信頼され過ぎて、逆に胸が痛い
「行くよ、ジーク」
「うん。頑張って」
シュナイフォード邸の庭にて。
背の高い植物は生えていない、よく整えられた広くて平らな場所に、私たちは立っていた。
ガーデンパーティー等を開くときはここを使うから、本来の用途はそれなんだろう。
とにかく、走るのに十分なスペースがあり、凧が引っかかるものもない。場所よし。
今日は晴れていて少し風がある。天候もオッケー。
私も夫も運動しやすい服に着替え、準備万端。
そう、今日は楽しくダイエットを目指して凧揚げをする日だった。
「カウントが0になったらスタートね」
「わかったよ」
せっかくなら共同作業にしたいから、まずは二人で協力して凧をあげることにした。
配置と役割はこうだ。
私が糸を持って前を走り、凧を飛ばす係。
ジークベルトは凧を持って後ろを走り、タイミングを見計らって離す係だ。
「3、2、1……0!」
私なりに頑張って走りだす。
そのうち、彼が「そろそろ離すよー」と言ってきたから、絶対に飛ばすという強い意志を持って了解の返事をした。
宣言通り凧を離す彼。気合いを入れて更に走る私。
凧は少しだけ浮き上がり……くるくると回って墜落した。
……うん、仕方ない。
今冬初めてで、最初から成功するとは思っていなかった。精神へのダメージはない。
「ジーク、もう1回!」
「はいはい」
2回目、3回目、4回目……。
何度かチャレンジしても高く飛ばすことはできず、私たちの体力だけが削られていく。
「少し休むかい?」
5回目も失敗した私に、彼が手を差し伸べる。
「だ、だいじょ……ぶ……」
膝に手をついてぜえぜえと呼吸を乱す私と、けろっとしている彼。
あれだけ走ったんだから、この人も疲れてる……よね?
ジークベルトは男性だから、妻の私に弱った姿を見せたくないんだ。きっとそう。
私だって、疲れているように見えてもまだまだやれる。
成功するまで諦めたくない。
続ける意思を見せたけど、
「ちゃんと休むのもコツのうちだよ」
と糸と凧を奪われてしまった。
どちらも手元にないんじゃあ、続けようがない。
取り返そうとしたって、背が高く腕も長いこの人に、ひょいと道具を持ち上げられて終わりだってわかっている。
そんなことをされたら、私が助走をつけて飛んだって取り返せない。
そうやって遊ばれて、無駄に体力を消耗するぐらいなら……。ここは大人しく引こう。
「……じゃあ、少し休憩しようかな」
「素直だね。返してって言うと思ってたのに」
「そう言ったら返してくれた?」
「返さないね」
「だと思った。身長差を利用して遊ぶんでしょう?」
「どうかな? ……まあ、少し休憩して欲しいのは確かだよ。最初から頑張りすぎるのもよくないんだ。無茶をしていると思ったら止めるよ」
空いている手で、ぽん、と頭を触られる。
「ずっと君のことを見てきたから、止めた方がいいタイミングはなんとなくわかるんだ」
「ん……」
そんなことを言われたら、彼に従うしかない。
この人が見ていてくれるなら、これから先も安心して暮らせる。そう思えた。
手のひらから伝わる感触がなんだかとても愛おしくて、ずっとこうしていたいなあなんて思っていると、
「よし、あっちで少しお茶でもしようか」
彼がある方向を指さした。
「お茶……?」
そちらへ視線をやれば、テーブル、椅子、茶器にお菓子といったお茶会セットが庭の一画で展開されていた。
「え、今……? この季節に外で……? この格好で……? 思いっきりお菓子も出てるけど、ダイエットのために凧揚げするって言ったよね……?」
「せっかくの休暇なんだから、やりたいことを二人ともやれた方がいいよね?」
ジークベルトが笑みを深めた。私はうぐ、と言葉に詰まる。
彼は怒っているわけじゃない。
怒ってない、けど……「君がやりたいことを一緒にやってるんだから、僕がやりたいことにも付き合ってくれるよね?」みたいな……。そういう圧を感じる。
「ソウダネ……」
「決まりだね」
運動して喉が渇いていることを考慮したのか、お茶はすぐに飲める温度に調整されていた。
