(3)
その日、清太はハッとして起き上がった。エアコンは動いてはいるが、体中に汗をかいている。
(何だ――)
なぜかとても怖い夢を見た気がする。内容は全く覚えていないが、絶望的な感じだけが強く残っていた。カーテンの向こうからは陽射しが注いでいて、枕元に置いたスマホの時計は7時少し前を示している。ベッドから降りて着替えようとした時、ふと机の上のものに気づいた。
そこには、昨日貰った結羽からの手紙が置かれていた。何気なくそれを開き、もう一度その文面を読んでいく。そこには、彼女の優しい文字が並んでいる。その言葉がゆっくりと清太の中にしみ込んでくるようで、さっきまでのどこか重苦しい感じがなくなり、頭の中がスッキリとした気がした。
準備を終え登校しようとして、玄関の引き戸を開けた時だった。玄関のすぐ脇に、白猫と三毛猫が並んで座っていた。三毛猫がニャアと鳴き、続いて白猫も同じように鳴いた。白猫を見かけたのは一昨日だっただろうか。今、白猫の隣には同じような毛並みをした三毛猫も座っている。並んでいるところを見ると夫婦なのかもしれない。
(そうだ。結羽に——)
結羽からの手紙に、スマホのメッセージだけでストレートに答えるのはやめようと思っていた。少しでも早く、結羽と直接会って、ゆっくりと話をしたかった。ただ、手紙を貰って何も答えないのもおかしいので、この猫たちのことをとりあえず話題にすればよいのではないか。そう思って、スマホを取り出して、そこに座り込み、その2匹の並んだ写真を撮影する。そして、メッセージを打ち始めた。
『おはよう。手紙ありがとう。今、玄関先に可愛い白猫と三毛猫がいたよ。今日もよかったらウチに来て』
それに先ほどの写真をつけて送信してから、三毛猫と白猫の頭を撫でた。
その時だった。
――お願い、私を……。
ドキッとした。一瞬、結羽の声が聞こえたような気がした。思わず立ち上がって周りを見回すが、誰の姿もない。
(……な訳ないよな)
そう思いながら猫達を見下ろすと、白猫も三毛猫も黙ってこちらを見上げている。その時、玄関から母が出てきた。
「まだいたのかい? 遅刻するよ」
「あっ、ああ。ここに、白猫と三毛猫がいるんだけど」
「猫? ……ああ、今日は三毛猫もいるのね。可愛いねえ」
母はそこに座り込んで三毛猫の頭を撫でた。
「あれ? この三毛猫はオスね。へえ、珍しい」
「珍しい?」
「そうよ。三毛猫のオスってかなり少ないって聞いたことがあるよ」
母はそう言ってからすぐに立ち上がると、「早く行きなさいよ」と言って自分も軽トラに乗り込んだ。スマホの時計を見るといつもの出発時刻を過ぎている。慌てて納屋の方に駆け出し、バイクに跨りヘルメットを被ると、エンジンをかけてバイクを発進させた。
学校に着いて席に座ってから、何気なくスマホを見ると、結羽からの返信が届いていた。
『おはよう。可愛い猫ね。そう言えば、ウチの方にも少し前に可愛いオスの三毛猫がいたわ。じゃあ、今日も学校が終わったら行くね』
その文章とともに一枚の写真が送られてきた。それは、気持ち良さそうに寝ている三毛猫の写真だ。
(オスの三毛猫……?)
