〈7日目/表〉

 どれくらい眠っていたのだろうか。顔を上げて窓の外を見ると、東の空がぼんやりと明るくなってきていた。


 車のドアを少し開けて、アクセルの近くに置いていた外したヒューズを外に投げ落とした。再び軽くドアを閉めた時、隣で寝ていた白猫が目を開けた。


「ふああ……もう朝?」


 まだ眠そうにしながらこちらに顔を向けた。


「ごめん。起こしちゃったな」


「ううん、大丈夫。行こうよ」


 彼女の行こうという言葉に頷くが、次に行くべき場所はどこだろう。きっと松上は普段どおり出勤するだろうし、その共犯者の男の方はどこに住んでいるのかすら分からないから動きは全く読めない。ただ、ここにいるのでは何もできないことだけは確かだ。


 再びドアを開けて外に出る。白猫が出た所で、ドアに思い切り体当たりしてそれを閉めた。そして、地面に散らばったヒューズを白猫とともに草むらの方に隠した。


 丘の上にある駐車場の上を、やや冷たい風が吹いていく。ただ、山からのその風が心地良い。深呼吸すると、その新鮮な風が体の隅々まで行きわたるような気がした。


「行こう」


 そう言って駆け出すと、白猫も後ろからついてきた。少し走ると、甲府盆地の朝の風景が広がる。空には雲は僅かしか見えず、今日もよく晴れて暑くなりそうだ。


 どこに行こうかと一瞬考えたが、ここからだと、自分の家が一番近い。そう思って、とりあえずそこに行くことにした。目的地が決まれば、後は走って行くだけだ。山から下りてきた新鮮な風に乗って、飛ぶように駆けていく。


 自宅に着くと、既に青いトラックは無く、軽トラだけが残っていた。祖父母と父は果樹園に行ったのだろう。母は家事をしてから、清太と安那を送り出し、後から軽トラで果樹園に行くのが日課だ。まだ、納屋の中には清太のバイクが停まっている。


 玄関の脇に白猫と座って待っていると、引き戸が開いて、清太が姿を現した。彼はハッとした様子で、こちらを見つめる。それに対して、しっかりと顔を向けて言った。


「頼む。結羽を、守ってくれ」


「清太、お願い! 力を貸して」


 白猫も同じように彼を見上げる。もちろん、その声が伝わるはずもないが、清太はこちらを不思議そうに眺めてから、スマホのカメラを向けて写真を撮った。座り込んだ彼の手が三毛猫と白猫の頭をそっと撫でたが、彼は急に立ち上がって辺りを見回した。そして、再びこちらに顔を向ける。


「行ってきます」


 清太はそう言ってからバイクに跨ると、あっという間にその姿は見えなくなってしまった。



******



 次に向かったのは組合本店だった。正面玄関から中を覗くと、前と同じように智治が奥の方に座っていて、その手前には松上が自分の席に座っている。普段通りの風景だ。すると、智治の近くに誰かが寄ってきて、二人でどこかに姿を消した。白猫とともに通用口の方に回って様子を見ていると、智治とその男が出てきた。男の方は前に「専務」と呼ばれていた男のようだ。二人は灰皿を囲むように立って、タバコに火をつける。


「実は今日、緊急の理事会を開くことになった」


「理事会……それは、どういう事ですか」


「ちょっと緊急の議題が出ていてね。経営上の重大な話なんだよ。だから、部長以下は入れない」


「それは、理事長もご存じなんですか?」


 智治が重ねて尋ねると、専務の方は露骨に嫌な顔をした。


「いいんだよ。もう既に全理事に連絡を取っているんだ。これは実務を仕切る私の権限だ」


 専務はそう言ってタバコの煙を吐き出す。


「君もそろそろ、自分の立場をちゃんと考えた方がいいぞ」


「……どういう事でしょうか」


「いつまでも怪しい行動を取るなということだ」


 それだけ言うと、専務はタバコを灰皿に押し付けて、通用口から中に戻って行く。すると、白猫がパッと智治の前に飛び出した。そしてその前に座って彼を見上げる。


「うん? 白猫か」


 智治はそう言って不思議そうに白猫を見つめた。


「お父さん。私はきっと大丈夫。だから、松上を絶対に逃がさないで」


 白猫を見つめていた智治は、タバコの火を灰皿で消して、そこに座り込む。そして、白猫の頭をそっと撫でた。


「さあ。しっかり仕事しないとな」


 それだけ言って、智治は立ち上がって、通用口のドアを開ける。そのドアがガチャンと閉まるまで、白猫はその姿を見上げていた。



*****



 次第に空に雲が広がってきた。組合本店の様子をしばらく見ていたが、昼頃になって智治も一人でとこかに出かけてしまった。それを見て「結羽の家に行こう」と言った。白猫も頷いたので、一緒に走り出す。