走ったあとのお菓子も美味しい。
上に羽織るものもしっかり用意されていた。
寒空の下だけど、こういうのも意外とありかも……。
***
休憩を済ませた私は、凧をあげようと再び奮闘する。
ジークベルトの協力があってもダメ。一人でもダメ。
ぜえぜえ言い始めた頃、「休憩」のためのお茶が始まる。
前の冬は成功した記憶がある。だから今年は楽に飛ばせるかも、なんて思っていたけどなかなか難しい。
凧揚げとお茶を何周かしたときには、心身共に疲れが蓄積されていた。
せっかくの美味しいお茶とお菓子の前で、盛大なため息をついてしまうぐらいには。
そんな私を見たジークベルトがすっと立ち上がり、凧を持って庭の中心へ向かって行く。
そして、短く糸を持って走り出し――
「一人だとあがるんだ……」
高く高く、見事に凧をあげてみせた。
くいくいと糸を操る夫を見て、過去の記憶が掘り起こされる。
今までも凧揚げに成功したことはあった。
でも、それらは全てジークベルトが飛ばしたもので、私は既に風に乗っている状態で遊ばせてもらっただけだった。
私だけじゃできないとは思っていたけど、ここまでセンスに差があるとは……。
「アイナ! 飛んだよ! 持ってごらん!」
離れた場所で夫が手を振っている。
なかなか飛ばせない私に代わって、この状態まで持っていってくれたみたいだ。
気を遣ってくれてありがとう。その気持ちはとても嬉しいんだけど……。
私は何度やってもダメだったのに、あなたが一人でやったらぐんぐんのぼっていくなんて……。
「アイナー! ほら、おいで!」
悔しさを噛みしめる私に向かって、夫は元気に手を振り続ける。
せっかくお膳立てしてもらったのだ。無視するわけにもいかない。
なんともいえない気持ちを抱えながら彼の元まで行き、交代してもらった。
自分で糸を操った感想は、「あ、楽しい……」だった。
確かに楽しいけど、やっぱり情けない気持ちにはなる。
「……凧揚げらしくしてくれてありがとう。やっぱり、飛ばせた方が楽しいです。……でも、来年は自力でここまでやれるといいな」
「できるようになるまで、来年も再来年も付き合うよ」
「うん。……できるようになったら、一人でやらなくちゃダメ?」
そんなこと言われないとわかっているけれど、巻き込んでいる自覚はあるからそう聞いてみた。
彼はちょっと考えてから、こう答える。
「君が自力で飛ばせるようになったら……。そうだな、どちらか高く飛ばせるか勝負でもしようか。多分、僕が勝つけどね」
「私を下に見てる……」
「はは……」
「否定しないんだ……」
そうして満足したところで、凧揚げは終了した。
悔しい気持ちにもなったけど、楽しく運動できたからやってよかったと思っている。
私みたいな人は、遊びながら楽しく、気楽にやるところから始めないと、運動なんて続かないのだ。
今日だけじゃあまり効果はないかもしれないけど、この感じで続けていけば体重も落ちるだろう。
凧をあげたい一心で結構走ったし、それなりにカロリーを消費できたと思う。
達成感とともに屋敷へ戻る途中で、ふと気が付いてしまう。
消費しても、そのぶん飲み食いしていたら意味ないんじゃない? と。
「ん……?」
走って疲れたらお茶とお菓子をつまんで休んで……また走って……。疲れたらやっぱりお茶とお菓子を……。
お茶にも砂糖が入っていたし、お菓子も甘さやカロリーが控えめな感じはしなかった。
――今の方が触り心地がいいから問題ないよ。
これは、数日前の夫の言葉だ。
もしかして、最初から減量させるつもりはなかった……?
「……流石に考えすぎだよね」
「どうしたんだい?」
「ううん、なんでもないの。ただ……。今、あなたを疑いそうになっちゃって」
「……」
「ジーク?」
「いや、少し胸が痛いだけだから気にしなくていいよ……」
「大丈夫なの?」
「うん、大丈夫なやつだから……」
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