今朝、玄関先にいた三毛猫のことを思い出した。オスの三毛猫はかなり珍しいと母は言っていた。隣町とはいえ、そんな珍しいオス猫が、しかも野良猫として、そんなにいるものなのだろうか。改めて結羽から送られた写真を見てみると、三毛猫の茶色と黒と白の柄が、何となく今朝見た三毛猫と似ているようにも思える。しかし、バイクに乗れば10分もかからないとはいえ、結羽の家と清太の家では猫の行動範囲としては広すぎるだろう。そう考えていると、ガラガラと教室の戸が開いて、教師が入ってきた。
******
放課後になり、生徒達は次々と教室から出て行く。清太はリュックサックを背負って帰ろうとしていたところで、担任の遠藤先生に呼び止められた。
「斎木。他のクラスの先生から聞いたが、昨日、揉め事があったというのは本当か」
「い、いえ……大丈夫です」
「そうか。お前が熱くなるなんて珍しいな。まあ、何か俺に相談したいことがあれば、言ってくれ」
遠藤先生はそれだけ言って教室を出て行った。先生が昨日の体育の事とその後の事をどこまで知っているか分からないが、良くも悪くも、遠藤先生はあまり生徒に口うるさく指導することはないので、彼らしいと感じた。しかし、それが今回はありがたいようなそうでもないような気持ちになり、清太は思わずため息をついた。
廊下に出で歩きながら窓から外を見ると、雨が降り出していて、南アルプスの手前にある山までどんよりと雲で隠れている。何気なく1組の教室の前に差し掛かり中を覗くと、まだ生徒は何人か残っていたが、結羽も、賢斗も美弥もそこには居なかった。
玄関から外に出てスマホを見るが、結羽からのメッセージは特に来ていない。そこで何気なく、今朝撮った2匹の猫の写真を画面に表示させた。
(三毛猫と、白猫か——)
もう一度、結羽とのチャット履歴を見ていた。座っている白猫。座っている三毛猫。横になっている三毛猫。
(もし、同じ猫だったら……)
猫にしてはかなり離れた場所を行き来するオスの三毛猫。そして、その隣には白猫。
その時、後ろから肩をポンと叩かれた。
「よう、清太」
ドキッとして振り返ると、そこに藤山が立っていた。彼はニヤッとすると、こちらに近づいて小声で言う。
「お前、やるじゃん」
「えっ?」
「相当、美弥に言ってやったんだろ? いやあ、本当に俺もそこにいたかったぜ。それにしても、お前があの美弥を振るとはなあ」
「い、いや……それは」
「それに、あの1組の三田っていう奴にも飛びかかったんだろう? お前もなかなか熱いね。見直したぜ」
「えっ?」
藤山は歩きながら楽しそうに言ったが、それは事実ではない。確かに賢斗の手は勢いで振り払ったが、ただそれだけであり、喧嘩をした訳ではない。おそらく、話に尾ひれがついて広がっているのだろう。それに「違う」と答えようとしたときだった。
(賢斗に……?)
ふと、賢斗の胸倉を掴んだような記憶が蘇ってきた。いや、彼とそんな険悪な場面になった事はない。しかし、いつか、どこかの暗がりで、彼と喧嘩になったような記憶が思い出された。そして、何かの絶望的な感情が爆発したような記憶。涙が止まらなくなった記憶。
「どうした?」
立ち止まった清太に、藤山が不思議そうに尋ねてきた。その藤山の方に顔を向ける。
「ごめん。俺、今日は帰る」
「おっ、おい?!」
驚く藤山にそれだけ言うと、清太は逆方向に向かって走り出した。
漠然とした何かの不安があった。それが一体何なのかは分からない。しかし、何かが起こってしまう。そして、そのことをなぜか自分は知っていたような気がする。
それに、今朝、白猫に触れた時に聞こえたような気がした声。そんな事があるはずはないのだが、あの猫達は自分に何かを伝えようとしていたのではないか。とにかくもう一度、あの猫達に会いたい。そうすれば何かを思い出せるような気がした。そう思うと、清太はいても立ってもいられなくなっていた。
駐輪場に着き、百均で買ったカッパを羽織ってから、急いでバイクを発進させた。初めのうちはまだ小雨だったが、次第にそれが強くなっていく。少しシャツの袖が濡れてきたが、そんな事は全く気にならない。
(現実じゃない……だけど)
おそらく、何かの悪い夢の記憶なのだろう。しかし、どうしてもただの夢だとは思えない嫌な感じがしていた。雨の音がパチパチとヘルメットに当たる音を聞きながら、清太はバイクのアクセルのスロットルを回し、バイパスを全速力で走っていく。
自宅に戻り、家の周りで白猫と三毛猫の姿を探した。しかし、その猫達の姿は見つからない。雨がかなり降っていたので、屋根のある場所にいるのではないかと思ったが、どこにもいない。清太はため息をついた。よく考えれば、飼っている猫でもないので、この家にずっといる訳でもないのだ。それに、その猫達を見つけたところで、一体何が分かるというのだろう。訳の分からないまま、学校を飛び出して帰ってきた自分はどうかしていたのかもしれない。カッパからしみ込んできた雨が、清太の心を急激に冷やしていく。
(まあ、いいや。もう少ししたら、結羽も来るだろうし)
今日も彼女は安那の家庭教師のためにここに来ると言っていた。スマホを取り出して時刻を見ると、既に4時半を過ぎている。いつもなら、安那は5時頃になれば帰宅するので、結羽もその頃にはここにやってくるだろう。家庭教師が終わったら彼女とゆっくり話すこともできるかもしれない。そう思いながら、バイクを置いた納屋に戻ろうとした時だった。
ふと、雨に濡れた花壇が目についた。そこには、黄色い花が咲いている。
(女郎花――)
吸い寄せられるようにそこに近づいていく。その時、数日前の記憶が蘇ってきた。
――私、女郎花の花が欲しい。
体育の時にそう言った結羽の声。しかし、なぜか清太はそのことを知っていたような気がした。彼女がその花を好きだということ。そして、ここに咲いているその花を摘んで、あの場所に向かったこと。
(どういうことだ?)
