(8)
清太はその場所に近づくと、バイクのエンジンを止めた。防水ケースに入れたスマホで位置情報をもう一度確認する。結羽はやはりその場所から動いていない。
そこは風吹川と
(ここなのか……?)
雨は止んだが、厚い雲に覆われて辺りは薄暗くなっている。人の気配も全くない。位置情報が示すもう少し先の方に走って近づいていく。すると、土手を降りていく砂利道の先に何かがあるのが見えた。それは、緑色のシートをかぶせた車のようだ。近くに来るまで土手の草の色と同化していて全く分からなかった。
そこまで来た時、誰かの声が聞こえてきた。
「オラア!」
男の喚き散らすような声だ。見ると、その車の脇から何かが飛び出してきた。そしてその後ろから大きな男が現れる。慌てて土手の草むらの中に座り込んで、そっと見ると、男はこちらには気づかずに川に近い草むらの方に向かっていく。それを見て、急いで車に近づき、掛けてあるシートを少しだけめくり上げた。すると、窓の向こうに、結羽が車の中で手足を縛られて座っているのが見えた。
(逃げきれるか?)
少し考えてみたが、自分だけならともかく、あれだけ縛られている結羽を連れていくのは無理だ。そう思った時、その車のエンジンがかかっているのに気付いた。
(そうだ。鍵を捨ててしまえば――)
車が動かなくなれば、あの犯人もこのような人気のない場所から結羽を連れて逃げることはできない。仮に走って逃げたとしても、車が証拠になりすぐに逮捕できるだろう。それに、結羽の母にもきっと連絡がついているだろうから、警察もすぐにやって来る。そう思って、清太はそっと助手席側のドアを開けて車に乗り込んだ。そして、ハンドルの脇についている鍵を回してエンジンを止め、鍵を引き抜き、すぐに車の外に飛び出した。
その時、川に近い場所にいた男がこちらを振り返った。
「何だ? テメエは」
男がこちらに体を向ける。その睨むような視線にドキッとしたが、清太は腕を振り上げ、土手の反対側の方に向かってその鍵を思い切り投げた。
「鍵は捨てた! これでもう逃げられないぞ」
必死にそう言うと、「鍵?」と男は繰り返してから、ハハハと笑い出した。
「馬鹿じゃねえの! そんなもの、1本だけしか持っていないとでも思ってたのか?」
「えっ?」
「何だよ。弱そうな男一人じゃねえか。彼女を助けにでも来たつもりか」
男が睨みながらこちらに近づいて来る。慌てて周りを見回すと、竹の棒が何本か転がっていた。それを急いで拾い上げて男に向ける。
「そんなものでやろうとする気かよ。ハハハ! 呆れるぜ」
「くっ……オラア!」
夢中でその竹の棒を振り回す。すると、男は素手でそれを受け止めた。
「危ねえなあ」
そう言いながら、今度は逆に男の力でその竹の棒を引っ張られて、思わずそこに倒れてしまった。カラン、と音を立てて竹が地面に落ちる。
「おいおい。しっかり持ってなきゃだめだろ」
男がニヤニヤしてこちらに近づいてくる。すると、突然男が悲鳴を上げた。
「イテエ!」
見ると男の頭の方に何かが乗っていた。三毛猫だ。その細い足でしっかりと髪につかまり、その爪で頭から額を引っかいているようだ。それを見て、慌てて立ち上がり、近くにあった別の竹の棒を手にして男と距離を取る。そこでようやく男は猫を振り落とした。
「クソッ……何なんだ」
男はこちらを睨んでから、ポケットからサバイバルナイフを取り出した。ふと手元を見てドキッとする。今、手にしている竹の棒は、さっきよりも短そうだ。
「フフ……そっちがその気なら、やるしかねえな」
男がニヤニヤしながら言う。そして、ナイフを握ったまま、こちらに一歩ずつ近づいてきた。
「さあ……早く片付けて、楽しませてもらわねえとな」
目の前に近づく男の体が大きい。その威圧感に胸の鼓動が速くなり、一歩後ずさりする。
その時、誰かの言葉が聞こえた気がした。
『心が強ければ、実力以上の強さを発揮できる』
そうだ。平野先生が言っていた言葉だ。
(俺は……大切な結羽を、コイツから絶対に守るんだ)
剣道の実力は未熟だ。力だってこの男よりは絶対に弱いだろう。しかし、心だけは、結羽を助けたいという気持ちだけは、この胸の中に誰よりも強く持っている。
そう思うと、深呼吸してからもう一度その竹の棒を竹刀のようにギュッと握り直し、男に向かって真っすぐに構える。その時、男の足に何かが飛びついた。
「イテッ!」
男が少しだけよろめく。その瞬間、男の方に思い切り駆け寄り、左足で地面を蹴って前に跳んだ。
「面っ!」
どうなったのかよく分からなかった。真っすぐに跳んですれ違った男を振り返る。すると男は頭を抱えてその場に座り込み、そして地面に倒れた。
その時、川に掛けられた長い橋の上を、赤色灯を光らせたパトカーが何台も近づいて来た。それは次々にこの土手の方に向かってきて停まると、そこからバラバラと警察官が駆けてくる。そして、倒れている男をあっという間に取り囲んだ。
「大村僚。17時30分、未成年者略取の現行犯で逮捕する」
そう言って、手錠をかける音が聞こえた。すると、一人の警察官が清太に近づいてきた。
「君が、斎木清太くんだな。ちょっと話を聞きたいんだが……」
そう言いかけた警察官の声を聴きながら、ハッとしてさっきの男の車の方を振り向いた。後部のドアが開けられて、その周りを警察官が囲んでいる。そこに急いで駆け寄っていく。
「結羽!」
叫びながらそこに近づくと、制服姿でバスタオルのようなものを掛けられた結羽が座っていた。その隣には女性の警察官が寄り添うように座っている。結羽がこちらを見上げる。
「清太――」
その小さな声を聞いて、夢中でその正面から彼女を抱きしめた。清太の腕の中にしっかりと彼女がいる。自分は結羽を守ったのだ。
「ありがとう。……私、大丈夫だよ」
「うん。……良かった。無事で」
そう言って何度も頷く。彼女の温かな頬に、自分の頬をすり寄せる。彼女の濡れた制服越しに、その体温が清太の中にしっかりと伝わって来るのが分かった。そしてそれは、彼女もきっと同じだ。
すると、隣から大きなため息が聞こえてきた。
「ねえ……そろそろいいかな。彼女、風邪ひくわよ」
ハッとしてその方を見ると、女性の警察官が冷静な表情でこちらを見ていた。慌てて「すみません」と頭を下げると、彼女は隣に置いていた厚手の毛布を結羽の体に掛ける。
「じゃあ、行こうか。歩ける?」
女性警察官が促すと、結羽は頷いてから、毛布を掛けたまま歩き出した。空の雲の切れ間から夕焼け空が少しだけ見えていて、さっきより辺りも明るくなってきた。結羽は、停まっていた警察のバンのような車に乗り込み、その後ろから女性警察官が乗り込む。そして、ドアを閉めようとした時だった。
「ああ、そうだ。君」
女性警察官がその細い目でじっとこちらを見つめてきた。その怒っているような表情にドキッとする。
「な……何でしょうか」
「なかなか良かったよ。さっきの
彼女はそう言って、フフっと笑ったように見えたが、ドアがすぐに閉められて中の様子は見えなくなり、車は静かに走り出した。
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