(2)

 智治は電話を切ると、すぐに車で帰宅した。すると、家では妻の晴代が昼ご飯を食べているところだった。


「どうしたんだ? 長野に帰るんじゃなかったのか」


「うん。どうせ明日から三連休でしょう。だから急いで行くこともないかなって。あなたこそどうしたの?」


「ああ……。ちょっと忘れ物があって取りに来た」


 智治はそう答えて、2階の書斎に行き、鍵を掛けた引き出しの中に入れていた自分のモバイルパソコンと何冊かのファイルを取り出し、手提げ袋に入れて再び家を出た。


 組合本店に戻ると、午後2時頃になって彼から電話がかかってきた。どうやら、自宅にもいくつか資料がありそうなので、もう少し探してから行きたいという。それで、4時過ぎに県の博物館の駐車場で待ち合わせして、警察に行くことになった。


 それから日常業務をこなしていると、あっという間に4時近くになっていた。4時半からの臨時理事会のために理事たちもパラパラと集まり始め、奥の会議室に入っていく。まだ清勝は来ていない。今は忙しい時期だろうから、来るのは直前だろう。智治は自分の脇机の中に入れていたモバイルパソコンとファイルを入れた手提げ袋を取り出して、「少し出かけてくる」と部下に伝えてから、事務所を出た。


 組合の商用車に乗り込んで、急いで約束の場所に向かう。いつの間にか空が真っ黒な雲に覆われて、夕立のような雨が降っていた。ワイパーを動かしながら、アクセルを踏む。


 待ち合わせした県の博物館の駐車場には、平日の夕方とあってほとんど車は停まっていない。駐車場内を回ってみたが、組合の商用車の姿は見えない。既に時刻は4時15分になっているが、まだ資料を探しているのだろうか。仕方なく、智治は駐車場の端の方に車を停めて待っていた。


 それから5分ほどした時だった。この車と同じような組合の商用車のバンが1台、駐車場に入ってきた。その車は智治の車の隣にバックして停めると、運転席から男が降りてきて、こちらの車の助手席のドアを開けた。


「すみません。遅くなりました」


 松上はそう言ってカバンを抱えてドアを閉めた。彼は鞄のチャックを開けて中からタオルを取り出し、濡れた顔を拭く。


「遅くなったのは別にいいんだが、一体どういう事なんだ。どうして急に自首を」


「もう駄目だと思いました。部長も相当調べているみたいだし、専務からも今日、『全部お前のせいにして告発する』って言われて。もう逃げられないって思ったんです」


 松上は俯いて言った。やはり、専務は松上を切って、今日の臨時理事会で告発するつもりなのだ。しかし、彼が自首して正直に話せば、専務だって逃げきれないのではないか。いや、重要な資料は専務が持っているのだ。その他にも、あの狡猾な専務のことだから、何か手を打っているのかもしれない。