頭が混乱する。この女郎花を摘んで結羽の家のお墓に行った記憶が、まるで昨日の事のようにはっきりと思い出されてきた。確かにこの前の土曜日に、その場所に行って結羽と会ったのだが、それとは違う。事実ではないはずなのだが、どういう訳かそれを完全に否定できない気がした。
そこで、頭を振ってもう一度女郎花の方を見た。すると、その花が咲いているその奥に、何か白いものが見えた。それは、ずぶ濡れになった白猫だった。女郎花の陰になっていたので、近づくまで気づかなかった。サラサラとしていた毛並みは、雨にびっしょりと濡れ、目を閉じている。慌ててその体を抱き上げて納屋の中に戻ったが、その体は冷え切っている。
「しっかりしろ!」
清太は叫ぶ。そして、その白猫の体を温めるように、胸にギュッと抱いた。
清太――。
ふと、どこからか結羽の声が聞こえた気がした。周りを振り返るが、どこにも姿は見えない。すると、白猫が少しだけ目を開けた。
「お前……」
白猫を見下ろす清太の視線を、白猫は薄目のままじっと見つめる。
『結羽が連れていかれた……電話は駄目。位置を、探して』
今度は、はっきりとその声が聞こえた気がした。白猫は瞬きもせず、じっと清太の方を見ている。
「お前……なのか?」
白猫の方を向いて尋ねる。
『清太……私の体に頭を……』
そう聞こえたような気がして、清太は白猫の体にそっと頭を近づける。するとその瞬間、清太の頭の中に、鮮やかに一つの風景が浮かんだ。それは、地面に倒れている結羽、倒れるスクーターとスコップ、そして彼女の体を抱き上げて車に乗せる男。
その時、スマホがブルブルと震えた。結羽からの着信だと思って、慌てて白猫を一度地面に降ろして、ポケットからスマホを取り出す。
「えっ……?」
目を見張った。そこに表示されていたのは、見慣れない表示だった。
――結羽さんが位置情報の共有を開始しました。あなたの位置情報も共有しますか?
どういうことだと思いながら、反射的に共有のボタンを押すと、画面に地図が表示された。
(あれ……?)
一瞬、その場所が分からなかった。地図の表示範囲を広げて彼女がいる辺りを確認すると、どうやら風吹川添いの国道の辺りのようだ。そこは、高校から彼女の家に帰宅するルートとは全くかけ離れている。その表示が少しずつ移動していく。どこかへ移動中のようだ。
(一体、どこに――)
どんどん彼女の場所が動いていく。誰かの車に乗っているのだろうか。いや、そもそも、どうして彼女は今、位置情報を共有してきたのだろうか。それに、彼女は今日もウチに来ると言っていた。この移動している方向では、彼女の家からもウチからも、どんどん離れた方に向かっている。ふと、視線を地面に向ける。
「……このことなのか?」
白猫はぐったりとそこに横たわっていた。息はしているようだが、かなり疲れているのか、薄目を開けているだけだ。そこに座り込んで、白猫の頭に手を置く。
『清太……結羽を、助けて』
その声が聞こえたと思うと、白猫は目を閉じた。清太はすぐに立ち上がり、スマホを手にする。そして、電話を掛けた。何度か呼び出し音が鳴ってそれが途切れる。
『何? どうしたの?』
「母さん! すぐに……すぐに結羽のお母さんに連絡して!」
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