を抱えたシグが柱に突進し、駆けぬけた。水柱は中ほどで断ち切られたが、ふたたび細くつながり、らせんに渦を巻いて空へ溶けていった。

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