「大丈夫だ。今、自首すればお前の罪も少しは軽くなるだろう。専務のことも含めて何でも正直に話せばいい」


 そう言うと、松上は少し頷いた。


「それで、部長の方の資料も持って来てくれましたか?」


「ああ。後ろの袋に入っている」


「ありがとうございます」


 彼はホッとした様子で、カバンの中にタオルを押し込んだ。


「じゃあ、風吹警察署に行けばいいか」


 そう言ってサイドブレーキを解除しようとした時だった。


「ちょっと待ってください」


 急に松上が口を開いた。「何だ」と言って、彼の方を向く。すると松上はカバンからさっと何かを取り出した。そして、俯いていた彼の顔がこちらを真っすぐに見つめる。


「動くな」


 急に口調が変わった松上の顔を見つめる。彼は無表情だった。そして、視線をゆっくりと下ろした先に、彼の手に握られているものが見えた。


「なっ……」


「これ、分かります? 分からなければ試してみてもいいですけど」


 小さな黒い鉄の塊。それがこちらを向いている。銃だと分かると、無意識に両手が上がった。


「ど……どういうつもりだ」


「ハハ……何を言っているんですか? 見ての通り、あなたを脅迫しているんですよ」


 そう言うと、彼は胸ポケットからスマホを取り出した。


「もしかして、俺一人だけなら何とかなると思ってます? でも、止めた方がいいですよ」


 松上が言いながらスマホを片手で操作し、その画面をこちらに向けた。


「誰でしょう、これ」


 じっとそのスマホの画面を見つめる。そこには、ワゴン車のような車の中で、見覚えのある制服を着た少女が倒れているのが写っていた。そして、松上は次の写真を見せる。


「結羽……」


 そこにははっきりと結羽の顔が写っていた。手を縛られ、口にもタオルのようなものを巻かれて動けなさそうだ。全身の力が抜けていくような感じがした。


「俺をどうにかしても、結羽ちゃんは助からない」


「お前……何を」


「ハハハ! まあ、保険ですよ、保険。あんたが俺の言うとおりにすれば、彼女も、そしてあんたも助かる」


 両手を挙げたまま、彼の顔を睨むが、彼は楽しそうにこちらを見ていた。


「さあて、これからどうしますかね」


 彼はスマホをポケットにしまい込んだ。しかし、その手の拳銃はこちらを向いたままだ。


「お前……こんな事をしても、逃げられないぞ。俺はお前が横領の犯人だと薄々分かっているし、その事は他にも伝えている人がいるんだ」


「理事長だろ?」


 サラッと松上は答えると、ニヤニヤと笑った。


「でも、それ以外に俺が横領したと信じる人がどれくらいいるかな。あんたと理事長しかそれを疑っていない。それに証拠だって、どうせまだ中途半端にしかないんじゃないの」


「くっ……しかし、お前に金を預けていることを白状した顧客がいるんだ」


「俺に金を……? フフフ。そうか」


「何がおかしい」


「いや……別に」


 松上はそこで黙った。しばらく沈黙が続いていく。ここに来る時にはフロントガラスを叩くように降っていた雨は、次第に小降りになってきた。ふと、彼が腕時計を見る。


「もう、臨時理事会は終わる頃だろうな」


「理事会——」


 そこでハッとした。今日の臨時理事会の事は部長級以上しか知らないはずだ。しかも彼はいつも通り午前中から外に出て、少なくとも本店には戻っていない。だから、理事が本店に来ている姿も見ていない。


「まさか……専務が……」


 そう呟くと、松上はニヤッと笑っただけで何も言わなかった。すると、ポケットに振動を感じた。マナーモードにしているスマホがブルブルと着信を告げている。


「電話だ。……出ても、いいか」


「誰だ?」


 スマホを取り出して画面を見つめる。すると、「斎木清勝」の表示があった。


「斎木だ。斎木理事」


「ほう……。じゃあ、俺に貸せ。余計な事は喋るな」


 松上は銃口を向けたまま言った。汗をかいている右手で持ったスマホをそっと松上の前に出すと、彼はさっとそれを奪って、スマホに触れた。そして、こちらに近づける。どうやらスピーカーモードにしたらしい。


「もしもし——」


『智治か? 今、どこにいる』


「ちょっと外に出ているが……」


『お前、本当にやったのか?』


「やった……? 何をやったんだ」


『バカヤロウ! 横領に決まってるだろ! 本当に組合のカネを、横領したのか』


 そこまで清勝が言った時、松上が通話を切り、スマホを車のダッシュボードに置いた。清勝が言った言葉が頭を巡っていく。


(横領……。どうして俺が……?)


 そう思った時、再びスマホが振動した。しかし、今度は松上は「出るな」と言ってそのスマホの上に手を置く。そして、ニヤニヤしながら言った。


「犯罪者になった気分はどうですかね」


「一体、どういう事なんだ……」


「まだ分からないのかよ! どうして俺が一人で横領なんかできるんだよ! 上司が指示したからに決まってるだろ。俺はあんたの指示で、やむなく顧客の金を横領せざるを得なかった。むしろ可哀想な被害者だよ。それを内田専務が告発してくれた」


 ハハハ、と松上は笑った。血の気が引く気がした。そうか。そういう構図にしたのだ。智治が部下を使って横領させる。そして、それを明らかにしたのは、あの内田専務だ。先に理事会を開いて理事たちを丸め込んでしまえば、理事長だけが反対してもどうにもならない。それに自分達には明確な証拠はないが、専務の方はいくらでも証拠となる偽造した証書なども出せるだろう。何しろ、自分達がやっていた事なのだから。


「分かった? 自分の立場」


 松上が低い声で言った。


「あんたは俺を人質にして逃げるんだ。まあ、安心しなよ。俺の言うことさえ聞けば、すぐに結羽ちゃんは解放するさ。ただ、あんたにはしばらく俺に協力してもらう」


「くっ……お前という奴は……」


「まずは、斎木理事に会いに行こうじゃないか」


 フフフ、と松上は低く笑う。


「斎木理事に直接会って、あんたの口から、『自分がやった』と言うんだ。証書を偽造して顧客の金を横領したってね」


「どうしてそんな事を……」


「フフ……旧友に別れを言いに行くんだよ。さあ、電話しろ。今から行って説明するとだけ言えばいい。余計な事は喋るな」


 松上は銃口をこちらに近づけながら、スマホをこちらに差し出した。じっとりと汗をかいた手でそれを受け取り、着信履歴から清勝に電話をかける。呼び出し音はすぐに切れた。


『おい! どうしたんだ、一体』


「待て。落ち着け」


『落ち着いてられるか! どういう事なのか言え』


「とにかく……もう少ししたらお前の家に行く。家で待っててくれ」


 それだけ言うと、再び電話を切った。松上は頷く。


「よし。じゃあ、斎木理事の家に行こうか」

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