 地面を蹴ってまるで浮き上がるように前に飛んでいく。それは風を切るというよりも風に乗るという感じの方が近いのかもしれない。風と共に舞う。そんな心地よい感じだ。


 坂を上がりさらに駆けていくと結羽の家に着いた。後ろから白猫が言う。


「平日だから、誰もいないわよ。お母さんも仕事で夕方まで帰らない……。あれ?」


「どうかした?」


「車庫にお母さんの車があるから」


 そこには白の軽自動車が置いてあるのが見えた。白猫が「ああ」と言って頷く。


「そう言えば明日から3連休だよね。……確か、お母さんは今日から休みを取って、長野にある実家に行くんだった。お婆ちゃんが入院しているから、お見舞いに行くって」


「そうか。じゃあ、これから出かけるってことか」


「そうね」


 すると、しばらくして玄関が開いて晴代が外に出てきた。大きめのバッグを玄関に置いて、家の鍵をかけている。


「待てよ……。お母さんが家にいれば、結羽が事件に巻き込まれたとしても、早く気が付くんじゃないかな」


「それは……そうかも」


 白猫が答えると、三毛猫はすぐに庭の入口に走り、その真ん中に座り込んだ。白猫もすぐその隣に座り込む。軽自動車のエンジンがかかり、こちらに近づいてくる。すると、邪魔をするように座っている猫たちに気づいて、ブレーキを掛けた。


 プップッ!


 車のクラクションが鳴った。三毛猫はその間に車のボンネットの上に飛び乗った。晴代が慌てた様子で運転席から降りてくる。


「何なの? この子は」


 そう言って、三毛猫の体を抱き上げようとした。


「あれ? お前、メルじゃ……」


 晴代は三毛猫の姿をじっと見つめる。その時、白猫も走ってきて、その足にしがみついた。


「お母さん! お願い。行かないで」


 白猫は必死に叫ぶ。すると、晴代は白猫の方を見つめた。もう一度、白猫は彼女の顔を見上げて叫ぶ。


「お願い! 今日だけは、家にいて」


 山から強い風が吹いてきた。パーマを当てた晴代のショートの髪が揺れる。すると彼女は不思議そうに首を傾げた。


「結羽……?」


 それに思わずハッと息を呑んだ。


「いや……気のせいね。風の音かな。まあ、いいわ。明日からだって3連休だし。たまには家でゆっくりして、夕飯作ってから行こうかな」


 そう言って晴代は白猫の頭を撫でてから、車に乗り込む。そして、庭の端の方に車を動かしてから、再び家の中に戻っていった。その様子を見ていた三毛猫は、不思議そうに言った。


「さっき、お母さんは、『結羽』って言ったよね? まさか、言葉が通じたのかな」


「違うと思うけど……」


 白猫も首を傾げた。しかし、晴代ははっきりと「結羽」と言った。どうしてそう思ったのだろう。いずれにしても、結果的に晴代が出かけるのを止めることができたのは大きな成果だ。



 ******



 朝は綺麗に晴れていた空だったが、いつの間にか南アルプスの方から雲が広がってきて、ポツポツと雨が降り出してきた。夕立が来るのかもしれない。


 三毛猫と白猫は車庫の近くに潜んでじっと待っていた。清太の父への傷害事件が起こるのは今日の夕方。そこに智治がいたのだとすると、脅迫されているのだろうから、その前に結羽は拉致されていることになる。松上たちは横領金と逃走車まで準備しているから、このまま何も起こらない事は考えにくい。それに、もし、人間の結羽を拉致するならば、スクーターでの帰宅途中であることは考えにくい。やはり、彼女の自宅でスクーターを降りたところを拉致するのが一番あり得そうだ。


 頭の中で、結羽を拉致する松上たちの動きを考えてみる。いくらやせ型の結羽とはいえ、人間一人を拉致するとしたら、どう考えても松上一人でなく、共犯者の男も一緒だろう。大人の男二人を相手に、果たして自分たち二匹の猫だけで彼女を助けることができるだろうか。


「あのさ。最悪の場合を考えておきたいんだけど。結羽が奴らに拉致されてしまったときのこと」


「うん……」


 白猫も真面目な顔で答える。


「どうやったら、結羽の居場所を伝えられるかな」


「それは……スマホよね。スマホで清太に位置情報を伝えればいい。お母さんだと気づかないかもしれないから」


「うん。でもそれはきっと、奴らも気にしてるはず」


 三毛猫はしばらく考えてから言った。


「あのさ。家に余っているスマホはある?」


「スマホ……? さすがにそれはないかも。どうして?」


「本物の結羽のスマホのおとりにできないかなって。奴らがそれを結羽のスマホだと思っているうちに、俺が結羽のスマホを持って奴らの車に乗り込んで、GPSアプリで清太に居場所を伝える」


「なるほどね……。でも、真羽もスマホを持ってるけど、たぶん学校に隠して持って行ってるだろうし……」


 すると白猫はハッとしたように言った。


「ねえ、一つあるわよ」


「本当に? どこ?」


「お母さんのスマホ」


 それに三毛猫は大きく頷いた。二人で急いで玄関に近づいていく。三毛猫は引き戸を少しだけ開ける。そして、白猫を先に入れてその後ろから家の中に入った。


 白猫とともにそっと玄関を上がってリビングの方の方を見ると、晴代はテレビをつけたままソファにゴロンと横になって寝ていた。その前にあるテーブルの上に黒いハンドバッグがある。白猫はテーブルに飛び乗ってバッグの中を覗いて頷いた。そして、そこに頭を入れて、スマホをくわえてこちらに走ってきた。


 三毛猫はそれに頷いて、白猫とともにそっと外に出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る